第85話 医師と入院

【兵庫県伊丹市 十月とつき医院】


異常に巨大な病院だった。

雛子は周囲を見回す。複数の棟はそれぞれが5~6階はあり、敷地面積は膨大。明らかに地域の中核病院と言っていい規模に見える。その割に患者はほとんどいないのが不思議だが。もっとも、灯りのついている区画はごく一部だ。まだ外は夜で、豪雨も続いている。

雛子が座っているのは外科の前に並んだ椅子。隣では竜太郎も座っている。負傷の治療のためにここに来たのだ。さっきまで重傷者の処置で戦場のような有様だった。比較的軽傷(とはいえ矢が肩を貫通していたわけだが)の雛子は後回しである。ここに来るまでに応急処置は受けていたとはいえ。幽霊を診れる医者がいたとは驚きだったが。

「小宮山さん。どうぞ」

「あ、はい」

看護師に呼ばれて返事する雛子。

入った診察室は、ごく普通に見えた。医師も人間の男性だ。病院名からすると恐らく彼が十月とつき医師であろう。

雛子は椅子に座る。

「座られましたか」

「あー。はい。よろしくお願いします」

「はい。じゃあ診ますけど、人間に見えるようにできますか」

「ご、ごめんなさい。ちょっと無理です……」

「わかりました。ではでは」

医師が引き出しから取り出したのは昔ながらの片眼鏡モノクル

「ごめんなさいね。私は霊視ができんもんでね。これの助けでようやくなんとかやってるんですよ」

「は、はあ」

曖昧な返事を返す雛子。だが、確かに医師から雛子が見えるようになったようだ。なるほど。これなら幽霊も診察できるだろう。

「じゃあ診ますねー」

医師の指示に従い、雛子は肩の負傷を露わとした。


  ◇


「不思議に見える?」

診察室の前で待っていた竜太郎が振り返ると、検査着を身に着けた片腕のない女性が、立っていた。犬神千尋。先の戦いでの本隊メンバーの一人である。彼女も先ほどまで外科手術を受けていたはずだ。

「犬神さん。大丈夫ですか」

「この程度なら、すぐに治るから」

「それならよかった」

千尋は先の戦いで右腕を失い、頭蓋骨にヒビが入り、頭皮がえぐられるというダメージを受けている。それがすぐ治るというなら喜ばしい話だが。

彼女以外にも十人ほどがこの病院に担ぎ込まれた。先の戦闘の負傷者である。竜太郎自身はほとんど怪我らしい怪我をしていない。体力を消耗しきって一時的に動けなくなっていただけだ。それも休んで少しは回復している。一応、手の空いた看護師(妖怪である)に見てもらったが。

千尋は、竜太郎の横に腰かけた。

「仕事とかは大丈夫ですか」

「へいき。私の職場、ここだもの。看護師なの」

「ああ、なるほど。それで治癒の術を?」

竜太郎は納得した。この十月医院は聞くところによると、代々続く人間の医者の家系が継いでいるらしい。その家系の特異な点は、江戸時代の頃から妖怪と関わり続けてきたことだとか。

ここは関西でも数少ない、妖怪を見てくれる医院なのだ。看護師として治癒の術を持つ妖怪を雇っていてもなんら不思議なことはない。

竜太郎の問いに、しかし千尋は首を振った。

「いいえ。ここを仕事先に選んだのは別の理由。食べていくため」

「食べていく?」

「ええ。人肉を」

「!」

「私の一族の胃袋は、人肉しか受け付けない。昔は人間を襲って食っていたけれど、やがて争いになった。やがて私たちの一族は人間と協定を結んだ。生きている人間は決して襲わない。他の妖怪から守るし、助けを必要としているなら助ける。けれど病や寿命、事故で亡くなった人がいたら、葬る前に私たちが食べる。そういう盟約。

何百年も人間とはうまくやっていたけれど、やがて時代が変わった。人間は私たちの存在を次第に忘れ、土葬から火葬に代わり、盟約を結んだ山間部の村々は過疎の波に覆われた。食っていけなくなった。だから私は口減らしのために都会に出てきたの。ここなら、医療廃棄物。人間から切り取られた色んな部位を分けてもらって食べられるから。

おぞましい?こんな私が」

千尋の言葉に、竜太郎は首を振った。当事者同士が話し合って決めたのであれば自分が口出しすることではない。誰にも迷惑は掛かっていない。法令違反はあるかもしれないが。

「そう。よかった。

あなたと話ができてよかった。前から話したいと思っていたから」

「そうなんですか」

「ええ。叔父を殺した男がどんな人か、興味があった」

「!?」

そこで、竜太郎は思い出した。もうだいぶ前の戦い。実際にはほんの三か月前、雛子と出会う直前に六甲山系の奥深くで起きた死闘の記憶を。

アフリカゾウほどもある、巨大な山犬との戦い。

「叔父は一族の裏切り者だった。盟約を破り、人間を狩った。だから一族を追われたの。でも彼は蛮行をやめなかった。私は彼の行方を捜していたけれど、見つけたと思った矢先に姿を消した。どこかへ逃げたのだと思っていたけれど、あなたがコミュニティに加入して真相がわかった。あなたが殺したのね」

竜太郎は思い出す。以前自宅を東慎一に襲われた後、それまでの妖怪ハンターとしての活動記録の写しをバックアップとして東洋海事ビルヂングの図書室に置いたという事実を。それを千尋は読んだに違いない。

「……僕をどうするつもりですか」

「どうもしない。あなたがやったことは、本来私たちが努めなければならなかったことだもの。一族に代わってお礼を言うわ。叔父を殺してくれてありがとう。おかげで、身内の血で手を汚さずに済んだ」

「そんな。僕は———自分のやるべきことをしただけです」

「ええ。だからよ」

それで話は終わりだった。千尋は立ち上がって話に区切りをつけたのである。

そうして、彼女は去っていった。

竜太郎は、しばし呆然としていた。


  ◇


大きな、しかしひとのいない病院だった。

静流たちが聞いたところによると一種の「隠れ里」らしい。表の小さな病院の建物までは普通の人間でも入ることができるが、そこより奥は秘密を知っている一握りの人間と妖怪、そして認められた患者しか入ることができないのだと。

その一角にある憩いのスペースで、静流とノドカは腰かけていた。二人ともへとへとだ。静流はあのホテルで死闘を繰り広げたし、ノドカは天使に乱暴されたから。

「やっぱり、子供。生まれるみたい」

「そっか」

「どうしよう。私、ちゃんと生まれてくる子供を育てる。って言っちゃった。たぶん堕胎もできないって」

先の戦いが終わって、まだ数時間しか経っていない。後始末は大変だった。大勢の人たちが車でやってきては不思議な術でたちまちホテルを修復し、あるいは負傷者に手を貸して車に運び、この病院まで連れてきたのだ。ノドカや静流も一緒に。

死屍累々。と言っていいような有様だったから、医師や看護師らは大変な騒ぎだった。重傷者の治療が行われ、ようやくノドカが診てもらえたのが先ほど。

どうも、何らかの呪い。いや、祝福がノドカの胎には施されているらしい。確実に子が生まれるための複雑で強力な妖術が刻み込まれているのだと。それは母胎を守り、出産が安全に行われるための術だと。下手にその術に手出しする医者がいれば死ぬだろうと言われた。子が産まれなくなるあらゆる試みは失敗に終わるはずだ。

だから。生まれればどうすればいいかを考えねばならない。しかしノドカは中学生だ。ここは異郷であり、家族も父しかいない。

それでも、助けてくれるひとはいる。今隣に座っている少年のように。

「大丈夫や。きっと。滅茶苦茶たくさんの人が、今日は助けてくれた。これからも助けてくれるって」

「そう……かな」

「そうや。だから大丈夫。安心しいな」

「うん」

静流の言葉に、ノドカは頷いた。そうだ。建御名方だけではない。たくさんの人が助けてくれたおかげで、自分は今無事なのだ。

それだけでも、奇跡に違いなかった。

しかし。奇跡の代償に失ったものを想い、ノドカの胸が痛む。

「建御名方のおじさん、死んじゃったんだよね」

「いや。百年くらい寝るだけや、って言うとったけど」

「じゃあ、墓参り……じゃない。お参りした方がいいね。早くおじさんが生き返るように」

「そやなあ。人間の想いから神は生まれるって言うてたもんな」

静流は考え込む。どこの神社だろう。日本中に建御名方を祀る神社はあるらしいから、調べたらすぐ見つかるだろうが。

そんな風に話し込んでいたふたりは、別の人がやってきたのに気が付いた。黒いスーツを着て、手に帽子を持ったふくよかな体形のサラリーマンに見える。この人も患者だろうか。あるいは見舞いかもしれない。今日は大勢怪我をしたから。

ほとんど人がいない中、静流たちが会釈するとサラリーマンも応じる。

「失礼。横をいいですかな」

「ええで」

「ではでは」

許しを得てよっこいしょ。と座ったサラリーマンは、二人の方を向いた。

「あなた方はどこか怪我を?」

「あー。自分らは平気やねん。ただなあ。いろいろあって」

「そうですか。今日は大変だったようですからね」

「なあ。おっちゃんも妖怪なん」

「ええ。その通り。私も妖怪のひとりです。あなたは人間のようだ。そちらのお嬢さんは……ほぼ人間ですが、少しばかり違うようですね。子を宿しておられる」

サラリーマンの指摘に、ノドカは思わず下腹部を抑えた。そんなことまでわかるのだろうか。

「おじさんは、何でもわかるんですか?」

ノドカの問。それに、サラリーマンは首を振った。

「いいえ。私にわかることはごくわずかなことだけです。それでも、古い知り合いが亡くなった気配を感じて今日はこちらまで出向きました」

「亡くなった……」

「ええ。ですが、妖怪はいずれ蘇ります。記憶している人がいる限りは。お二人とも、亡くなった方のことを忘れないであげてください。そうすれば、彼らはいずれ蘇るでしょうから」

「はい」

ノドカは、深く頷いた。静流も。言われるまでもない。今日亡くなったひとたちのことはずっと忘れないだろう。建御名方だけではない。敵だった相手のことも。

「お嬢さん」

「何でしょう」

「そのお腹のお子さん。恐らく、この世界の趨勢を決定づける重要なピースの一つとなることでしょう。大切に育ててあげなさい。その結果如何で、何千万人、何億人という命が左右されることになるはずですから」

「―――!」

「今日はお話ができてよかった。私はこれで」

サラリーマンは立ち上がると一礼。二人の前から去っていく。

それを、静流とノドカは見送っていた。

「……あの人」

「不思議なおっちゃんやったな……」

「うん」

今日は不思議なことずくめだった。二人にとっての不思議は建御名方との出会いから始まったのだが。

これは、この先もずっと続いていくに違いなかった。

やがて、サラリーマンと入れ違いになるように、また新たな客が二人のところへとやってきた。片方は火伏である。彼が連れていたもう一人の男性は、二人にとってなじみ深い人物であった。

男性を見たノドカは声を上げる。

「―――お父さん!」

男性は———ノドカの父は、ノドカに駆け寄ると抱きしめる。朝、家を出て以来の再会。もう生きては会えないかもしれないと覚悟していたノドカは、父をしっかりと抱きしめ返した。

その横を火伏は通り、静流の前までやってくる。

彼に世話になりっぱなしだった静流は、頭をぽりぽり。

「ノドカのお父ちゃん連れてきたんやな」

「さすがにな。娘が誘拐され、強姦されて妊娠した。ともなると秘密にするわけにもいかん。事情は全部話した」

「そっか」

「敵の親玉をやっつけたことも話したが、これからどうするかはまだ分からん。話し合って決めなきゃな。だがまあ、すぐじゃあない。ひとまず休むべきだ。坊主。お前もだぞ」

「へ?」

「そろそろ帰らないと、家族が起きるだろう。さ。もう帰るぞ」

「あー。そっか。そやな……分かった。

ノドカ。また今度なー」

そうして、静流は火伏と共に病院を後にした。

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