第81話 ダビデの如く
「『主は救を施すのに、つるぎとやりを用いられないことを知るであろう。この戦いは主の戦いであって、主がわれわれの手におまえたちを渡されるからである』」
剣を振り下ろす手が止まり、マステマは驚愕の表情を浮かべた。一歩間違えば彼の額が砕けるところだったからである。彼は、自らの左手で受け止めた石塊をまじまじと見、そしてそれを投げつけた男に視線を向けた。
「そなたは———そうか。ダビデに並ぶわざを持つ者が、今の世にいたか」
場にいたすべての者が、絶句していた。吹き抜けのロビーを支配していたのは天使だったはずだ。しかしその定めは覆された。聖書の言葉と、たった一発の石弾によって。
皆が視線を三階へと向ける。その柵のむこうに立ち、
竜太郎だった。
「やはり天使か。英語で通じるかな。僕もラテン語やヘブライ語の心得はなくてね」
「英語で構わぬ。我が名はマステマ。悪霊の軍勢を率い、人を試す使命を主より与えられし者」
「マステマか。そりゃ大物だな。この惨状にも納得がいった。
僕も名乗ろう。山中竜太郎。妖怪ハンターだ。短い付き合いになるだろうけどよろしく」
竜太郎は、そのまま三階から飛び降りた。見事な五点着地を決めて立ち上がり、マステマに対して向き直る。
「聞いておこう。女の子をさらった目的はなんだ」
「あの娘には私の子を産んでもらう。それだけの事」
「天使の子―――ネフィリムか。なるほど。これほどの大ごとになった理由は分かった。だが許すことはできない。念のために聞いておく。降伏するつもりはないか」
「笑止。ここに至るまでに多くの犠牲を払った。止めることなどできぬ」
「だろうな。ならば―——勝負だ」
竜太郎は身構えた。手に、まるで剣を握ったような構えで。いや、実際に彼は見えない武装を握っていた。負傷した雛子から借り受けた鉈を。
気負う様子のない敵に、マステマの警戒心はたちまち膨れ上がった。故に彼は、初手で致命的な攻撃を放ったのである。
マステマを視た竜太郎は、たちまちのうちに塩の柱と化す。そのはずだったが。
「『わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている』」
「―――!」
マステマは絶句した。何も、起きない。そう。ただの人の子であるはずの男は健在だったのである。
竜太郎が唱えたのは創世記30章30節。聖なる力を持ったことばを、相応しき者がとなえれば現実となる。マステマが―——天使が降臨したこの空間においては。言霊は神と天使だけのものではないのだ。聖書を信じているかどうかも関係ない。すでにあらゆる天使は知っているからだ。聖書に書いてある言葉は事実ではないと。
もちろん、ことばだけでは天使の術に抵抗することなどできはしない。ヒトが唱えてもせいぜい術の効力をわずかに遅らせるだけだ。ことばの威力は術者によって定まるが故に。されど、神にも戦いを挑むほどの勇士ならば話は違ってくる。山中竜太郎と名乗る男はことばを足掛かりに使い、術に抗したのである。
マステマは剣を両手で握り、腰をわずかに落とした。この男は危険だ。ただの人の子と侮っていては勝てぬ。
故にこの天使は、自ら踏み込んだ。剣を突き出す。対するヒトの男も応じる構え。剣と不可視の鉈が激突。たちまちのうちに無数の火花が散っていく。恐るべき水準の連続攻撃を後退しながら竜太郎は捌く。防戦一方に見えたが、そもそも人間が高位の天使相手に防戦できることの方が異常なのだ。あまりの光景に、その場にいた者すべてが啞然としていたが。
「―――彼を助けろ!!奴は勝てない相手じゃない!!」
我に返った一人が叫んだ。崩壊していた妖怪たちの士気が蘇る。武器を取って立ち上がり、妖術によって竜太郎の動きを加速させ、あるいは爪を伸ばして天使の背に襲い掛かったのである。
対するマステマは、虚空より剣をもう一本引き抜き二刀流の構え。左手で竜太郎と渡り合いながら、背後から来た複数の妖怪の攻撃を剣で捌き始める。
今までの世界を破壊せんとする者と守ろうとする者たち。二つの陣営の死闘が始まった。
◇
静流とクリスティアンのふたりは、非常用階段を駆け上がっていた。目指すは最上階。静流に委ねられた芽は、はっきりとそこを指していたからである。もっとも。
「―――止まれ!!」
クリスティアンの警告に従い、静流は足を止めた。前方を見る。何かが階段の折り返しのところに設置されている。張り巡らされているのはワイヤーと……
「また爆弾か」
先ほどと同じクレイモア爆弾であった。妖怪は機械には反応しないがワイヤーに引っかかれば爆発はする。今回の作戦でこの手の武器に関する知識を豊富に持っているのは竜太郎くらいしかいない。ましてや階段そのものを破壊される可能性も鑑みれば、突破は困難だ。
「迂回するぞ」
ふたりして廊下に出る。進む。次の階が最上階だ。ここで阻止されたということは、恐らく出迎えがあるはずだった。
果たして。
ふたりの予想通り、前方。非常灯に照らされた豪奢な廊下の中央付近に、仕立ての良いスーツを身に着けたオールバックで眼鏡の男が、立っていた。
奴のコードネームは"エシュ"。
「ここまでたどり着いたか、天乃静流。そして日本の
狼男の言葉はよく響いた。このような状況にも関わらず。いや、このような状況だからこそかもしれないが。
「ノドカは返してもらう。そこをどくんや」
「断る。あの方は我が主君の花嫁となられた。お前の出る幕ではない」
「そうか。なら力づくで通してもらうで」
静流が前に出て頭部を守る構え。その後ろでクリスティアンが
対する狼男は、その本性を露わとした。全身が膨れ上がり、スーツが弾け飛ぶ。剛毛が体を覆い尽くし、頭部をはじめとする骨格が大幅に変形。たちまちのうちに2メートル近い獣人が出現していたのである。前回は本気ではなかったのだろう。あの時以上に筋肉が隆起し、凄まじい威圧感を放っていた。
敵が身構えるより早く、クリスティアンは杖を振り下ろしていた。回避の余地もない強烈な音の壁が、廊下を反響しながら狼男に向かって襲い掛かる。
対する狼男の防御はただ、前進するだけ。それで事足りた。
「―――!?」
視認できる速度ではなかった。ただ、衝撃波を伴って通り過ぎていった
愕然として振り返ったふたり。その視線の先、今来た廊下の向こうに立っていたのは自然体の狼男である。
彼はまるで、生徒を前にした教師のように言った。
「初歩的な理科の問題だ。音の周波数は速度によって変わる。それはすなわち、十分に早く動けば音の攻撃が有効になる周波数から外れる、ということだ」
「―――ドップラー効果……!」
クリスティアンは絶句した。この狼男は時速何百キロメートルで走り抜けていったというのか。そこまで早く動かれては音の攻撃で致命傷を与えるのは難しい。
敵の意図もこれで理解できた。高速を発揮できる直線の廊下で戦うために、階段を爆弾で封鎖したのだ。
「さあ。どうする?」
狼男を前に、ふたりは身構えた。
◇
破壊されたホテルの玄関口。そこに残された犬神千尋は、豪雨を降らせる天を見上げた。
静かだ。あらゆる音は雨音に飲み込まれて聞こえてこない。中では激しい戦いが繰り広げられているだろうに。いや、千尋の聴力が衰えているのかもしれないが。負傷は重い。
と。
雨の向こうから人影。人払いされているというのに。間違いなく妖怪だろう。敵か味方かは解らないものの。
敵だったらおしまいだ、と思いながら、相手が近付いてくるのを待つ。
やってきたのは、壮年の男だった。ざんばら髪で上着を羽織った肉体は屈強に見える。その外見的特徴を、千尋は聞いて知っていた。
「建御名方神?」
「おう。そういうお前は―――またえらく若いカミだな」
「一応、千年近く生きてるのだけれど」
「そうかい。で、助けが必要か。いらねえなら帰るが」
「そうね。助けてくれると嬉しい。みんなが生きて帰れますように」
「いいだろう。お前は何を捧げる」
「……そうね。この、長く伸びた髪を」
「いいのか。それ、願掛けだろうに」
「もういいの。私の願いはもう、叶わなくなったから」
千尋の言葉に、建御名方は頷いた。彼は千尋の髪を手に取り反対の手を一閃。
はらり。と、切断された髪の束が建御名方の手の中に収まる。
「お前の捧げ物、確かに受け取った。お前と仲間は皆、生きて帰るだろう。目的を果たして」
その言葉を聞いた千尋は微笑んだ。安堵したためである。
彼女をその場に残し、建御名方は奥へと進んだ。
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