第79話 天使と言霊
【兵庫県神戸市中央区ハーバーランド】
贅を尽くした空間であった。
ハーバーランドでも屈指の高級ホテルのロビーであるそこは、例えるならばまるでどこかの宮廷かと思うほどに美しい。吹き抜けの構造と相まって、荘厳さすら覚えることだろう。もっとも、今は電気系統を失い、そこかしこの破壊の痕跡で無惨な姿を晒していたが。
それすらも、演出であるかのようだった。
正面から突入した妖怪たちの前に現れたのは一人の男。豊かな金髪に彫りの深い顔立ちを備え、屈強な肉体をカジュアルな服装で包んだ美丈夫である。片手に不可思議な形態の弓を携えた彼は、中央にある大階段をゆっくりと降りてくる。
敵の首領であることは明らかだった。
そいつは口を開いた。
「9人……か。少々足りぬな。私を滅ぼすのであれば、この三倍は用意してもらわねば」
正面玄関から突入したコミュニティの本隊は総毛だった。先ほど千尋に大ダメージを与えたのも弓矢による攻撃だったからである。こいつがその射手に違いない!!
撃たせる暇を与えれば全滅する。皆が即座に正体を現し、精神を集中させて術を発動させ、あるいは突進した。鬼。3メートルもある豚のぬいぐるみ。中身が空っぽの鎧武者。そういった屈強な妖怪たちが間合いを詰め、一拍遅れて後方から飛来した氷柱や雷、チョコレートクッキーといった妖術が命中する。
まさしくその瞬間、男は呟いた。
「―――無駄だ」
その通りになった。妖怪たちが弾き飛ばされ、命中すると見えた妖術が虚空で立ち消えしたのである。
突如出現した、不可視の障壁の力であった。
『初めに、言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった』―――ヨハネによる福音書1章1節にはそうある。数多くのキリスト教徒からそう信じられている。神に近きものの言葉は、それだけで破壊的な威力を発揮するのだ。
「……」
見えない壁に激突した妖怪の一人。3メートルもあるぬいぐるみの付喪神は、金髪の男に視線を向けられて震え上がった。殺される。駄目だ。勝てない。
後退しようとした彼は、そのまま後ろに倒れた。
「―――え?」
体を支えられなくなった足を見た彼は、愕然とする。何故ならば、それは塩の柱と化していたからである。足だけではない。腰。腹部。胸。どんどん白色となっていく自分自身に、彼はパニックとなる暇すら与えられなかった。
たちまちのうちに、驚愕の表情を浮かべた塩の彫刻が出来上がる。
『彼らを外に連れ出した時そのひとりは言った、「のがれて、自分の命を救いなさい。うしろをふりかえって見てはならない。低地にはどこにも立ち止まってはならない。山にのがれなさい。そうしなければ、あなたは滅びます」』
『しかしロトの妻はうしろを顧みたので塩の柱になった。』
―――創世記十九章。彼は、視てはならぬものを見てしまったのだ。
「なんて力だ……!」
後列にいた芝右衛門は絶句。力量が違いすぎる。これでは主神にも匹敵するではないか。
階段を下りてきた男は、ふわり。と浮かび上がった。暗くなったロビーが強い光に照らされる。男の背後から光は生じているのだ。
男の服装がほどけていき、代わりに鎧兜に置き換わっていく。背中から巨大な何対もの翼が広がる。ことここに至り、敵の正体は明らかとなった。
「……天使か!!」
「左様。我が名はマステマ。悪霊の軍勢を率い、人を試す使命を主より与えられし者」
芝右衛門はその名を知っていた。旧約聖書にその名が記された古い天使の一柱。一説には敵対者としてのサタンの原型ともなったという。この強さも、そうであるならば納得だった。
マステマは、矢を虚空より掴み出すと、弓につがえる。その照準はもちろん妖怪たちだ。
放たれれば全滅するだろう。防ぐ術はない。
だから、芝右衛門は覚悟を決めた。渾身の術を使うべく、正体を現したのである。
ぼむっ。と、場違いにも思える擬音と共に芝右衛門の姿が変わった。小学生高学年くらいの少年から、日本の足で直立し着物を身に着けた狸へと。突き出た腹をぼんぼん、と叩いた彼は回転しながら跳躍し、変化の術を行使する。
それは、矢が放たれるよりほんの少しだけ早く発動した。
―――世界が闇に包まれる。本当に一筋の光すら差さぬ、真の闇と化したのである。矢が飛び去っていく。何も見えぬ。天使ですら見通せぬ闇の中、声だけが響いた。天使と化け狸。二人の妖怪の声が。
「ふむ。闇に化けたか。それも光が一切存在せぬ、真の闇へと」
『ははは。その通りだ。どうする?この中ではいくら狙おうが決して命中しねえ。何もねえんだからな。お前を見ることもできねえ。だから塩の柱に還ることはねえ』
「―――主は光あれと言われた。すると光があった」
言葉によって闇が破れ、光が世界を覆い尽くしていく。
『だよな。そう来ると思ったぜ』
ぽん。と
確かに、光はあった。光だけが。凄まじい光量が世界を飲み込み、視界を覆い尽くしたのである。
「―――!」
すんでのところで目を焼かれる前に瞼を閉じたマステマは、敵の意図を悟った。こちらの術を逆用している。光を作り出したのに上乗せして、強烈な光に化けることで視界を覆い隠したのだ。
ならば。
「……主は言われた。わたしは四十日四十夜、地に雨を降らせて、わたしの造ったすべての生き物を、地のおもてからぬぐい去る」
マステマが神話の出来事を呟いた。強烈な雨が降り出し、光を遮る。雷光が天を駆け巡り、足元が洪水に覆われた。
ぽんっ。
再び腹鼓が響く。荒れ狂う水面が盛り上がり、宙のマステマの足元より幾つもの巨大な触手が伸びた。
タコ。それも全長が二十メートルもあろうかという巨大な怪物が、天使に対して襲い掛かったのである。
それは、マステマの翼。腕。足。頭。全身へと絡みついた。
『洪水を作ったか!教えてやる、タコはなあ。明石の特産なんだぜ!くたばりやがれ!!』
マステマが水の中へと引きずり込まれる。この体勢では弓を使うことなどできぬ。言葉を発することも、敵が彼の姿をまともに見ることも。武器を封じられた天使はしかし、一筋ほどの動揺もしていなかった。彼はまだ全力を出してはいなかったからである。
マステマは、力を込めた。
『―――なに?』
顔に絡みついた触手が力づくで引き剥がされる。次いで翼から。自由になった飛行のための器官を最大限に羽ばたかせ、マステマは水中から急速に浮かび上がった。恐るべき力。これこそが、地上を荒廃させた堕天使や悪霊たちを捕縛した天使の剛力なのだ。
やがて空中へと飛び出したマステマがぶら下げていたのは巨大なタコ。芝右衛門が変じたそれを冷たく見下ろし、天使は大きく羽ばたいた。
豪雨が裂ける。いや、空を覆い尽くしていた分厚い雲がたちまちのうちに広がり、裂け目から光が差し込んできたのだ。それだけではない。天空から、雨の代わりに降り注いできたのは燃え盛る硫黄。
最初は数えられるほどだった。しかしたちまちのうちに数えきれなくなり、勢いを増し、一つ一つの大きさも巨大になっていく。それは術者であるマステマを除く、見渡す限りのすべてに降り注いだ。もちろん、今宙吊りとされている20メートルのタコに対しても。
『―――!!』
たちまちのうちに全身を打ち据えられ、破壊されていく大タコ。その身が満身創痍になるまで硫黄は降り注ぎ、そして世界は本来の姿に戻っていく。
気が付けば、元のホテルのロビーだった。呆然とした様子の妖怪たちの姿も見られる。戦いはごく短い間に繰り広げられたのだ。
マステマは無傷。弓を手放していたが、それ以外に変化はない。
対する芝右衛門の姿は無惨なものだった。四肢の内の三本を失い、全身に重度のやけどと負傷を負っていたのである。すぐに手当てせねば生命が危ういだろう。
もちろん、天使に敵を見逃すという選択肢はなかった。彼は剣を鞘から引き抜き、振りかざす。
剣が、芝右衛門に対して振り下ろされた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます