第三部 世界の危機が始まる 第一章 建御名方神編

第一章 建御名方神編

第57話 武神降臨

【兵庫県神戸市中央区諏訪山町 諏訪神社】


神戸市中央区に存在する諏訪明神の歴史は古い。今より千六百有余年の昔、仁徳天皇の皇后である八田皇后の離宮鎮護神として奉斎ほうさいせられたと伝えている。祭神は健御名方大神タケミナカタノカミ比売神ヒメノカミ。そして1775年に伏見稲荷大社より勧請されたという宇迦之御魂大神ウマノミタマノカミ

由緒ある立地は六甲山系に連なる登山道の入口としても知られ、神戸の街並みを一望できる立地と相まって訪れる人も絶えないほどだった。

とはいえ、夜半にまで人がいるわけではない。闇に包まれた境内は静まり返っている。そんな神聖な場所で、異変は起こった。

風が吹き始めた。それは境内の中央で木の葉を巻き上げながら次第に強まっていく。梅雨としては珍しく晴れ渡っていた空はにわかに暗雲が立ち込めそして。

境内に、竜巻が起こった。ただの竜巻ではない。風雨が作り上げた水竜巻である。凄まじい威力のそれが顕現したのはほんのわずかな間だけだったが、それで十分だった。

巨大な神気が、そこで実体を得るためには。

竜巻が消え去った時、そこに跪いていたのは人間。そう見える、何者かであった。

ざんばらな髪を振り乱し、全身が雨滴で濡れ、彫りが深い顔をした彼がまとう気は、霊視の力を備えた者が見れば恐慌状態に陥ったかもしれない。それほどの力が、彼の内側から漏れ出ていたのである。

「……ぅ……」

出現したばかりの彼は———この世にまだ間がない武神は、ゆっくりと立ち上がる。

彼は、己の両肩を見た。

―――なかった。

降臨した武神は、両の肩より先をもっていなかったのである。腕のない神であった。

わずかに唇を歪ませる武神。笑ったのであろうか。

彼は境内を出ると、その先に設置されたヴィーナスブリッジを渡り展望台に上がる。

「ほぉ……」

ここで彼は、初めて感嘆をあらわにした。見事な夜景に目を奪われたからである。

素晴らしい。

そう感じているだろうことはたやすく伺い知れた。子供のように目をキラキラと輝かせていたからである。まるでいたずらっ子が絶好の玩具を得たかのように。

景色を十分に満足した彼はしばし思案すると、来た道を引き返し始めた。下界に降り、必要なものを手に入れねばならなかったから。

それが済めば、人間たちに見せつけてやるのだ。この国で最も力強い神が誰であるのかを。

百年ぶりに地上へ降臨した武神は、楽しそうに山を下りて行った。


  ◇


【兵庫県神戸市東灘区】


異様な緊張感に満ちていた。

商店街の端にあるラーメン屋に集い、テーブルを囲んだ男たちの数は四。いずれも堅気には見えない面相である。まとっている雰囲気も。

深夜の現在、他の客は皆酒が入っている。二件目、三件目という者たちだろうことは推察できた。それとは明らかに一線を画する男たちがやっているのは、これからの算段であった。

「用意は?」「できてる」「あと何分だ」「20分したら出発だ」

もし彼らの手荷物を透視することができたならば、その中にいくつもの拳銃を発見できたに違いない。もちろん彼らは警官でも自衛官でもない。非合法な代物だった。

そんなものを使って行うことなど、現代日本ではひとつしかない。

やがて、彼らが予定の時間を迎えようとしたとき。

「よう。相席するぜ」

同意を得ずに割り込んで来た人物に対して、男たちは殺気の籠った視線を向けた。それは浮浪者かと思うような異相であったから。

両腕がなく、ざんばらな髪で、ボロをまとった、屈強で彫りの深い顔をした壮年の男。それが突然現れ、彼らの間に座り込んだのだ。警戒するなという方が無理ではあった。

もっとも、彼らが相手の正体を推察することができれば決して無下にはできなかったろうが。

「なんだあ。てめえ」

人相の悪い男ににらまれても、腕のない男は全く動じる様子がなかった。ただ、楽しそうに一瞥をくれただけだ。

「なあに。見ての通りの不便な体でね。着るものにも困ってるときた。なんか恵んでくれれば、お前さんたちには福を恵んでやるよ」

あ、駄洒落じゃないぜ?と付け加える腕のない男に対して、男たちは———この後敵対する組長を襲撃するという目的を持ったヤクザたちは、とうとう堪忍袋の緒を切らした。

「てめえ。物乞いならよそでやりやがれ!」

掴みかかったヤクザの一人が、宙を舞った。文字通りの意味で重力から一時解放され、見事な放物線を描いて別のテーブルまで落下したのである。

椅子に座ったままの腕のない男が放った蹴り技の結果だったが、視認できた者はいたかどうか。

一拍遅れて、悲鳴が上がった。

「さて。これは———答えは否。ってことでいいんかね?」

残る三人のヤクザは、無言のまま反撃を開始した。灰皿を掴み、あるいは椅子を振り上げて襲い掛かったのである。無駄な行為だったが。

ふたりが、立ち上がりざまに進行方向を変更させられた。それも強制的に。互いの顔面で不本意なキスをする羽目になり、ひっくり返る両者。

一番奥にいたがゆえに出遅れた最後の一人は、カエルの潰れたような奇声を発し、テーブルと壁に挟まれる。

いずれも腕のない男の足技の結果であった。

「やれやれ。こりゃあよそを当たった方がよさそうだな」

店員やほかの客が浮足立った様子にも気を留めず立ち上がった腕のない男。

彼の背後で、最初に飛ばされたヤクザが立ち直りつつあった。

腕のない男が振り返ったのと、ヤクザが隠し持っていた拳銃を取り出したのは同時。

客の悲鳴が上がる中、拳銃の引き金が引かれた。

その発射炎と向かってくる小さな金属塊の存在を腕のない男は、ごく自然に体を斜め前へと動かす。それだけで、まるで優れたボクサーが素人のパンチを回避するように、銃弾は回避された。

「ぎゃっ!?」

外れた弾丸はヤクザの誰かに当たったらしい。まあどうでもよかった。腕のない男にとっては。

「最近の鉄砲は小せえや。しかし物騒だねえ。とりあえずそれはいらねえな」

再び繰り出された蹴りは、瞬間的に音速を超えていた。

ぼとり。

落下音に、銃を構えたヤクザは再び発砲しようとしたところで違和感を覚える。一向に引かれる気配のない引き金を視認しようとして、それが消えていることに気付いた彼は足元へ視線を移した。

「―――え?腕?銃は?あれ?」

呆然と足元と手元の間で視線を往復させた彼が事態を把握するまで、どれほどの時間がかかったろうか。

「腕……俺の腕があああああああああああああ!?」

ヤクザの腕は、切断されていた。肩口から見事に。超音速の蹴りが作り出した真空の破壊力が切断せしめたのである。

「こいつはもらってくぜ」

腕のない男が告げる。

奇怪なことが起こった。

切断された右腕がのである。銃を放棄し、指を支えにして。それはと、切断面から腕のない男の肩口に飛び込んだ。

肩口と切断面。互いの血肉が盛り上がり、絡まり合い、繋がり、その上を皮膚が覆っていく。

たちまちのうちに、腕と肩口はされたのである。

「おお。思ったよりは悪くない。まあヒトの腕にしてはって但し書きはいるが。

で、そっちの若いのよ。まだ生きてるか?」

再び振り返った腕のない男は———は、そこで虫の息となっているヤクザの胸を見やった。自らが回避した鉛玉が貫通し、心臓を破壊した痕跡を。

「すげえ生への執念だ。お前、助かりたいか?」

「ぉ……た、たすけ……」

「よっしゃ。いいだろう。オレは気前がいいんでな。だが神に願いを言うのであれば何か捧げてもらわにゃあならねえ。お前は何を捧げる?」

「……なんでも……いい…」

「おお。何でもいいと来たか。だが俺は慎み深いんでな。今必要なもんだけもらうこととしよう」

は、再び蹴りを一閃。それは瀕死の男の左腕を肩から切断する。

落下した左腕を拾い上げると、自らの肩口に押し当てる。いや。もはや両腕がそろった男は、告げた。

「確かにお前の捧げもの、受け取った。助かった命、大事にするがいいさ」

言葉通りの奇跡が起きていた。今にも生命の炎が燃え尽きようとしていた瀕死のヤクザが息を吹き返したのである。胸に開いていた傷が消滅することで。わずかに残る痕跡は、服に開いた穴だけ。いや、それだけではない。切断された腕の断面も肉が盛り上がり、たちまちのうちに血が止まる。失血死する心配はこれでなかろう。

両腕が揃った男は周囲を見回す。

「腹ごしらえもと思ったが……こりゃあよそを当たるとするか」

両腕が揃った男は———健御名方タケミナカタの名を持つ武神は、近くの椅子にかけられたままの上着を羽織った。逃げ出した客の忘れ物か。彼(彼女かもしれない)にはきっと福があるだろう。

必要なものを手に入れた神は、店を出ていった。

後には、気絶した四人のヤクザ。そして、恐慌状態になった人間たちだけが残された。

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