第58話 あんパンと供物
【兵庫県神戸市兵庫区湊町 集合住宅】
「ほら起きろ!もう朝だよ」
「何遊んでんの、静流。忙しいんだからね。ちゃんとしなさい。ちゃんと」
「……へーい」
むくり。と起き上がる静流。中学二年の男子としてはあまり大柄とは言えない体躯の彼は、よっこいしょとばかりに立ち上がる。
「ほら。さっさと布団しまって。出かけるついでにゴミ出してきて」
「朝から面倒やなあ……」
「しょうがないでしょ。ゴミだらけになってもいいの?」
姉はそれだけ言い捨てると部屋を出ていく。小さな部屋だ。こうなってもしょうがない。仕方なかった。窓を開ける。着替える。台所に行く。朝飯は袋に入った菓子パンだ。時計を見る。時間がない。ポケットにあんパンを突っ込み、牛乳を飲むと荷物を掴む。ゴミ袋を持つ。
「んじゃあ学校行ってくるわ」
「いってらっしゃい」
ふわあ。とあくびをしながら玄関を潜る。落下防止の柵の向こうから湊町線の道路と湊町公園の細長い緑地が見える。下町特有の猥雑な空気を吸い込み、出かけようとしたところで隣家の玄関が開いた。
「あ……おはよう静流」
「おはようさん、ノドカ」
この春から隣に引っ越してきた肌の浅黒い娘が、やはりゴミ袋とカバンを持って出てきた。ノドカ=藤森。南米はブラジルの日系コミュニティ出身の混血児らしい。父と一緒に日本へやってきたのだとかなんとか。日本語が微妙に変な発音なのもそれが原因だろう。
ふたりして廊下を進む。階段を下りる。上の階に住むのは面倒だ。エレベータもないと特に。
雑談しながらゴミ捨て場にたどり着いた二人は、目的を果たそうとした。ゴミを捨てて学校に行くのである。そのはずであったが。
「……zzzzz」
寝ている。
上着を着て、ざんばら髪で、屈強な壮年のおっちゃんがゴミ袋の山の上に大の字になってすやすやと。
「……これ、どうしよ」
「どうしよ?って言われてもなあ。どないにもならへん」
途方に暮れたノドカに対して、やはり途方に暮れた返事を返す静流。
酔っ払いであろうか?邪魔だが、下手に起こすと何を言われるか分からない。困る。
などと思っていた二人の前で、おっちゃんがむくりと起き上がったではないか。
しばし周囲を見回していた彼は、やがて二人に気が付いた。
「よう」
「よう。じゃあらへんわ。おっちゃんなにやっとんねん」
思わず突っ込みを入れてしまう静流。この辺は関西人である。
「ああ。見ての通り寝てたんだがな」
「そこは寝るとこちゃうって。家帰って寝えな」
「帰るのも面倒になってなあ」
「どこやねん、おっちゃんの家」
「
「いやごめん、わからへん」
途方に暮れる静流の横で、スマホで検索していたノドカが答えを発見。
「長野県の諏訪湖だって」
「めっちゃ遠いやんけ」
「おう。帰るのが面倒になる気持ち、わかるだろ?」
「わかるけどなあ。それはそれや。そこにおっちゃんがおったらゴミ捨てられへんねん」
「どいて欲しいか?」
「どいて欲しいに決まっとるやろ。学校に遅れてしまうわ」
「そうしてやりたいのはやまやまだが……一つ問題がある」
「なんや」
「腹が減った。昨夜晩飯を食いそびれてなあ」
おっちゃんの言葉に顔を見合わせる静流とノドカ。
「ああもう。これでも食うとけ」
ポケットから朝飯のあんパンを取り出すとおっちゃんに押し付ける静流。
「おお?いいのか小僧」
「ええからどいてえな」
「よしきた」
現金なもので、すぐさま横にどくおっちゃん。それに安堵したふたりは、ゴミを無事に捨てることに成功する。
「こいつは……どうやって喰うんだ?」
「ああもう。そのビニールの袋を破って中身のパンをがぶっと喰えばええんやて」
「ビニール……透明な奴だな。今時の合成樹脂はすげえな。昔はベークライトしかなかったってーのに。そうか。悪いな。最近の物には疎くていかん」
「いやおっちゃん百年前の人か?」
「最後に動き回ってたのはそんくらいだなあ。たぶん。この二千年、たびたび地上を闊歩しとるが」
「何神様みたいなこと言うとんねん」
「何を隠そう俺は神様だからな」
「ふーん。
んじゃあ俺ら、学校行くから」
「おう。頑張ってこいよ」
自称神様のおっちゃんに見送られ、静流とノドカは中学に向かって出発した。
もちろんふたりは、自分たちが出会った者が本物の神であるなどとは思いもしなかった。
◇
【兵庫県神戸市灘区 北城大付属高校 教室】
「ねむい……」
真理はあくびした。
学校の教室でのことである。先日の事件後の現場検証と仮復旧が終わり、ようやく授業が再開されたのが先ごろ。とはいえ廊下側の壁が丸ごと消し飛んだ教室や破壊された調理室の修理には夏休み一杯かかるらしい。暑いだろうに業者も大変なことだろう。
『だいじょうぶ?』
開いている世界史の参考書の隅に描かれた絵の写真から他の文字をおしのけながら吹き出しが出ると、そんなセリフが浮かび上がった。美術室にいる七瀬初音の仕業である。
とりあえず頷いて返答。さらにはノートに通信用の落書きをすると言葉を書き込む。
「ちょっと海外からたちの悪い連中が入ってきてるみたいでねー。神戸はほら。外との玄関口でしょ?悪い妖怪がいっぱいくるの」
『なるほどなあ。私の知らないことばっかり』
「七瀬さんはずっと学校だもんね」
七瀬初音ほどの実力がある妖怪ならばふつうは人間に化けるなり分身を作るなりして社会復帰することは可能なはずだが、なかなかうまくできないらしい。この辺は妖怪ごとの能力の違いもあるので一概に言えないのが難しいところだ。
『それでどんな妖怪が入ってきてるの?』
「外国の麻薬組織。人間の犯罪者だけなら警察なり麻薬取締部なりに任せておけばいいんだけど、どうも妖怪が関わってるの。正体がまだ分からないけど」
『物騒ね……』
「まああっちのコミュニティの協力もあるし、何とかなると」
そこで真理は書き込みを中断した。世界史の先生が机間巡視にやってきたからである。ノートをまじめに取りなおす。通り過ぎて行ったのを見て、安堵。
「こういう仕事ばっかり担当してるから、英語の成績はよくなったんだけどねえ」
『大変ね。世界史の方も頑張らなきゃ』
「そうする……」
授業に集中する真理。
『そういえば、外国ってどこから?』
「ブラジル」
短く答え、今度こそ真理は黒板を写すことに専念した。
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