第56話 廃墟と妖精

【兵庫県神戸市中央区 生田神社境内】


「幽霊から身を守るにはよい場所だ。そうは思いませんか、木崎春男さん」

名を呼ばれた木崎は、顔を上げた。そこに立っていたのは昼間からずっと鈴木のせがれを守っていた男だ。木崎は知らなかったが、その名を山中竜太郎。

神社の境内でのことだった。そこは生田神社。三宮でも有数の大きな境内を持つ聖域である。そこにあるベンチに腰掛けていた木崎は、先手を撃たれたことにうろたえていた。まさか相手が先にこちらの場所を察知するとは。

この間合いでは外套を身に着けるのは間に合うまい。木崎にとって竜太郎の実力は未知数だ。

「どうやってここを」

隣に座った男へ、木崎は問いかける。それに対する返答は、以下の通りだった。

「簡単なことです。あなたでは僕を殺せない。例え魔法の外套があってもね。鈴木さんは僕に日記を託しました。そこに載っていた記述を頼りに、あなたを見つけ出しただけだ」

「……日記を読んだか」

「ええ。はじめ、塗りつぶされていて肝心なところは読めませんでしたが、僕たちには有能な知り合いがいるもので。とはいえ全部読むのは大変でしたよ。何せ三十年分の記述だ」

「私をどうする気だ」

「鈴木さんは、あなたに自首してほしいと。僕も同意見です」

「自首?自首だと。私は誓いを破ったあいつに罰を与えただけだ」

「それならば、息子さんまで殺そうとすることはないでしょう。あなたは知っていた。日記帳の裏をかくには持ち主を殺すしかないと」

「今更説教か。三十年遅かったな」

「今からでも間に合います。どうか、これを読んでください」

差し出された日記帳を見下ろし、木崎は戸惑った。これを今、どうして渡すと?

すでにいくつも付箋が張り付けられているのはこちらに読みやすくするためだろう。相手の意図を測り兼ねつつも、木崎は日記帳を読み始めた。


  ◇


しばし後。

「読み終えられましたか」

「……」

呆然としている木崎に対し、竜太郎は尋ねた。

「私は……」

「不幸な出来事でした。日記帳と外套はふたつでひとつ。あなた方を守るために妖精が残していったものだ。鈴木銀四郎氏が致命的な失敗をしたのは間違いない。しかし、それでも彼はあなたを必死で救おうとしていた。あなたの家族も。しかし彼は人間に過ぎない。できることに限界はある。だから償おうとした。日記の力を借りることで。

見てください。この景色を。かつてここは一度廃墟になりました。あの日のことは僕も覚えています。1月17日。早朝。僕はまだ子供でした。凄い揺れで目が覚めたんです。電気もガスも水道も止まった。寒かった。多くのものが倒れ、落下していた。朝がいつまでも来なかった。何故か、外に出て知りました。空が黒いんです。長田の街が燃える煙で東の空が覆い尽くされていた。一生忘れません。子供心に、あそこが地獄絵図になっていることが推察できました。

でも、今神戸はここまで蘇りました。鈴木銀四郎氏は日記の力で資金を稼いだ。それは確かです。でも、それを使って多くの人の雇用を作り、街を再建するための資金とした。それだけじゃない。様々な災害で打ちのめされた土地に救いの手を差し伸べようとした。個人の力ではできることに限界はあったとはいえ。

彼はあなたとの誓いを忘れたわけじゃあなかったんです」

「……これからどうする気だ」

「まずその日記帳を預かります。明日、僕が今日のことを書き込まないといけないので。それからのことですが、安全な場所に預けます。これのような不思議な品物が多数収蔵されているところです。もう日記帳の魔力が使われることはないでしょう。そう、鈴木さんも望んでいました」

「私も年貢の納め時か」

木崎はため息をつくと、ボストンバッグを竜太郎に差し出した。

「外套が入っている。鈴木の倅を刺すためのナイフも。日記と一緒に持っていくがいい。私にはもう、必要のないものだ」

「はい」

「見たまえ。周囲の光景を。昔とは違う。

昔はスマートフォンなどなかった。携帯電話は大きくてかさばり、誰もが持ち歩くような品物でもなかった。もし現代であの災害が起きていたならば、銀四郎は私にたやすく連絡が取れただろう。家族もみな助かっただろう。

それでも、多くの人が犠牲になったろう。魔法と言ってもしょせんはそんなものだ。運命を大きく変える力などない。世界を少しでもよくするのは、魔法などではない。人間が本来持っている力だ。今ならそれが分かる。

あなたの名はなんと言ったかな」

「山中竜太郎。それが僕の名前です」

「そうか。山中さん。済まなかったな。そしてありがとう。

鈴木の倅にもそう伝えて欲しい」

「わかりました」

木崎は立ち上がると、前方を見上げた。ちょうどいい。生田警察署が目の前だ。

「では、さらばだ」

そうして、一人の男は去っていった。


  ◇


【フランス共和国 プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏 ゴルド】


空が爽やかだった。

ゴルドは風の中にある村である。かつてこの地に吹き荒れる地方風ミストラルを人々が封じ込めたところ、たちまちのうちに湿気が村を蝕んだ。風の大切さを理解した人々はミストラルを解放したという。それ以来一年中、風が吹き荒れているのがゴルドなのだ。

もちろん事実ではない。しかし人々がそう信じた結果、この地には風を封じ、解放し、自在に操る魔法の力が宿ることとなった。その秘密を守るため、フランスでも選りすぐりの魔法の使い手が集まることになったのだ。

そのひとりである妖精フェイのイリスは、石造りの村の道を駆け上がっていく最中だった。

「あっとごめん!」

激突しかけたおじさんに謝りながらひらり。人間の姿をしていても妖精の身軽さは健在だ。時々仲間から怒られることもしばしばだが。「人間がそんなに身軽なわけないでしょう!」と。

ぴょんぴょんと跳ね、道に戻る。通り過ぎていく人たちにあいさつしながら、女の子の姿をしたイリスは走った。人間に化けられるようになってまだ十数年。必死で覚えたのだ。また人間の世界に行きたいと思ったから。

やがて村の中腹にある雑貨屋へと飛び込んだイリスは、待っていた姉貴分から大目玉を喰らうことになった。

「もっと落ち着きなさい。もう。そそっかしいんだから」

「へへ、ごめんなさい姉さん。でものんびりしてられなかったの。日本から連絡が来たんでしょ?」

カフェを併設した雑貨屋は広い。見た目よりもずっと。村人も利用するここが、この地域の妖精や怪物たち。日本風に言うのであれば妖怪たちのコミュニティであることを知っている人間は少ない。

何事か、とイリスたちを見ている者の大半も、人間に化けた何らかの妖怪。あるいは魔法使いだ。

そんな彼らと比較しても、イリスの魔法は傑出している。人間の世界に行きたい!といった彼女が紹介されたのがここだったのも、魔力の強さあってのことだった。

「はあ。あんたはもう。

そうよ。日本のコウベ?ってとこにあるコミュニティ。そこの名義でフランスじゅうのコミュニティにメールが送られてきてね。該当者を探してほしいって。で、あんたのことを思い出したってわけ。それで折り返し連絡したら、あんたに伝えて欲しいって次のメールが来たの」

「神戸?昔いったことがある!素敵なところだったわ」

「そ。よかったわね。けどあんまりいい話じゃあないみたい。送り主のリュウタロウ=ヤマナカって人が言うには」

「……そうなの?」

「ええ。ほら。こっち来なさい」

奥の部屋のパソコンの前に座らされたイリスは、そのメールを見ることになった。山中竜太郎という人物が書いたそれを。

日本語と、併記されていた機械翻訳されたのであろうフランス語の文面を読んだイリスの表情は歪み、やがて泣きそうになる。

「姉さん……」

「強い魔法は人を不幸にすることがある。それがたとえ善意によるものからだとしてもね」

それは、かつてイリスを救った二人の男の運命がどう狂い、破局に至ったかの詳細な記録だった。その原因となったのは、イリスの使った魔法。

「人間にはいろんな面がある。いい面も、悪い面も。それをこれから、ここで学んでおいき。あんたはまだ若い。もっと広い世界に出ていくのはそれからでも遅くないよ」

「うん……」

「さ。このヤマナカって人に連絡するかい?」

「今日は、やめとく。まだ気持ちの整理がついてないの」

「それがいい。ほら。帰って休むんだよ」

とぼとぼと、イリスは雑貨屋の外に出ていく。

空を見上げた彼女は、強烈な地方風ミストラルが涙を吹き払っていくのを感じた。この地に湿っぽいものは似合わないのだ。人々がそう望んだがために。

「……うん。そうだね。いつまでも泣いてられないよね」

イリスの呟きに答えるように、ミストラルは吹き荒れていた。

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