第55話 日記と真実
「ケーキセットを文江さんに。お代は僕が。あと、僕もケーキセットをお願いします」
「あ、私もケーキセットを」
「鈴木さんは?」
「じゃあ同じものを……」
守護霊の分も注文を受け付けるのか、と思いながら、鈴木は竜太郎と同じものを注文した。
図書室の向かいにある飲食店でのことである。
奇妙な注文の仕方にもかかわらず、給仕はさらさらと注文を書き留めると下がっていく。まあ今更この程度では驚いていても仕方ないだろう。竜太郎はこのビルは安全だと言っていた。つまりビル全体がこういう、妖怪の存在を受け入れる人のための場所に違いない。
座席は、三人で日記を読めるように隅のテーブルのソファである。長丁場になりそうだった。けっこうな分量だったから。
姿はないのに時折声だけが聞こえてくる女の子の気配を感じながら、鈴木は日記帳を広げた。前の持ち主、鈴木銀四郎による記録を。
◇
今日はとても不思議なことがあったので、特に記しておきたいと思う。
いつも通り寮を出て神戸税関に出勤した私は、いつも通りの業務に従事していた。細かい内容は特筆するところはないので割愛するが、密輸品の疑いがある荷物の検査において、私と同僚の木崎が、それを発見した。
妖精だった。
スーツケースの中に閉じ込められていたのは、小さな白人の特徴を備えた女性型の生物。身長は30センチほどで、透明なトンボにも似た一対の羽を持ち、薄絹をまとって、とても衰弱した様子の妖精だったのだ。最初にそれを発見した私と木崎は目を疑った。何故ならばそれは作り物ではなく、明らかに生きていたからである。即座に上司を呼んで妖精を見せた。彼は言った。「何を言っているんだ、鈴木。木崎まで一緒になって。ふざけてるのか?何もいないじゃないか」と。そんなことだったと思う。彼には妖精が見えなかったのだ。上司だけではない。他の職員たちにも。木崎が機転を利かせ、私を体調不良ということで帰らせた。私は妖精を連れて帰った。簡単だった。抱きかかえていても、誰にも見えなかったのだから。
寮に帰った私は、ひとまず妖精を手当てしてみた。もちろん人間とは違う。これで正しいのかどうかは分からなかったが、バスタオルで寝床を作り、羽を傷めないように横にし、口に水を含ませた。そうこうしているうちに夜になり、木崎も寮に帰ってきた。二人して、どう手当てするべきか相談し合った。ひとまずベビーフードを調達するべく出かけ、帰宅したときには妖精はうすぼんやりと目を覚ましていた。
私と木崎はこの後話し合った。妖精をひとまず回復するまで面倒を見よう。そして妖精を隠そうと。
私は今日起きたことをこの日記に記し、床に就いた。
◇
「山中さん。これは……」
「ええ。今回の事件の核心かもしれません。先に進みましょう」
竜太郎たちは、ページをめくった。
◇
あれから一週間経った。妖精の回復は目まぐるしいものがあった。あれほど衰弱していたというのに、もう自由に飛べるのだ。
妖精は部屋の様々なものに興味を持ったようだった。パソコン。本。電灯。ポスター。畳。布団。当たり前のものがなんでも面白いようだ。彼女は言葉を話したが、日本語は解さなかった。フランス語だろう。私と木崎は英語しか分からなかったが、単語からあたりを付けて入門書や辞書を買ってきた。三人で頭を突き合わせながらコミュニケーションをとっている。そのうち意思疎通が自由にできるようになればいいのだが。
とはいえいくつか分かったこともある。彼女の好物だ。果物が好きらしい。しかし缶詰はあまりお気に召さないようだ。金属が苦手?というわけではなさそうだが。スチール缶の桃缶などがダメなのかもしれない。
◇
「妖精は鉄を嫌う。伝承通りだ」
「そうなんですか?」
「ええ。冷たい鉄は人間に属する物質なんです。だから魔法的な存在には強い力を発揮し、魔除けにもなる。そう信じられています」
「なるほど」
◇
私たちと妖精との出会いから、早いものでもう三か月も経った。今では会話はほぼ不自由なくこなせる。妖精は好きに外を飛び回るようにもなり、時々職場についてくる有様だ。もちろん誰にも見えていないようなのだが。どうして私たちだけが見えるのか、彼女は理由を今日教えてくれた。妖精の粉が原因だった。スーツケースを開けた時、私と木崎はそれを目に一杯に浴びたのだ。それで、妖精が見えるようになったのだった。他の人間がやってきたころにはもう、粉は飛散して不十分な量しか残っていなかったに違いない。
妖精は悪い人間に捕まったのだという。そしてスーツケースに詰め込まれ、船に乗せられて運ばれてきたのだった。神戸税関へと。
故郷に帰りたい。彼女はそう言った。私と木崎はそれにこたえるべく、調査を開始した。彼女は自分の住んでいた場所を人間がどう呼んでいたか、正確には理解していなかったからだ。大変な調査になるだろうが、やる価値はある。
◇
やったぞ!妖精が住んでいた場所がフランスのどこにあるのかようやくわかった。木崎と一緒にどうやって彼女を送り返すか検討しているところだった。最低限必要なことは、トラブルが起きても妖精が自分で対処できるようにすること。人間世界の地理や、乗り物の運行ルール。物資を手に入れる方法。地図も渡しておかねばならない。それを30センチの体で運べるサイズに収めるのだ。大変だが、何とかなるといい。
◇
もうすぐ妖精が帰る日がやってくる。長いようで短い日々だった。だが充実していた。こんな不思議な体験を、世界でどれだけの人がしているのだろう?
別れが近づいたからか、妖精は私と木崎に何かお礼をしたいと言ってきた。私たちが大切にしている品に魔法をかけてくれるというのだ。せっかくなので、私はこの日記帳に魔法をかけてもらえるようにお願いした。木崎は、大事にしていた外套にかけてもらうことに決めたようだ。私たち自身を守ることに役立つ魔法だという。妖精を捕まえた悪い人間がやってきても、身を守れるように。幸運がもたらされるのだろうか。満月の晩、魔法を執り行うという。
◇
これはたまげた!!日記に明日のことが書いてある!私が書いた記憶は全くないのだが。これが魔法の力か。その後にこうして書き足しているのが滑稽な気もする。
木崎の外套の魔法もすさまじい。気配が全くしなくなるのだ。人間はその存在に全く気付かなくなる魔法なのだった。指摘されれば私は見ることができる(妖精の粉のおかげだろう)が、他の人間は存在していることさえ気付かないようだった。これはたまげた。悪用したら凄いことになる。まあ私と木崎に限ってそんなことはないに違いないが。私と木崎は、魔法をよいことのためにだけ使うこと。そしてその秘密を墓にまで持っていくことを誓い合った。
妖精が帰る日が近づいてきた。来週の船に、彼女は紛れ込む。それでお別れだ。もう一生会うことはないだろう。私たちは別れを惜しんだ。
◇
「外套の正体がようやく掴めましたね」
「ええ。この木崎という人が持っていた外套なんでしょう。今の持ち主が本人かどうかは分からないですが」
「もう少し先にヒントがあるかもしれない」
「ええ」
すでに日記を読み始めてから何時間も経っていた。ケーキセットも食べ終わったが、まだまだ終わりそうにない。夕食を注文した三人は、さらに読み進めた。
◇
平成7年1月17日(火)。現在の時間は午後6時。出張先の福岡にてこれを記す。
神戸は大変なことになっているらしい。マグニチュードは7だとか。現地の情報が全く入ってこない。何が起きているかは分からないが、壊滅的被害が出たに違いない。
◇
「これは……」
「阪神大震災……!」
阪神大震災。1995年1月17日に起きた兵庫県南部地震によって発生した一連の大災害である。近畿圏が広く被害を受け、特に震源に近かった神戸市は壊滅的被害を受けたのである。近代都市での災害として日本国内のみならず、世界中に衝撃を与えた。犠牲者は6434人にも達したのだ。
それを事前に予知できた、という事実が、一体何を意味するかはこの場にいる者にとっては明白だった。
◇
日記の記述に気付いたのが遅すぎた。出張先であまりに忙しく、疲れ切っていたためだ。寝る前になってようやく日記帳を開いた私は事態の重大さに愕然とした。すぐに家族へ電話をかけた。うまく説明できなかったが、とにかく車に乗って神戸から離れろ、今すぐにと伝えたのだ。私の言うことを信じてくれていたらよいのだが。
そして木崎。彼にも連絡を取ろうとしたが、取れなかった。電話で連絡の取れる場所にいないのだ。あいつはポケベルも持ち歩いていない。なんということだ。危険を事前に察知できるというのに、私にはあいつを助けることさえできないというのか。せめて彼の家族に連絡を取りたかったが、こちらも出ない。ひょっとすると家族で出かけているのでは。助かってくれ。私はそう祈ることしかできなかった。
◇
やっと、神戸の土を踏むことができた。
あまりの惨状に言葉も出ない。死者はすでに何千と出ている。長田は燃え尽き、三宮のビルというビルは崩れ落ち、阪神高速は横倒しになった。信じられない。人間の営みは自然の猛威の前では何と脆いのだろうか。
不幸中の幸いは、家族が無事だったことだ。妖精の魔法のおかげだ。
しかし木崎は……彼は生きているのか?
◇
木崎が生きていた!この大惨事の中、唯一の朗報だった。
しかし彼の家族はそうではない。助からなかった。倒壊した建物の下敷きになったのだ。なんということだ。
再会した木崎は、私をなじった。未来を知ることのできる日記帳を持ちながら、なぜ家族を助けてくれなかったのだと。私は甘んじて罵倒を受け止めた。もっと早くに日記帳を確かめていれば、彼の家族を助けられた可能性はあったのだから。それに、私の家族だけは助かったことへの後ろめたい気持ちもあった。他の何百という家族はみな、犠牲になったというのに。
私は罪悪感に打ちのめされていた。
◇
木崎が姿を消した。
無理もないことだと思う。彼にとって辛いことが多すぎた。私と顔を合わせるのも嫌だろう。外套だけをもってどこかに去ったのだ。願わくば、彼が魔法をどうか悪用だけはしませんように。
◇
税関を退職した。この日記の力で、一人でも多くの人を助けるためだ。事業を起こそう。資金はいくらあっても足りることはない。やるべきことはもう考えにまとめてある。震災で壊滅した神戸を蘇らせるのだ。
◇
何十年ぶりだろうか。木崎が訪れたのは。家に忍び込もうとしていた。日記がなければ私も察知することはできなかっただろう。外套の魔法は今でも健在だった。日記帳がそうであるように。再会した彼は、私を糾弾した。魔法を金に換えている、と。確かに彼からはそう見えても仕方がない。しかし私は彼に伝えようとした。これは償いのためなのだと。彼を説き伏せることはできなかったが。
私たちは、平行線のまま別れた。もう和解する機会はないのだろうか。
◇
それで、木崎。という男に関する記述は終わりだった。その後五年間ほど日記帳の記述は続き、そして先日、持ち主の死とともに途切れていたのだ。そこから先は、次の持ち主についての記述だった。
「山中さん。これは……」
「ええ。やはり昼間の男。そして、あなたのお父さんを殺したのはこの木崎春男という人物でしょう。一度家に忍び込もうとして失敗したから、彼は日記帳の裏をかく方法を編み出したんだ。彼は日記の魔法について詳しく知っていた。今度はこの方法で魔法を出し抜いたんです。恐らく」
「持ち主が殺された後の未来は、日記に書かれない……」
「けれどそれも他の魔法。いや、妖怪の干渉があって失敗した。こう考えれば辻褄は合う。僕を守ってる雛子ちゃんは、強運を引き寄せるんです。救うべき人に対しても」
気が付けば、読み始めてからすでに5時間も経っていた。一人の男の半生と、それにまつわる不思議な物語を読み解くにはそれは短い時間とも言えたが。
「鈴木さん。どうされますか。木崎に対して」
「伝えます。父が書き残したことを全部。その上で彼には、罪を償ってほしい」
「わかりました。手を考えましょう」
「はい」
鈴木は、深く頷いた。
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