第54話 図書室と司書

がたんごとん。と阪急電車が揺れていた。

阪神競馬場の最寄り駅である仁川から三宮まで行くには、西宮北口で乗り換える必要がある。いくつもの線が乗り入れた大きな駅だ。映画館を併設した大型商業施設も備え、大阪と神戸を結ぶ重要なターミナルである。

その北側。今津線に、電車が到着した。大勢の人が降りると階段を昇りあるいはエスカレーターに乗って上へと向かう。そこから各線に乗り換えるのだった。

その後方では、一人の男が前方を見ていた。ごく普通の格好である。大きなボストンバックを担ぎ、眼鏡をかけ、マスクをつけた初老の男性だ。今時何らおかしな服装ではない。しかし彼は普通の人間ではなかった。ボストンバックの中には外套や帽子、覆面を隠し持っていたのである。

彼の視線は、前方を行く二人の男と一人の女の子に向いていた。

幸いと言っていいか、気付かれてはいない。奴らもまさか透明な襲撃者が普通の人間の格好をしているとは思うまい。このまま後をつけ、日記帳を奪いたいところだった。

もっとも、さっきの女が邪魔になるだろう。まさか自分以外に透明になれる奴がいたとは。しかも向こうの方が力は上だろう。こちらにはものを通り抜ける能力はないのだから。見つかっていないことを祈るしかなかった。

初老の男は、追跡を続けた。


  ◇


>>『ははは。そりゃあ大変だったな』

スマホに表示されたのはそんな文章だった。相手は狸のアイコンである。芝右衛門だ。

ぽちぽちとタップし、たまり場の会議室へ現状を伝える竜太郎。

>>『しかし本当によく事件にあうねえお宅らも。競馬に行ったら殺人未遂に遭ったってか』

「雛子ちゃんの幸運はたぶん、他の人にも分け与えられるんだろうな。今まさに妖怪に殺されようというような、幸運が必要な人に」

>>『お。いいねえ。前向きな解釈だ。そういうのは好きだよ。

幸運といえば、ビギナーズラックの方はどうだった?』

「そっちはばっちり。夏休みを丸々遊んで暮らしても、今年度は生きていける」

>>『おめでとう。これで一安心だな。

話を戻すが、塗り潰された文字を読むなら図書室の文江ちゃんに頼みな。彼女なら文字に関するものはだいたいなんとかなる』

「わかった。ありがとう」

>>『道中気を付けてな。ビルに入るまでが遠足ですってやつだ。それじゃあ俺はちょっと寝る』

そこまで告げると、芝右衛門は離脱していった。眠いらしい。淡路島に住む彼は映画や芝居を見るときに神戸や大阪方面に出てくる。たまり場にはその時に顔を出すのだ。淡路島のコミュニティが彼の本拠地である。今日も朝早くに新作を見に大阪まで出て、さっき自宅に帰り着いたばかりだとかなんとか。

他のメンバーともいくつか言葉をかわし、竜太郎はスマートフォンをしまった。

周囲を確認する。

ここは阪急電車神戸線、特急の最後尾だ。それなりに混雑しており、鈴木も側にいる。見えないが雛子も。ここならば警戒するべきは一方向だけで済むし、万が一電車自体に何か起きても後方のここは被害が限定される。それはひいては、鈴木を狙う者も電車そのものを攻撃対象とすることをためらわせる効果もあるに違いない。もちろん、そこまでの力がある前提で考えるなら、だが。

『―――次は三宮。三宮です。お降りの方は右側を———』

放送を聞いた竜太郎は鈴木に目配せ。到着と同時に、三人は三宮駅へと降り立った。


  ◇


【兵庫県神戸市三宮 旧居留地東洋海事ビルヂング】


「このビルの中なら大丈夫。安全は保障します」

竜太郎にそう告げられた鈴木十四郎すずきとうしろうは、周囲を見回した。ごく普通の古いビルディングにしか見えない。歴史的というか、昭和よりなお古いデザインではあるが。清潔で、テナントもいくつか入っている。

それらの合間を抜けて階段を昇った先。左には飲食店。そして右の入口を導かれるままに潜り抜けると奥は、本屋かと思う空間だった。

所せましと並べられた本棚。片側には壁際に配置された長机と椅子。隅には子供が興味を持ちそうな絵本のぎっしり詰まったコーナーと靴を脱いで上がれるスペースがあり、そして入口にでん、と鎮座しているのはカウンター。

図書館が、ここにはあった。奥行きはそれほどではないが、奥に扉がある。

観察している間に竜太郎は、座っていた司書へ声をかけていた。

「こんにちは、文江さん」

「こんにちは、山中さん。ご用件は?」

文江、と呼ばれた司書は女性だ。いかにもな文学少女がそのまま大人になったような装い。サマーセーターを身に着け、黒ぶち眼鏡で、額が広い。普通の人間に見えた。

「ちょっと塗りつぶされて読めないものがあって。文江さんなら読めると芝右衛門から教えてもらったんです」

「あら。その本はどちらに」

「あちらの鈴木さんが持ってます」

名前を呼ばれた鈴木は慌てて会釈。日記帳を差し出す。

「こ……これです」

「ふむ」

受け取った文江は、ページをぺらぺら。

「未来が書かれる日記ですか」

「わかりますか」

「ええ。まあ」

どうやら、めくっただけで正体を看破したらしい。竜太郎もそうだが、この文江という司書も只者ではないようだった。

「このあたりかしら。読めないというのは」

「は、はい」

「少し待って頂戴ね」

そう言うと文江は、ティッシュペーパーを机に広げた。その横に、塗りつぶされたページを開けると指でひと撫で。

次に起きたことに、鈴木は目を見張った。

文江の指の動きに従うように、が飛んで行ったのだ。まるでメモ用紙を指で弾き飛ばしたように。した塗りつぶしはティッシュペーパーの上に張り付く。

くしゃくしゃ。と丸められたティッシュペーパーが屑籠に捨てられると二枚目のティッシュペーパーが敷かれ、次のページに対して同じことが繰り返された。

それがしばらく続けられ。

「これで全部かしら」

文江がそう告げた時、日記帳の塗りつぶしはすべてが消滅し、下に隠されていた文字が明らかとなっていた。

「すごい……!魔法ですか」

「魔法?……そうね。これは私が生まれ持った能力のひとつ。ふつうのひとには魔法に見えるかもね。山中さんが連れてきた人なら大丈夫でしょうけど、あまり人にはいいふらさないでちょうだい」

「わ、分かりました」

鈴木は深く頷いた。不思議な日記帳のせいで狙われている最中の自分としては、そういわれる理由が非常に納得できたからである。こういうものは秘密にすべきだ。身を守るためにも。

「ありがとうございました。助かりました」

深々と礼をする竜太郎に対して、今まで仏頂面だった表情をふっと緩ませる文江。

「今回はケーキセットで手を打ってあげる」

「ケーキセットですね。分かりました」

頷いた竜太郎は、鈴木の方を向くと告げた。

「鈴木さん。隣に飲食店があります。そこで日記を読みましょうか。何があったかを」

「はい」

竜太郎と連れ立って図書室を出ていこうとする鈴木。

その背に、文江からの声が投げかけらっれた。

「鈴木さん」

「はい?」

「その日記帳、とても強い力を持っている。必要となれば手放す判断をするのも手よ」

「実感してます。命の方が大事ですからね。でもまずは、何があったかを確かめないと」

「そうね。記録は大事だもの。気を付けてお行きなさい」

「ええ。ありがとうございました」

そうして、図書室の扉は閉じられた。

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