第四章 妖精編
第52話 日記帳と外套
ぱらぱら……と、日記帳のページが
窓から湿った風が吹き込んでくる。外は暗い。雨が今にも振り出しそうだ。そうなれば室内にも吹き込んでくるだろう。
しかし、部屋の主は窓を閉めることはしなかった。できなかったからである。
彼は書斎の机で、突っ伏していたから。単に意識を失っているのではない。背中に刃物が付き立っていたのである。恐らくもう助かるまい。
それを為した下手人は、身に着けた外套に返り血を浴びていた。それを気にも留めず、彼は書斎をざっと見回す。強盗であろうことは容易に推察できた。
しかし彼は、室内にある金目のものには目もくれなかった。目星をつけ、手を伸ばしたのは机に置かれていた日記帳だったのである。それをつかみ取ったところで。
「―――誰だ!!」
入ってきた男性の
そこに男性がタックル。驚くべき敏捷力を発揮すると、強盗にしがみついた。
「―――放せ!!」
強盗は反撃。しかし窓から引っ張り戻され、男性と激しいもみ合いとなる。やがて男性を振り払った強盗は、再び窓から身を乗り出すと、今度こそ外へ飛び出した。
「……あいたたた……そうだ。父さん!!」
男性は、机に突っ伏した部屋の主に駆け寄った。背中に突き立った刃と、多量の出血を認めた彼は大声を出す。
「誰か!誰か救急車を呼んでくれ、父さんが刺された!!」
床には、強盗が落とした日記帳だけが残されていた。
◇
【兵庫県西宮市仁川 阪神競馬場】
むやみやたらと巨大な建造物だった。
阪急仁川駅改札から降りてすぐ。丘の上から見下ろされる位置に存在するその巨大な敷地の名は阪神競馬場。仁川駅が最寄であることから仁川競馬場ともいわれる巨大施設である。コロナ禍の間長い不遇の時期を過ごしてきたこの施設も現在は人の入りが復活。かつての盛況を取り戻しつつあった。
その一角。駅から見て奥にある広大なコースの観覧席にいたのは一組の男女。
「無茶苦茶おなかがすきました」
「これ、やっぱりカロリーを消費して幸運を引き寄せてるんだろうなあ」
こんな会話をしている彼らは雛子と竜太郎である。なぜ彼らがこんな場所にいるかというと競馬を観戦してきたからであり、なぜ観戦してきたかというと馬券で一山当てようと考えたからである。なぜ一山当てようと考えたかといえば竜太郎の収入が大幅減になることが確定したからであり、なぜ確定したかというと先日警察に逮捕されたせいだ。不幸中の幸いで、勤務先の一つである北城大付属高校では雇用が継続することになった。冤罪が立証されたのも要因のひとつだが、生徒を命がけで助けにいった実績あればこそだろう。
そんなこんなで夏休みの時期の仕事や生活費をどうしようとかなり真剣に悩んでいた竜太郎に雛子が提案したのがこれだった。「私の運が無茶苦茶いいなら、ギャンブルをしたら稼げるんじゃないですか?」と。今まで確率的にありえないような幸運を、雛子は手繰り寄せてきた。確かに一考の価値がある。ダメでもともと、とやってみた結果が。
「まさか三百万円も当たるとは……」
年収に匹敵する金額である。妖怪の幸運は並みではなかった。ビギナーズラックと言っても限度があるだろうに。
「これは頼りきりになりそうで怖いな」
「いいじゃないですか。一回くらいは」
「まあ、節度を持って使おう。後で税務署が怖いなあ。年当たりの金額を決めて使うべきだ。超過したらもうやらない。固い決意でね」
競馬場にいるのは幸運を噛み締めている二人だけではない。競馬はギャンブルであるから、大小様々な喜悲劇がつきものだ。とはいえ、大抵はそれほど深刻なものではない。親子連れも大勢いるし、ウマの写真を撮るために大型の機材を持ち込んでいる者もいる。レース終了後の幸福な喧騒が、場を支配していた。雛子は透明なままでおにぎりをぱくり。家から持ってきた弁当である。経験上力を使うたびにおなかがすくのは理解していたが、幸運を招き寄せるにもカロリーが必要である事を今回学んだ。しかし300万円でこれなら1億円を当てるとお腹がすきすぎて倒れてしまうかもしれない。
そんなことを考えつつ、周囲を見回す。競馬場は、いろいろあってダメージを受けていた竜太郎を連れ出す口実でもあったのだが予想以上によい結果に終わりそうでよかった。これで今年度の生活費も安心である。
雛子がおにぎりを食べ終わり、包んでいたラップを片付けたタイミングで竜太郎が振り返った。
「帰ろうか」
「はい。……うん?ちょっと待ってください」
雛子は、メインスタンドの方で気になるものを発見した。一冊の本を手にうなだれている男性客が一名。そして、その背後から接近してくる帽子に外套、覆面で顔を隠し、手にナイフを持った男の姿を。
「竜太郎さん。あれ見えますか?あの、ナイフを持った男」
「―――いや。見えない」
「わかりました。行きます」
それで通じた。雛子は姿勢を低くすると一直線で走る。三々五々、行き交う人々を透過しながら。
「―――やめなさい!」
雛子の声に、ナイフを持った男は驚いて顔を上げると、こちらを見た。見えている。間違いなく。
だから雛子は、遠慮なく鉈を取り出した。一撃を振り下ろす。
「―――ひぃっ!?」
外套にナイフの男は悲鳴を上げると飛び下がった。リーチで雛子が圧倒している。恐らく体力と技量でも。
バランスを崩した男は、先ほど狙いを定めた男性客に激突。何が起きたか把握できていない男性客に後ろから組み付くと、手にしたナイフの刃を首にあてたではないか。
「ち―——近寄るな!こいつを殺すぞ!!」
人質を取られた雛子は動きを止めた。状況が悪すぎる。周囲を行き交う人々は気が付いていない。人質となった男性客だけが、見えない相手に背後から押さえつけられて目を白黒させている。
雛子は頭の中で思考を高速回転させた。竜太郎にはこいつは見えない。彼の助けなしで、自分一人で対処しなければならない。
「もしやってみなさい。その瞬間にあなたを真っ二つにしてあげます」
しばしの間にらみ合う、透明なふたり。
「ちっ」
ナイフに外套の男は男性客を放すと、後ずさりながら人ごみの中に消えていく。
急に解放された男性客が跪いた。雛子はため息をつく。気が抜けた故だった。鉈をしまい込む。死人が出なくてよかった。
そこへ、竜太郎がやってきた。急にへたり込んだ男性客を目印にしたのだろう。
「雛子ちゃん。いるかい」
「はい」
「何があった」
「ナイフを持った、たぶん透明な男がこの人を襲おうとしてたんです。逃げられました」
「わかった」
事態を把握した竜太郎は、男性客に手を伸ばす。そして告げた。
「大丈夫ですか?助けが必要なら、力を貸します」
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