第49話 冤罪と痴漢

【神戸市営地下鉄三宮駅 2番ホーム】


ホームドアが、静かに開いた。

地下鉄にホームドアが設置されてもう何年も経つ。当初は目新しい存在だったこれも、今となっては当たり前の光景になりつつあった。そこを他の客とともに、竜太郎。そして透明なままの雛子は通り抜けた。

乗客は満員。夕方はいつもこうだ。やむをえまい。リュックのサイドポケットから文庫本を取り出した竜太郎はそれを片手で読みながらもう片方はつり革へ。そばでは乗客とまま雛子が立っている。もし霊感のある人間がいたら大パニックになりそうな光景ではあった。幸い誰も該当者は乗っていないが。

このまま二人は何事もなく、最寄り駅までたどり着いて帰宅していたことだろう。普段通りであるならば。

そうはならなかった。竜太郎のスマートフォンが震えたからである。

「ふむ」

見るとコミュニティから連絡だった。なんでもビルに封印していた小妖怪が逃げ出したらしい。それもついさっき。悪事を働き、反省の色が見られないため何十年も前に捕まえて封印したものらしい。透明になる妖力を持っているとのこと。荷物に紛れているかもしれないから、該当する時間にビルに出入りした者は全員確認してくれとのことだった。

「雛子ちゃん」

小声で呼ぶと、すぐに気配が近寄ってきた。

「なんですか?」

「これ」

「……なるほど」

竜太郎はリュックを体の前に寄せた。雛子もたぶん寄せたであろう。口を開き、中を確認させる。何しろ竜太郎は透明化しているものが見えない。

「何もいませんね」

「そうか」

人が多い電車内である。最低限のやり取りで済ますと、二人は普段通りに戻った。


  ◇


一方の小鬼は戦々恐々としていた。今ちょうど背嚢から抜け出し、別の女性客の肩に乗ったところだったためである。男性が急にリュックの中を検め出したのでビビったのだ。

間の悪いことに、男が頭を巡らせると「そうか」とつぶやいた。こちらに視線を向けて!!

小鬼は、相手に自分が見えていないということに気がつかないまま致命的な判断ミスを犯した。発見者を撃退するために妖術を駆使し、今自分を乗せている女性客の邪心を増幅させたのである。

「きゃあああああ!この人痴漢よ!!」

女性客が、叫んだ。周囲が騒然となり、屈強な若者が男性を———竜太郎の腕を掴んだ。さらには仕事帰りのサラリーマンも。

「え?ちょっと待ってください。誤解です」

竜太郎がうろたえ、両手を挙げて降伏している間にも小鬼は更なる妖術を行使した。混乱を増幅させ、人間たちを狂騒させる術を。

「痛っ!やめてください!離して!僕は何もしません、ほら!」

竜太郎がたちまちのうちに、乗り合わせた男性客たちにボコボコに殴り倒されていく。

うまいこと竜太郎を撃退した小鬼は、しかしすぐさま愕然とすることになった。その場に居合わせたもう一人の女が、他の客の体をこちらに視線を向けたからである。―――あいつ実体がない!?

霊的な視覚を備えた者からすれば人間そのものにしか見えない幽霊は手を伸ばすと、女性客をして小鬼を鷲掴みとする。捕まった!!

「は———放せ!?」

「放しません。あなたが逃げ出した妖怪ですね。これを何とかしなさい」

「だれがそんなこと―——うぎゃっ!?」

女に抵抗した小鬼は、即座に意識を失う羽目になった。握りつぶされるか、というほどの力が込められたためである。

「……あ。気絶してる。どうしよう……」

女の幽霊は———雛子は、呆然と背後を振り返った。そこで取り押さえられている竜太郎へと。


  ◇


【旧居留地東洋海事ビルヂング 食堂"季津菜"】


「そう。捕まったのね。それはよかったけど、なんてことなの……」

千代子は頭を抱えた。厄介ごとが一つ片付いたのはよかったが、そのせいで新たな厄介ごとが発生したからである。

たまり場の食堂でのことだった。

常連たちも、テーブルでタブレットを叩いている千代子を囲んでわいわいとやっている。壁に掛けられたテレビでは今、タブレット画面がそのまま映し出されていた。今、ここでは雛子と通信している最中である。

>>『竜太郎さんがボコボコに殴られてもう大変なんです。駅員室で、今警察呼ばれてて……』

「落ち着いて、雛子ちゃん。冤罪だからきっと晴れるわ」

>>『はい。でも……相手の女の人、竜太郎さんのことを「こいつが痴漢だ」って言い張ってて……』

「こっちでも方法を考えてる。真理ちゃんもそっちに送ったから、何とかなるわきっと」

千代子は問題の小鬼がかつて起こしていた事件のことを思い返していた。彼は日本には数多いる邪悪な鬼の一族のひとりである。人間の心を読み取り、また干渉する力を備えているのだ。彼ができるのは心の力の増幅。元々本人にあった感情や考えをそのまま大きく膨らませるのだ。それで大混乱を巻き起こし、捕まって地下の壺に封印されたのである。戦前のことだ。その力で乗客を操ったのだろう。

厄介だが、不幸中の幸いはこれが通常の人間同士の事件だということ。竜太郎は本物の人間だから警察に調べられても妖怪の存在が露見する心配はない。彼のスマートフォンや荷物は今、雛子がどさくさに紛れて預かったそうだし。万が一家宅捜索となっても、雛子やコミュニティの妖怪たちがいればすぐに証拠隠滅はできる。

「厄介だな。どうするオーナー?」

くたびれた背広姿の火伏が、テレビを見上げながら聞いた。司法案件なので面倒くさい。被害者の主張を覆させるのが一番早いのだが。

その時だった。

「ふう。やっと見つけた。ここが"季津菜"でいいのかな」

入ってきたのはマントを羽織った少女。普通の人間に見えたが、もちろん普通の人間が妖怪のたまり場に入ってこられるわけがない。人間がここまで入るためには招待されたか、妖怪の助力を必要としているか、結界を突破できるような何らかの特殊な能力を備えているか。いずれかの条件が必要とされる。

「あれ?取り込み中かな」

「あなたは?」

「ボクはファントマ。怪盗だ。長野でこちらの話を聞いたんだけど。出直した方がいいかな」

集中した視線に居心地悪そうにしながら、来客は首を傾げた。

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