第三章 小鬼編
第48話 小鬼とぬいぐるみ
そいつは、長い間闇の中にいた。非常に狭く、息が詰まり、外界と一切隔離されている空間に。ありていに言えばそれは牢獄であった。閉じ込められていたのである。
長い間脱出の機会をうかがっていたそいつは、ある時好機が訪れたことを感じ取った。世界が震えたのである。ガタガタと。凄まじい勢いで。
老朽化しつつあった牢獄の蓋が、ずれた。それが復元するまでの一瞬でそいつは外に飛び出す。
―――自由だ!!
解放されたそいつが喜んだのはほんの一瞬だけ。まだ終わっていない。牢獄から出ただけで、ここは敵地だ。誰にも見つからぬように外まで。いや、安全な場所まで脱出せねばならなかった。
そいつは———壺から飛び出した小さな小鬼は、様子をうかがいながら通風孔に飛び込んだ。
◇
【旧居留地東洋海事ビルヂング】
「……」
花園千代子は目を覚ました。
寝室でのことである。広い空間。贅を凝らした作りの室内が、揺れたのだった。身を起こす。周囲を見回す。花鳥や民間伝承を主とした絵画や彫刻で装飾がなされた、美術館とも見まごう場所である。目立つ異変はないようだ。地震の揺れを受けたのであろう。
このビルは半ば異界にあるが、現実の影響もある程度は受ける。にもかかわらず、戦前から存在するこの建物が阪神大水害の時も。神戸大空襲の時も。阪神大震災の時も生き残ったのは、千代子の術で守られていたからだ。例え外部からの供給が途絶えてもこのビルの中では電気ガス水道が使えるし、ネットもつながる。損傷しても勝手に治る。郵便のやり取りもできる。火事や地震などの災害への備えもある。元は普通のビルだったのが、長い歳月を経てある種の妖怪になりつつあったのだ。
時計を見る。地震があったのなら見回りに行かねばならなかったが、身支度を整えるには時間がかかった。揺れの大きさからしてそれほど大げさな事態でもなかろう。
そこで、気が付く。枕元に置かれた青いぬいぐるみ。千代子と同じく地震で起きたのであろう彼(彼女?)に話しかける。
「ねえ」
「きゅ?」
「ちょっとビルの中を見て回ってきてくれないかしら。私の代わりに。異変があったら教えて」
「きゅ!きゅぅ~」
ぬいぐるみは敬礼すると、床に降り立った。そのままてくてくと扉の方まで歩いて行く。
寝室のドアが、まるで意思があるかのようにひとりでに開いた。
ぬいぐるみは、見回りに出ていった。
◇
小鬼は、物陰から通路の様子を伺った。
人間が時折通り過ぎていく。いや、そいつらが人間とは限らない。このビルディングの主は、強力な吸血鬼であるから。奴の手下どもには強力な妖怪も多数いる。見つかれば一巻の終わりだ。このビルは結界に守られているから、正規の客や従業員以外が出入りするのは極めて困難である。荷物に紛れて脱出するのがよかろう。
人がいなくなった隙を見計らって移動しようとして。
「きゅ?」
目が合った。
2本の足で立っていたのは犬のぬいぐるみ。青い。大きさは小鬼と同じくらいか。大きな植木鉢があれば影に隠れられるくらいである。
しばし固まる小鬼。
やがて我に返った彼は、事態の重大さに愕然とした。敵だ!!
同程度の体格のぬいぐるみへとタックルを敢行した小鬼は、強烈なキックを顔面に喰らう羽目になった。痛い!
見ればファイティングポーズをとったぬいぐるみの姿。構えが堂に入っている。ジャブを繰り出し威嚇の構え。
小鬼は応じた。自らも腰を低く落とし
じりじりと位置を動かしていく両者。
やがて、どちらともなく攻撃に転じた。鋭いストレートからのコンビネーションが繰り出されるのを躱しながらもつかみ取ろうとする動き。フェイントを織り交ぜた攻防は激しさを増していき、やがて。
「きゅ~」
ダウンするぬいぐるみ。戦いを制したのは小鬼であったのだ。
ぜいぜい。余計な力を使ってしまった。疲れた。
ぬいぐるみを引きずり、観葉植物の影に隠す小鬼。
彼は再び通路に顔を出す。きょろきょろ。誰もいない。いや。向こうから歩いてくるのはカッターシャツにズボンの男性と、そして最近の流行りなのだろうか。フード付きの上着を羽織り、ぴっちりとしたレギンスを履いた人間の女の子。男性の方が手に提げているのは
そのまま、男性と女の子は、階段を降りると外に出た。
◇
身支度を終えた千代子は時計を見た。ぬいぐるみを送り出してからもう結構な時間が経つが、まだ戻ってこない。道に迷ったのかもしれない。何しろこのビルは広い。ただでさえ大きいというのに、半ば異界と化したことで容積が本来よりはるかに巨大になっているのだ。必要ならばちょっとした村落が丸ごと収まる。
ぬいぐるみだけに行かせたのはまずかったかもしれないと思いながら部屋を出る。食堂に降りる。誰かにぬいぐるみを見なかったか聞こうと考えているところで、それが見つかった。
観葉植物の陰から見えている、青い尻尾が。
掴み上げると、それは先ほど送り出した犬のぬいぐるみだった。ノックアウトされて伸びているようなコミカルな顔である。
「どうしたの?」
「きゅう~」
「……なんですって」
ぬいぐるみの返事を受けた千代子は真顔になった。彼の証言が正しければ、大変なことになったからである。急いで奥の業務用階段を降りる。地下の倉庫に向かう。電灯を付け、棚に並ぶ木箱や壺、甕などを一つ一つ確認し。
やがて見つけ出した壺のふたに張られていた札が破れているのを見て、千代子は何が起きたかを悟った。封印されていた妖怪の一匹が逃げ出したのだ。先ほどの地震の隙に。
千代子は、常連たちの力を借りるべく食堂へと向かった。
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