第38話 始まりの物語
賑やかだった。
空は青く、非の打ち所がないほどに爽やかだ。隣接する場所にいる保育園の園児たちはこの晴天の下、激しく遊びまわっているのだろう。その事実を認識しながら、サラリーマンはバスの中に降り立った。
狭い車内を見回す。首を傾げる。通路を奥に進み、そこでようやく発見。疲れたのか、椅子に座ってぐったりとしている幼子を。
「おやおや。随分とかわいらしいお客様だ」
呟く。横へ、よっこらせ。と座る。
「……?」
幼子が目を覚ました。不思議そうにサラリーマンを見上げる。
「おやおや。起こしてしまいましたか。申し訳ない」
幼子は、サラリーマンの体にぴたっと
「そうですね。責任を取りましょう。起こしてしまったことのね。とはいえ何をすればいいのやら。ふむ。つまらないかもしれませんが、私の身の上の話などでもどうでしょうか?」
「……ふみゃ」
「よろしいですか。ではでは。
まあ私も大した存在ではありません。自分の存在を自覚したのはずっと昔のことです。そのころ、人間はごく狭い範囲にしか住んでおりませんでした。全部で何千というほどもいなかったかもしれません。曖昧で申し訳ない。あまりに昔なのではっきりとは覚えておらぬのですよ。当時は数の概念をもってもいなかった。いや、数で時間を図るという概念を、ですかな。ですからそれがいつのことか正確には分からないのですが、恐らく七万年かそこらだろうと目星をつけております。科学の進歩は凄いですな。私は読書が趣味なのですが、人類の誕生と拡散の過程を調べるとちょうどそのあたりがピタリ。と当てはまるのですな。
当時の自分は、自らを言い表す言葉を持ってはいませんでした。人々にとってもそうでしょう。彼らは様々な物事に名前を付けては共有していった。共通するシンボルを持つことで協力しあうことも可能としていたのです。その中には例えば"神"などもあった。ああ、勘違いなさらないでください。私はいかなる意味でも神ではない。それは確かです。何故ならば、私はもっと漠然としたもの。ですが、人類皆が共有していたものから生まれたのですから。
それは何でしょうか?」
「あ…ぶぅ……?」
「おお。かわいらしいですね。そうです。私は文明。人々が持つ、その曖昧な共有イメージから生まれた存在です。今日と同じ明日が来る。けれどその明日はほんの少しだけ違う。そういうものを保証する存在の具現化として、私は生まれたのです。もちろん文明そのものではありません。そのパロディに過ぎない。文明が自分の意志で動き回ってしゃべるなんていう馬鹿なことはない。けれどその背景にあった基盤は強固でした。同時期に生まれた私の同胞たち。有象無象の神々たち、精霊たち、悪魔たち。巨人。小人。多くの霊たちは短ければ数十年。長くても数百年で消え去っていった。人類はまだ、記録というものを持っていなかったからです。口伝で伝えられる伝承はたちまち変質し、失われる。人口も少なく、伝承を伝える小さな集団が滅亡することも珍しくありませんでした。千年を超えて生き残るような神々が出現したのは文字が発明されてからのことですよ。文字による記録と、それを必要とするほど巨大な文明でなくば、神を活かし続ける事はできない。しかし、より曖昧で広範なイメージからなる私だけは生き残った。南アフリカで生まれた現生人類の、
彼らは素晴らしかった。未踏の地にたどり着いただけではなく、次々と新しいことを考え出した。その多くは歴史の闇に消えていきましたが、ある時一挙に爆発した。金属を発明し、文字を発明し、記録を残すようになったことで。とうとう、進歩が後退することへの対抗策を見出したのです。それからの進歩はそれまでの何万年よりずっと早かった。アレキサンダーの東征を見ました。モンゴルがユーラシア大陸を蹂躙していく様子も。ペストに覆われていくヨーロッパの混乱も。新大陸では
人類がわいわいとやっている間に、私の同胞たちはだんだん闇の中へ引っ込んでいくようになりました。人類との、幾度となく繰り返された衝突の過程で彼らも賢くなっていったのです。人類から姿を隠すのが賢明であると。結果的に、人類は同胞たちを忘れ去っていった。けれど私は気にしていませんでした。それが同胞たちの選択であるならば尊重しようと思ったからです。さらに言えば、人類のダイナミックな変動はとても面白かった。そちらに熱中していたのです。それは前世紀には最高潮に達し、多くの悲劇と巨大な衝突の果て。偉大なる融和が成し遂げられた。その後に来る進歩はゆったりになった。私はダイナミックな変貌の終わりを名残惜しく思いながらも、それを受け入れました。先年になって起きた戦乱は、世界規模の大混乱を起こしていますがこれとて私が知る最大のものと比較すればささやかですよ。ごくごくね。
とはいえ、衝突が起きなくなったことは好ましくない。私はそう考えました。何故ならば、衝突とそれに伴う進歩こそがあなた方の幸福を増すからです。人類が戦争をせず、疫病に苛まれず、幸福に暮らすことができていればどうなっていたことでしょう?おそらく七万年前から進歩することはなかったでしょう。80億もの人口を数えることもなかったはずです。宇宙の誕生の仕組みを知ったのも、平和の尊さを知ったのも。すべて衝突と克服の成し遂げたことなのです。それだけではない。まったく新しい種類の衝突を必要とする土地は現在でもある。資源の呪いに取り付かれた第三世界。植民地政策によって土着の宗教や価値観を破壊され、協調する基礎すら残っていないいくつもの民族。憎しみの連鎖が袋小路に入ってしまったパレスチナを始めとする様々な土地。
ですから、私は衝突を新たに起こそうと思い立ちました。歴史の闇にひっそりと消えていった同胞たちの力を借りて。彼らは実に多様です。その存在が表舞台に晒されることになれば、人類は再び大きな混乱の渦に巻き込まれることとなるでしょう。それは結果的に、遠い未来の人々をより豊かにし、助けることとなるはずです。
私は非力です。例えば、今。あなたを助けることは簡単です。そこのドアを開けるだけでいい。あなたはバスを降りて、自分で先生たちのところに歩いていくことでしょう。ですが、あなたが全国に十人いたらどうでしょう?まだ対処できます。百人。千人。まあ一万人くらいなら、なんとかなるかもしれません。ですが、それでは意味がない。今日だけではない。明日も。明後日も。来年も。百年後も私がつきっきりで助けるわけにはいきません。人間は自らを助けなければならないのです。私は将来の何億人を助ける力はない。あなた方自身が改善するしかない。そして、悲しいことですが。保護されるべき弱者。女性や子供といった人々が犠牲にならなければ人間は動かないのですよ。本当に残念なことです。私が今、あなたを助けないのもそれが理由です。あなたの犠牲は明日、十人のあなたを助けるでしょう。一週間後には百人。一年後には千人。十年後には一万人のあなたを救うでしょう。このトロッコ問題は私の眼前に常に突き付けられている。常にです。救いを求める声はあまりに多く、それ故に黙殺せざるを得ないのが私という存在だ。人類に寄り添うのが文明であるのに。常に無力であることを自覚させられるのです。
私はあなたの死に投資しましょう。そうすることで、遠い未来の何億という数のあなたが救われることでしょう。私の行ける場所は人類がたどり着いたところだけなのです。どうか、私を遠くに連れていってください」
「……」
いつの間にか眠ってしまった幼子の頭をやさしく撫でると、サラリーマンは待った。自らをこの場に呼び出した想いの持ち主の、死を。
やがて、太陽光がバスの車体を加熱。その内部を蒸し風呂のようにしていく。
ようやく保育園側が異常に気付き、バスに取り残され熱中症で死亡した幼子の遺体を発見するのはこれから四時間後。
もちろん彼らは、幼子の隣に座っていたサラリーマンの。その姿をした、あまりに巨大な妖怪の存在に気が付くことはなかった。
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