エピローグ
第37話 隠れ里とオフィスビル
【兵庫県神戸市中央区 三宮 旧居留地】
港町神戸の歴史は古い。日本という国家の曙にはすでに港湾都市としての役目を果たしていたとも言われるこの土地は、時代の変遷の中でも役割を変えることはなかった。それでもその姿が様変わりすることはたびたびあり、特筆すべきは鎖国政策が解かれた際に開かれた五つの港の一つ。ということであろう。神戸外国人居留地の歴史はその時始まったといってもいい。その名残は戦争や震災を経た現在でも西洋建築のビルディングという形で残っている。いくつものそれらが密集して立ち並ぶ外国風の景観は、旧居留地を神戸有数の観光地とする要因でもあった。
今。そんな場所の一角。裏通りを進む二人組の姿があった。
◇
「本当にこの辺なんですか?」
「もらったメモにはそう書いてある」
雛子に問われた竜太郎はそう答えた。ちなみに例によって雛子は透明である。
メモをくれたのは網野真理。先日正体を知ることとなった妖怪の生徒だ。彼女に招待され、人間社会で暮らしている妖怪たちのたまり場を夕方の街中を探して歩いているのが二人であった。もっとも、書いてある内容は不可解な点が多い。現在は存在しない住所が書いてあるのだ。参考なのか、実在する住所の通りとの位置関係も書いてあるが。
「人払いの結界かもしれないな。それも恒久的な」
「こんな町中にそんなものが張ってあったら、いつか誰かが気付きません?測量とかするでしょうし」
「たぶん気付く人もいるんだろうが、まあ規模によるんだろうな。大抵の人は気が付いてもスルーしてしまうのかもしれない。気のせいだと思って。まあ、もうちょっと……うん?」
竜太郎はふと顔を上げた。さっきまでなかったビルディングがあるように見える。背はそれほど高くないが面積は大きい近代洋風建築である。居留地ではさほど珍しくないデザインではあった。
「こんなビルあったかな……というか、これかひょっとして」
「ですよね」
旧居留地東洋海事ビルヂング。そう書かれたプレートを見上げるふたり。
小さな入口は開放されている。二人は意を決すると、中へ入った。
◇
【旧居留地東洋海事ビルヂング 食堂"季津菜"】
「いらっしゃい」
二階に昇ってすぐ、中はごく普通の、ちょっとこじゃれた飲食店だった。店名は"季津菜"とある。店員も普通ならば内装も普通。別に正体を現した妖怪が闊歩しているということはない。
ただ一つ異常な点があったとすればそれは、出てきた給仕がこう聞いたことだろう。
「お二人様ですか」
ごく普通の若者に見えたが、彼の視線は間違いなく雛子にも注がれている。姿を現していないというのに。
だから竜太郎は頷くと一言付け加えた。
「網野真理の紹介で来ました」
「ああ。あなたたちが噂の。話には聞いてます。奥のテーブル席へどうぞ」
座る竜太郎たちの前に置かれたのはお冷とおしぼり。ちゃんと雛子のぶんもあった。というか、雛子が椅子を引いたのにも動じる様子はない。間違いなく見えているのだろう。彼には。
「何か食べられないものなどはありますか?」
給仕に目線を向けられ、困惑する雛子に竜太郎はアドバイスする。
「大丈夫。この人には話しても」
「は、はい。
あ、特に食べられないものとかはないです」
「わかりました」
渡されたメニューを確認し、注文するふたり。
一連のやり取りを経て、給仕は引っ込んでいった。
「……めちゃくちゃドキドキしました。あの人、やっぱり妖怪なんでしょうか」
「たぶんそうなんだろうな。あるいは人間の霊能力者かもしれないが。明らかに君が見えている。こりゃあ凄いところに来たな。これだけで期待していた以上のものは得られた気分だ」
「まだ座っただけですけどね」
「違いない」
はた目には冷静に見えるだろうが、竜太郎は興奮していた。敵対的ではない、どころか人間に友好的な妖怪のたまり場!
うまくいけばそれは、竜太郎が抱いている懸念のいくつかを解決してくれるだろう。妖怪に脅かされる人類のこと。これからの活動のこと。これまでのこと。そして、いつか(妖怪ハンターを続ける以上は今年中の可能性すらある!)自分が死んだあとに残されるだろう雛子のことも。
料理がやってくるまでの間に二人は店内を観察した。客が数名。スポーツマン系の青年。くたびれた背広の男性。小太りの若者。小学生高学年くらいの男の子。いずれも隣の者と話したりスマートフォンをいじったり、あるいは食事を食べたりに専念しているように見える。しかしそれは表面上のことだと竜太郎は気が付いていた。彼らの視線はちらちらとこちらに向いているのだ。値踏みされているのかもしれない。
「ごめんなさいね。この時間に常連客以外を見るのは珍しいから」
横からかけられた声に、竜太郎は目を向けた。パンツスーツ姿をした三十代の女性である。切れ長の目に蠱惑的な唇が印象的な、長い黒髪の美女だ。東洋人だがわずかに発音には訛りがあった。日本人ではないのかもしれない。
—――いつの間に。
接近を気付けなかったことに竜太郎は戦慄した。妖怪にも気配というものはあるが、その兆候が全くなかったのだ。
務めてにこやかに、竜太郎は言葉を返した。
「ということは貴女もここの常連客?」
「そうね。私はこの建物のオーナー。このお店も私のものよ。元々は私や従業員の食事を作らせるための厨房なんだけど、いつしか訪れる人に食事を振る舞う場所になってね。どうせならということでこうして営業させているの」
「なるほど。合理的だ」
「あなたも同じ気配がする。頭のいいひとは好きよ。強いならなおさら。あなたの武器はその頭の良さなのかしら」
「死にたくないから知恵を絞り出しているだけですよ。最後の瞬間が来たとして、見苦しく振る舞うだけの時間があるならば僕はどこまでも醜くなるでしょう」
「ふふ。それをね。戦士というのよ。
ここの流儀を教えてあげる。この場所そのものはあくまでも飲食店。おいしいご飯を食べて、他のひとと話して、仲良くなって、雑談に興じる場所。みんなの繋がりなんてその程度だから気楽にしてていいわ」
「なるほど」
「もちろん必要ならほかの部屋も貸し出すことはあるわ。会議室とか。まあそういう時は言ってちょうだい」
「わかりました。いろいろありがとう」
「じゃあ、もう行くわ。楽しかった」
「こちらこそ。僕は山中竜太郎。向かいに座っているのが助手の小宮山雛子です。あなたのお名前は?」
「花園千代子。今はそう名乗ってる」
会話を終えると、美女は去っていった。
◇
美女が店内から去り、代わって声をかけてきたのは先ほどからこちらを観察していた男の子だった。ハンチング帽を被り、吊りズボンを履いている。
「オーナーと何話してたんだい」
くりん。とした目でこちらを見つめる男の子に対して、竜太郎は微笑んだ。ここのルールを理解しつつあったからである。
「そうだな。ここの心構えのようなものを。君は?」
「おれは
「なるほど。そういうドレスコードか」
「理解が早くて助かる」
竜太郎は頷いた。各々が取っている人間の姿———もちろんここにいる全員が妖怪なら、の話だが———には意味があるのだろう。あえてそれを選んでいるのだから遠慮は無用ということだ。
次いで出てきた疑問を、竜太郎は口にした。
「しかし、柴右衛門か。あなたは死んだと聞いていたが」
柴右衛門狸。江戸時代の奇談集『絵本百物語』にも記述がある高名な化け狸である。日本三大狸のひとつにも数えられるが、淡路の住処から大阪に出かけた際に犬に噛み殺されたというのが竜太郎の知る末路であった。
眼前の男の子がそれと同一人物だというのであれば、生きているはずがないのだが。あるいはその伝説をもとに生まれてきた妖怪なのだろうか?
返答は、重要な示唆に満ちていた。
「死んでも生き返るのさ。おれたちはね。人間の想いが作り出した存在だから。想いがある限りはまた生まれ変わってくる。まあ何十年もかかるがね」
「そいつは知らなかったな。じゃああなたたちは不死なのか」
「それに近い。少なくとも老衰で死ぬことはないし病気もまずない。金も家もなくても生きていける。まさしくお化けには会社も学校もない。ってやつだ。気楽でいいが、人間に化けるにはこれが結構大変なんだよ。若いのの助けを借りなきゃAIだのディープラーニングだのさっぱり分からねえ。昔は芝居を見たけりゃ葉っぱを金に見せかけてりゃよかったが、今じゃあ映画を見ようと思えばQRコードを理解してないと機械を通れないんだ。こういう場所が必要なんだよ。人間と関わるなら」
「なるほど」
「ま、おれはあんたらのことが好きだぜ。人間ってやつがね。見てて面白い。あんたはどうだい」
「そうだな……最初は妖怪が恐ろしかった。無知だったからだ。あなたたちについて調べ、体を鍛え、技を磨いた。何体もの妖怪と出会って、どういう存在か肌で理解できるようになった。妖怪と一緒に暮らすようになってようやく、恐怖を克服できたように思う。未知の者に対する恐怖という意味では。物理的、肉体的な危険への恐怖はまた別にしても。
今は好きになれそうな気がする。あなたたちのことが」
「正直な奴だ。あんた、武者だな。それも戦国や鎌倉じゃない。平安の頃の、まだ人と妖怪が本気で殺し合ってた時代の武者だ」
「そうかな」
「そうだよ。それくらいの奴でないと、今の言葉は吐けないね」
「僕が妖怪と渡り合えるようになったのは科学のおかげだ。今なら動画でいくらでも教材が手に入る。優れた教師がネット上にいくらでもいる。体を鍛えるのも効率よくできる。平安武者と違ってね」
「なら、あんたは弓矢や太刀の代わりに科学を武器にしてるってわけだ。あんたが悪い奴じゃなさそうでよかったぜ」
「あなたもいい人だ。いや、いい狸かな?」
「はははは。ま、どっちでもいいさね。じゃあな」
席の方に向き直る柴右衛門。その様子からは何百年も生きた大妖怪にはとても見えない。
「なるほど。面白い」
「ですね……あ」
「どうしたんだい。雛子ちゃん」
「あの人、狸って言うことは化ける術とか得意ですよね」
「そりゃあ柴右衛門といえば名手中の名手と知られてるからな」
「ひょっとしたら、私が普通の人間に化けられる方法知ってるかも」
「それはそうだな。聞いておいで」
「はい」
とてとてと雛子が駆けていく様子を振動と足音だけで感じながら、竜太郎はお冷を口に含んだ。かすかに柑橘のさわやかさがある。うまい。
そうしているうちに話しかけてきた次なる相手は、知っている人物だった。
「あ。先生もう来てたんですか」
振り返るとそこにいたのは私服姿の女子高生。網野真理だ。彼女はこちらに歩いてくると、テーブルの上を確認。
「そこ、誰かいます?」
「ああ、雛子ちゃん———僕の助手ならあっちで柴右衛門さんと話してる。君にも幽霊は見えないのか」
「はい。妖怪だからって何でもできるわけじゃないですから……あ。ここの席いいですか」
「いいよ」
真理が荷物を置き、雛子が取った席の隣に座る。
「ここ、あんまり座る機会ないんですよね。お小遣いも限りがあるんで、ジュースだけ頼んだら隣の図書室に籠って勉強したりします」
「図書室があるのか」
「ええ。オーナーが集めた奴がいろいろと。元々あの人中国出身みたいで。前の旦那さんにくっついて日本に来たみたいですよ。このビルも元は旦那さんの持ち物だったとか」
「旦那さんは人間?」
「だと思います。あの人千年も生きてるそうで、結婚歴だって何十ってあるらしいですし」
「想像もつかないな……千年を生きる妖怪の人生か」
「私もです。コンピュータがない時代なんて想像もできません」
竜太郎は、オーナーが超えてきたという千年の時に想いを馳せた。それだけの期間人間と関わり続けてきたのであれば、彼女は歴史の生き証人だ。多くの者を見てきたに違いなかった。
やがて、雛子が戻ってくる。見えないことによるちょっとしたトラブルがあり、雛子と真理の自己紹介がすんだ時点で頼んだ料理がやってきた。
「先生。ここの料理はとってもおいしいんです」
「みたいだね。しっかり味わって帰るつもりだ」
「ええ。
あ、それと、もう誰かが言ったかもしれませんが」
そこで真理は改まると、竜太郎と雛子の二人に対して告げる。
「ようこそ、私たちのたまり場へ。歓迎します」
その言葉に、妖怪ハンターたちは微笑を浮かべた。
「ありがとう」
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