第32話 美術室の怪

―――ヤバいヤバいヤバいヤバい!あれは何かわからないけどヤバい!!

逃げ出そうとした真理は、しかし考え直した。あの女子生徒をここに残して行ったらどうなることか!

駆け寄る。近くの椅子を振り回す。が払われた。やった!

椅子を放り出し、朦朧とした女子生徒に肩を貸すと、真理は出せる最大速度を発揮した。のろのろと。ええい遅い!女子生徒を抱き上げてダッシュ。部屋の外に飛び出すと、足で扉を閉める。中から「待って……」と声が聞こえてくるが無視。ていうか怖いわ!?

ひとまずの安全を確保した真理は、女子生徒を座らせた。2年の先輩である。こんな場所にいたということは美術部だろうか?

「先輩。大丈夫ですか?」

「ぅ…私……どうなって……?」

「なんか変なのに襲われてたみたいなんですけど!」

「襲われ……?」

ぼんやりとした彼女はしばし自らの手を眺め。

ドンッ!

音にびっくりした二人は、見た。閉じた美術室の磨りガラスの裏側に張り付いた手のひらを。それもひとつふたつではない。数え切れないくらいのそれが、廊下に面した美術室の窓すべてで自己主張しているのだ!

「ぎええ!?」

淑女にあるまじき悲鳴を上げた真理を責めるのは酷であろう。怖いにも程がある。

「逃げましょ!立って!」

2年を引っ張って逃げ出した直後。無数のたちはようやくドアの開け方に気がついたらしい。一斉に開いて飛び出してきたそいつらの正体を見て、真理は振り返ったことを後悔した。

絵だ。肖像画。人物画。静物画。風景画から出てきたような樹木もいるし、「牛乳を注ぐ女」もいる。どいつもこいつも鉛筆や木炭、絵の具。その他もろもろで描かれた代物にそのまま厚みを加えたような姿。キャンパスや画用紙から出てきたとでもいうのだろうか。真理のSAN値正気度はもう限界である。

「急いで!」

ふらふらの2年が出せる限界の速度で走る。追いかけてくる奴らはさほど早くないおかげでなんとか逃げ切れそうだ。階段を駆け下りる。上を振り向く。ギョッとした。

階段の段ひとつひとつがぱたん。と倒れ、スロープと化したではないか。そこにあふれ出てきた絵画どもが滑り込んで来た!はやい!!

もはや無となったスピード差を埋めるべく駆け降りる。どうなってる!?階段は駄目だ、廊下を走らなければ!『廊下は歩きましょう』の張り紙を無視して猛ダッシュしようとした矢先。

「ゲッ!?」

壁面に張り付けられていたポスターからにょき。っと、笑顔に自転車用ヘルメットをかぶったおっさん。もちろん絵である。ヘルメット着用法制化の周知ポスターだ。真理も見覚えがあった。

そいつ以外にも次々と出てくるではないか。これはまずい。前門のおっさん後門の牛乳を注ぐ女。どうすりゃいいのだ。

進退窮まった時だった。救いの手が差し伸べられたのは。

それは、とても長かった。射程が。

ビュッ!と風を切る音がしたと思った瞬間、自転車用ヘルメットが砕け散る。おっさんごと。

「―――え?」

振り返る。それを為した一撃は貫通し、背後にいた有象無象のを砕いていた。なんだこれは。

呆然としているうちに、今度は牛乳を注ぐ女が砕け散った。複製画を構成する油絵具が散らばり、無惨な姿となる。凄まじいにも程があった。

「こっちだ!走れ!!」

声の方、もともとの進行方向を向いた真理は、見た。廊下の突き当り、職員室の入口に立っているカッターシャツの男の姿を。

数学の山中先生だった。

呆然としていたのはほんの一瞬。2年の手を引く。今の攻撃で空いた穴に身を滑り込ませる。走る。その間にもヒュンヒュンと何かが飛んで行っては背後で何かが砕けたのが分かる。というか1秒間隔で飛ばしてないかこれは。ほとんどマシンガンである。

自然体でゆっくりと前進しながら攻撃を続ける山中先生。その姿がすぐに近づいてくる。どうやって攻撃しているのかが見えてきた。紐だ。紐を振り回した次の瞬間には何かが飛んでいるのだ。そうして伸びきった紐を、左手で掴んで右手に持ち直している。ボディバックから取り出した弾丸を挟んで。

細部は分からなかったが、驚くべき水準で習熟しているのだろうということは伺えた。

「中へ!」

言われるまでもない。職員室へと飛び込む。2年も無事だ。振り返ってみれば、先生も後退すると職員室の扉を閉めた。

「つっかえ棒になるものを!」

「は、はい!」

言われて、近くのパイプ椅子を持ってくる。先生がそいつを引き戸の裏にかました。時間稼ぎにはなるだろう。

どんっ!

激突音。扉の向こうに奴らが殺到してきたのだ。ヤバイ。

「……無事か。えーと、網野だったか」

「です。助かりました。ありがとうございました」

「まだ助かったとは限らないが。さっさと逃げよう」

この時点で真理はようやく気が付いた。先生が先ほど振り回していた紐は、いつも巻いていた護身用のそれだということを。ペルーの牧畜民の人すごい。なるほど確かにこれは護身用になるわ。ひょっとしなくても銃に勝てるのでは。

持ち主は実際にこれで銃に勝ったことがあるなどとはついぞ知らず、真理は感心。

「向こうに非常口がある。そっちから降りるぞ」

「はい」

先導して走る先生。後に続くふたり。

目論見は、しかし崩れ去った。職員室のもう一つの出入り口。非常階段への扉の前にあった掲示板には、絵入りのポスターが何枚も張られていたからである。

そこからにゅるり。と身をイラストを見上げた真理は、退路を断たれたことを知った。

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