第6話 幽霊の正体見たり

月の出ていない夜だった。

時刻はすでに夜半。町は静まり返っており、それはここ。神戸市営地下鉄上沢駅から少しばかり離れた立地の公団住宅でも変わらぬようである。

その四階の廊下を、殺人鬼は進んでいた。部屋番号と、殺す相手の名前はしっかりと頭の中に刻み込んでいる。引退して今はここに住んでいる元刑事の夫妻が今日のターゲットである。今まで殺してきた四組の家族のように死ぬことだろう。何が起きているのかわけのわからぬまま。奴らに捕らえられるまで愛用していたこの鉈で、ズタズタに切り裂いてやるのだ。

そのはずだったが。

目的の部屋の前で立っていたのは、四十ほどのスーツの男。両のポケットに手を突っ込んだそいつはこちらを向くと、明らかな強い口調で告げた。

「止まれ。そこまでだ」

「―――!」

「やっと見つけたぞ。村岡健三郎。そうだな?」

「お前……見えてんのか」

殺人鬼の幽霊は身構えた。明らかな脅威として、眼前の男を認識したからである。

まさか、己の名を呼ぶ者が立ちふさがるとは。

「どうだろうな。見えているかもしれない。見えていないかもしれない。だがそれは重要じゃあない。重要なのはお前がそこにいるのを僕が知っている。ということだ。

そうだろう?」

「確かにな。

それで何の用だ。霊能力者様よぉ?」」

「お前にはいくつか聞きたいことがある。

十年余り前、お前は女の子を殺した。ブレザーを着た女子高生だ。初めての殺人だった。そうだな?」

「ああ。覚えてるぜ。あいつ、泣き喚いてたよ。助けて、って何度も何度も言ってたところに包丁をグサリ。としてやったのは最高だったね。いまだにあれを超える殺しはできてねえよ」

「そうか。その後いくつもの殺人を重ね、最後には警察に捕まった。殺人だけで4件、合計6人だったかな。第二審では死刑が申し渡され、上告の最中に病死。

お前の目的はその復讐だ。そうだな?」

「ああ。何が悪い!俺をあの監獄に押し込めやがった!最後にはろくに医者にもかかれねえで病死だ。これじゃあ死んでも死にきれねえよ!!」

「4件の殺人事件で死んだ人々も同じ思いだっただろうな」

「はっ。俺が死んだのは当然の報いだってえのか?」

「そうは言っていない。お前が死んだのは、

「……?何?何を言っている?」

「たいしたことじゃない。最終確認をしているだけだよ。お前を殺せるかどうかの」

その言葉を聞き終えた瞬間、殺人鬼は鉈を振りかぶった。こいつはヤバい!!

もっとも、手遅れだったが。眼前の男―――竜太郎は、ポケットの中に入れていた機器のスイッチを入れたのである。

静かに響いたのは———

『爾時千世界。微塵等。菩薩摩訶薩。従地涌出者。皆於仏前―――』

それは、経文だった。法華経と呼ばれる言葉が、機械を通して流れ出したのである。

硬直する殺人鬼の

「ぐ……っ!?」

「効いたか。実をいうと冷や汗ものだったが、うまくいってよかった。

お前については十分に調べてきた。仮説を立てた。実験もした。お前の動きを封じるには、録音した経文で十分なこととかな。まあそれも、さっきの問答がこちらの予想と違ってたら全部おしまいだったんだが。

—――もういいぞ」

次に起きたことは、殺人鬼の理解を超えていた。真横にあった玄関ドアを、女がタックルしてきたのである。

ブレザー姿のそいつの一撃を喰らい、殺人鬼はひっくり返る。

殺人鬼は知らなかった。目的地の手前の部屋の扉の裏にずっと、幽霊の少女が隠れていたことも。そこからドアのレンズを通して、廊下を監視していたことも。彼女が人間の男と連絡を取り合っていたことも。眼前の男は注意をひくための囮であったことも。少女がつけているヘッドフォンはノイズキャンセラーの機能があり、お経を遮断していたことも。

殺人鬼が取り落した鉈を拾い上げる、女。

凶器が振りかぶられる。

「―――!!や、やめ———」

制止は聞き入れられなかった。

強烈な一撃が、殺人鬼に食い込む。

「ぎゃあああああああ!?」

不慣れなためか、攻撃は急所をそれていた。悪霊に急所などあるならば、だが。

しかし、それがダメージを与えているのは明白であった。何しろ切断面からは骨が覗き、流血までしていたからである。

二撃。三撃。鉈が振るわれるたびに悲鳴は小さくなり、殺人鬼の動きは鈍っていく。

「嫌だ……また死ぬのは嫌だ……」

もはやの悪霊は、廊下を這おうとして痙攣。人間であれば助からぬほどのダメージ。いかな妖怪とはいえ、その生命の炎が燃え尽きるまでさほどの時間はかかるまい。自らの一部ともいえる凶器で攻撃を受けたのだから。

この段階で、初めてブレザーの女は。雛子は、口を開いた。何人も殺した悪霊に対して。

「いいえ。あなたは死んだことなんてない。これから生まれて初めて死ぬんです。死後の生命なんてありはしない。私たちの存在自体がその証明」

「なに……?」

「村岡健三郎。あなたは、大勢殺したと言っていました。私もお前に殺された記憶がある。私の名前は小宮山雛子。名前まで覚えてるかどうかは知りませんけど」

「……そうか。お前も俺と同じか。生きてないから、俺を殺せるのか……」

「ある意味ではそう。昨年、村岡健三郎が獄中で死んだ。そのニュースが世間で流れて、当時を覚えている人たち。それに、新たに事件を知った人たちはこう思った。『恐ろしい人殺しが死んだ』と。多くの人はこうも信じている。『恨みを残して死んだ人の魂はこの世を彷徨う』と。それらの想いが飽和状態に達したとき、私たちが生まれた。一連の事件の原因とその最初の犠牲者がセットで。ある意味では、私とあなたはひとつなんです。だからあなたの鉈を私が振り回せるし、私と同じ弱点があなたにもある。

でも、私たちは断じて死んだ当人じゃない。人々が想像する架空の加害者と被害者が具現化したに過ぎない」

「なんだと……俺は架空の存在なんかじゃねえ……」

「いいえ。私を殺したという記憶、それ自体が証拠です。だって、本物の村岡健三郎は誰も殺していないのだから」

「―――!?」

「今年になってからだそうですよ。4件の連続殺人の真犯人が判明したのは。別の犯罪で刑務所にいたそうです。村岡健三郎は冤罪だった。それは無念だったでしょう。

もちろん、彼は自分を有罪にした人達に復讐する動機がある。けれどあなたは、4件の事件も自分で殺したといっていた。もうわかりますね?

本物の村岡健三郎なら、私を殺したなんて絶対に言わないんですよ。殺していないんだから。もちろん、私だって本物の小宮山雛子じゃあない。あなたに殺された記憶があるんだから。

酷い話です。あなたが生まれたのはごく最近。せいぜいここ一週間からひと月といったところのはず。そのころにはもう、村岡健三郎が人を殺していないことは報道されていたんです。けれど誰も興味を持たなかった。少なくとも、それまでに出来上がっていた殺人鬼のイメージを覆すには足りなかった。だからあなたは殺人鬼として生まれ、私はあなたに殺された被害者として生まれた。ひょっとしたら、私たちをこの世に具現化させた最後の一押しは、その報道だったかもしれないのに。

けどそんなことはどうでもいいんです。

あなたは本当に人を殺してしまった。死に値します。命で償いなさい」

「嫌だ……いやだ……やめてくれ……」

「ダメです。私が今言ったこと、どうやって知ったと思います?ネットで検索しただけなんです。

どうして疑問に思わなかったの?なぜ行動に移す前に事件を調べることさえしなかったんですか?

自分の頭で考えるということをしなかった、あなたの罪です」

雛子は、鉈を振り下ろす。

それがとどめとなった。殺人鬼は動かなくなり、かと思えばそれはたちまちのうちに崩れていく。まるで灰の山のように。もっともそれが見えていたのは雛子だけで、竜太郎には最後まで見えなかったが。

物理法則を無視した構造を支えていた生命力が失われた結果であった。幽霊の———妖怪の死体は残らないのだ。数時間もすれば痕跡さえも消滅するだろう。

唯一残されたのは、もはや雛子の物となった鉈のみ。

しばし結果を見守っていた雛子は、振り返ると口を開いた。助けになってくれた恩人に対して。自らは幽霊を見ることができないにも関わらず、雛子を信じて危険な役目をしてくれた男に対して。

「終わりました」

「そうか。よかった。退散するとしよう。そろそろ騒ぎで中の人たちが起きる」

「はい」

竜太郎が法華経をストップ。それに合わせて雛子もヘッドフォンを外した。

ふたりは、闇の中を去っていった。

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