第4話 投石手
「はぁ……」
少女は途方に暮れていた。
土曜日の土手でのことである。
あの、乗用車のトランクで目を覚ましてからもう何日も経つ。その間、少女の姿を見ることができるものは誰もいなかった。透明人間になった気分だった。幽霊だが。
車に轢かれそうになったことも一度や二度ではない。この体が(体?)ものをすり抜けられなければ、本当にそうなっていただろう。不思議である。ものを掴んだり触ったりしようと思えばできるのだが。最近はようやくコントロールに慣れてきたところだ。便利といえば便利である。自動ドアを通り抜けられるし。何しろ少女が前に立っても開かない。
最後の手段、とお寺や神社にも赴いたが、お経や祝詞が聞こえてきただけで体が動かなくなった。覚悟を決めて敷地に入ると全身が痺れるかのような思いもした。あれは駄目だ。近寄れない。ああいうものにご利益があったんだと、少女はその時初めて知ったのだった。
自宅にはまだ帰っていない。怖くて、帰る勇気が出なかった。だからこんな場所でぐずぐずしている。
せめて。
自分を殺したあいつを、何とかできればいいのに。
少女はそう思う。あの後警察署にも行った。勝手に入り込んでも誰も気がつかない。声をかけてもみんな空耳と思う。もっと乱暴な手段をとればわからないが、とてもそんな気にはなれなかった。
だが、それだけなら問題はなかったろう。警察なら殺人鬼を捕まえられるはず。
そうでないことに気が付いたのは、あいつがいたからだった。
警察署にいた殺人鬼は少女に気が付いていなかった。いや、見えていたのかもしれないが、生きている人間と見分けがつかなかったのだろう。あの家で姿を目にしていなければ、少女自身あいつが殺人鬼だと分らなかったはずだ。どう見ても生きた人間である。
だが、あいつは確かに死んでいた。少女自身と同じように。
茶髪でウィンドブレーカーの男が警察官の間をすり抜け、どころか壁を通り抜けて奥へと入り込んでいっても誰も気に留めない。気が付いていないのだ。
にやにやしながら、警官たちの会話に耳を傾けたり資料を覗き見ていたり、したのだった。それも手に大ぶりの鉈をぶら下げながら。
恐ろしかった。気付かれれば一巻の終わりだ。こちらは素手なのに対してあいつは鉈である。幽霊を殺せるのかどうかはわからないが、自分が実験台になるなど死んでもごめんだった。いやもう死んでいるが。
あの男の子も結局、助けられなかった。車の助手席に乗り込む殺人鬼の幽霊を、少女は見送ったのだ。無力感にさいなまれたまま。もう生きてはいないに違いない。怖くて確認できていないが。
河川敷に目をやる。
そこでは男性が何やら振り回していた。かと思えば———え?
物凄い速度で何かが飛んで行ったのが分かった。何だろう。もう一回詳しく見る。
カジュアルな服装の男性が、右手に持った紐で何かを手挟んだ。ボールだろうか。そいつを頭上で回転させ、紐が開く。伸びきった紐。ボールは同じ方向に飛んで行ったようだ。よく見れば、百メートルも先の雑木の枝。そこから下げられた板が大きく揺れている。あれが的だろうか。凄い。なんていうスポーツだろう。
重い気分を忘れてひととき、少女はそれに見入った。
やがて足元の袋に入っていたボールを投げ尽くした男性は、的まで行くとボールを回収。最後に枝から的を外して戻ってくる。
彼は、おいてあったザックに荷物をしまい込むと代わりに、タッパーを取り出した。箸と水筒も。弁当だろうか。そういえば長いこと何も食べていないことを思い出した少女はおなかを押さえた。死んでから今まで空腹など覚えなかったのに。喉の渇きも。
思わず忍び足になる少女。男性の横までたどり着くと、弁当の中身を見た。何やら炊き込みご飯らしい。昨夜の残りを詰めたのかもしれない。
「いただきます」
男性が手を合わせ、弁当を食べ始める。
いいなあ。などと少女が思っていると、男性はザックをごそごそ。
「食べるかい」
差し出された板チョコを思わず受け取り、そして少女は絶句した。
「―――見えて、るんですか」
「いいや。僕には霊感なんてないからな。だが気配は感じる」
「―――!」
「さっきからずっと見ていたね。最初は気のせいか。と思ったんだが。悪いものではなさそうだ」
「あ……あぁ………」
「飲み物も必要かな。缶コーヒーでいいならだけど」
「い、いただきます……!」
先ほどの男性と同じことを言い、少女は缶コーヒーを受け取った。
死んでから初めての、生きた人間との会話だった。
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