クリスマス・イヴの夜

真宿豪々々

第1話(全1話)


 真っすぐに落下してくる湿った雪片の数々が、ほんの少しだけその落下の軌跡によって街をモノトーンに近づけた、その様を僕だけは見逃さない。

 各々の商業ビルのウインドウから放たれるあらゆる彩色は、この先、冬が深まるにつれて次第に嘘寒くなり生気を薄めていくのを僕は知っている。支配的な立場になる黒や白やグレーといったものたちが、かすかな音すらも立てずに僕ら人間たちのこころの領域の内部まで侵食してくるからだ。それは間断なくあっという間に。わずかなたくらみだって感じさせずに。

 ある一線を越えるとやつらは、パンを浸したミルクのように音もなく、瞬間的な速度で世界に浸みわたって自分たちの支配下としてくる。無彩色のみを構成要素とする思想のようなものが、それまでの王の一族にとって代わり王座につくのだ。

 元号が変わったり、首相が交代したり、転勤になったり、新学期が始まったり、運命を感じる人と出合ったりといったようなはっきりとした転機じゃない。ごく秘密裏に、意識の暗渠のようなところで進行する物事だ。それでいて、侵攻のスケジュールはほぼ明確なものとして予定されているのだった。僕らはやつらの、罪な行為だとは言い切れないような侵攻によって、意識せずに意識が変わる。だけど、まだ今はその本番の時期じゃない。僕がその始まりの気配を逃さなかっただけの話だ。

 信号待ちで立ち止まっている間、そうやって湿った小粒の雪たちが落ちてくるのを見ていた。抵抗不可能な未来は受け入れるしかない。残念なことではあるけれど、ただちょっと憂鬱になるだけに過ぎないのだから、どちらかといえばなんてことはないほうだ。

 曖昧な分岐点を察知する力。なにも子どもの頃からの感性と言うんじゃないのだ。こんな動き方をこころがするようになったのは、松下悠里と親しくなってからだった。すべて彼女からの影響だ。


 一年前の晩秋を思い出す。僕らは二十七歳だった。

 市民公園の並木道をはずれた、夏は青々と芝生の茂っていた木々の間のあたりに幾重にも積み重なった落ち葉を、悠里は真っ赤なアクリルの手袋をはめた両手でかき集めては宙に放り、舞う落ち葉を浴びてはまたかき集めて放るのを繰り返していた。ベージュのダッフルコートには落ち葉の屑が無数にくっつき、枯れゆく十一月の風景に溶け込むためのカモフラージュを施しているかのようだったが、彼女がそんなことを意図していないことは彼女に聞くまでもなくあきらかで、でもどちらにせよ、その行為の小さな女の子のような幼なさに、こちらの肩の力がすっと抜けるのだった。眉も目じりも下がったし、かけた声はいつもよりすこし高くなった。

「悠里、ねえ、きみいくつだよ」

「落ち葉をいっぱい浴びたい年頃」

「そういうのはさ、ティーンまでが期限なんじゃないのかな」

 悠里の色白の頬は寒さで赤みがさしている。いつもながら、年齢よりもずっとみずみずしく張りのある肌をしていてきれいだと思う。茶色がかった長い髪は後ろでピン止めされていて、コート同様にいくつもの落ち葉の屑をまとっていた。

「人生が終わるまでが期限なんだよ」

 それが悠里の価値観だった。

 さらにこの一年前まで同じだった職場で初めて彼女と顔を合わせたときから、僕のこころは眩いオレンジ色に光り出すかのように敏感に反応した。きゅん、とときめくというよりも、これからの冒険にわくわくする感覚に近い。そんなこころの、広大な世界への旅立ちの予感を、悠里から感じさせられたのだ。彼女と仲良くなってみたい、と強く願った僕を、自然ななりゆきのなかで悠里は受け止めてくれた。

 悠里は人生を楽しむ人だ。迷惑をかけない範囲で空気は読まず気兼ねもしないし、トラブルを呼び込まない程度に人目を気にしない。

「わっ、ちょっと。口に入ったって。ぺっ、ぺっ。待った待った」

 他人事として傍観していた僕に悠里はまさかの落ち葉を浴びせた。それも大いに。でも、着込んでいた鉄壁のダウンジャケットからはさらさらと落ち葉は滑り落ちていく。

「つまんないねえ」

 悠里は赤い手袋の両手を下げ、立ったまま首をかしげて見せる。そしてそのとき、初めて彼女に誘われたのだ。

「今度、つきあいなよ。児童養護施設にアポ取ったから」


 アポを取っていたのはクリスマス・イヴの夜だった。現地近くの駅中で集合した。悠里はキーボードの入った細長い黒いバッグを肩からぶら下げ、その他の道具類を入れたピンク色のキャリーバッグを路面に転がしている。僕には、司会をやってもらうからね、といって縞模様の大きなトートバッグとセットリストの書かれた小さなノートを渡してきた。ノートによれば、僕は開始とエンディングのあいさつと、各曲紹介が割り振られていた。

 七時からの開演だったのだが、キーボードのセットはもちろん、悠里と僕の二人でお客さんになってくれる子どもたちの椅子を並べたり、チョコやクッキーやせんべいを入れたささやかなお菓子袋や歌詞を書いた紙を配ったりするので、四十分ほど前から施設に入れて頂いた。

 クリーム色の壁の一部には色紙の輪っかや画用紙を切り抜いて色付けした「メリークリスマス!!」の文字などで飾りがなされてはいたのだけれど、ちょっと寂しい仕上がりのように僕の目には映ってしまい、いやそういうんじゃないんだ、と無理やりこころの裡で打ち消す瞬間があった。これはきっと、偏見。

 悠里はキーボードに脚をつけて演奏する位置に立たせたあと、客席から見える側に「Merry Xmas」と手書きされた長さ30cmほどのプラカードをぶら下げた。言うまでもなく僕は、サンタクロースのあの赤い服を着させられている。顔がぼうっと熱い。

「はじめようか」

 悠里に促されて僕は、彼女が持ってきたハンドマイクに声を通す。

「レディースアーンドジェントルメーン! いや、こんばんは。今夜はどうもありがとうございます、そしてメリークリスマス!」

 大げさな身振りで客席に催促すると、客席の三十人ほどの子どもたちははっきりした口調で、メリークリスマス! と返してくれた。でもまだまだ四角四面だ。はじめましてな悠里と僕に、気を許してなんかはくれない。それでも、十歳に満たないような男の子から高校生くらいの女子たちまで、みんな行儀よく椅子に座ってこちらを注目してくれている。

 そこから悠里は特別な時間を作り上げていったのだった。


 悠里はキーボードをピアノの音色にセットして『ジングルベル・ロック』を歌う。ちょっとハスキーなのだけど甘く響いてくる、強烈な魅力を持った歌声だった。ワンコーラスだけ歌い終わると演奏を止め、簡単な自己紹介とあいさつをはじめた。

「メリークリスマス。わたしは松下悠里といいます。鍵盤を弾きながら歌ってる動画をいくつかサイトにあげているんだけど、40万回再生されたものもあります。その曲も今日は演るので、みなさん楽しんでもらえたらと思います。今夜はクリスマス・イヴに時間を作ってくれてありがとうございます。……みなさん、ほんとに楽しんでね。良い曲ばっかり演りますから。聞きやすくて印象的な歌ばかり選びましたから。じゃあ、初めはとってもメジャーな『ジングルベル』をみなさん一緒に歌いましょう」

 動画をアップしていたなんて悠里は一度も僕に告げたことはない。ここにきてずいぶん驚いたのだが、僕は今人前に出ているものだから、もちろん知ってたし実は自慢したかったくらいなんだよね、という表情をさっと作って大きく頷いてみせた。

 悠里はキーボードをオルガンの音色に変えて前奏を奏で始める。僕は与えられたマラカスでリズムを刻んでついていった。たかがマラカスといえど、カラオケ屋でおどけたときにしか使ったことがないくらいなので、今回は必死だ。

 歌が始まる。一緒に歌いましょう、と言ってもさすがに子どもたちはなかなかついてこない。渋っちゃうのはまあそうだろうなあとは思った。悠里は気弱になんかならず、どんどんそのマイク越しの歌声を艶やかなものへと昇華させていく。さあみんなも、と悠里の歌声のその音が誘うのだ。悠里の声と自分の声を重ねてみたいという欲求が生まれるような歌声なのだった。

 最初は最前列に座った小さな子たちからだった。音程がずれがちだったし、歌詞もカードを見ながらでもあやふやになっていたりしていたのだけど、一緒に歌ってくれて笑顔がはじけていた。

「さあ、後ろのみんなも!」

 子どもたちの笑顔を反射するかのように悠里の笑顔もはじけた。ツーコーラス目にはいると、大きな子たちもいっしょになって歌ってくれた。前列の小さな子たちは、満面の笑顔で後ろを振り向き、その笑顔を受け取った大きな子たちも晴れやかな笑顔で返す。

 うまくみんなで乗ることができている。みんなで音楽会のスタートを決めることができた。悠里のハスキーで甘い歌声がリードするみんなの歌声が施設内にこだますのを、僕はマラカスのリズムを間違えないように気を付けつつ振りながら味わっていた。

 『ジングルベル』が終わると、待ちきれなかったという風に自然と拍手が沸いた。讃え合うかのような喜び合いの仕方としての拍手だ。開始五分かそこらですでにとてもとても良い時間だ、と僕はこの音楽会に参加していることに胸を張った。

 次は『やさしさに包まれたなら』。アニメ映画でも有名な歌だ。悠里は鍵盤の音色をおもちゃのピアノのような音に変えた。音色に合わせたちょっと拙いような可愛らしいポルカのようなアレンジをした伴奏がはじまる。今度は歌いだしから子どもたちは歌ってくれた。僕もマラカスでついていきながら、身体全体で味わうようにして音楽を体験した。曲が中盤までくると、客席から手拍子が生まれた。一拍目からの手拍子ではなく、二拍目から入れてくるあたり、センスがある、と感心した。

 曲が終わると、前列の子どもたちがきゃあきゃあと声を上げて喜んでいた。後ろの席の大きな子たちにはその様を見ながら可笑しそうに身をよじっている者もいる。悠里も笑顔で会場を見つめているが、その瞳にはまだまだこれからという静かな炎の影がちらついている。

「踊れる人、踊っていいよ!」

 悠里はそう短く声を出すと、出し抜けに高音からのグリッサンドの下降で次の曲をスタートした。遅れまい、と僕はハンドマイクで「『ダンシング・クイーン』!」と曲紹介した。鍵盤の音色は硬めの音に加工されたピアノ音と弱めのストリングスの重ね合わせの音だった。僕はマラカス片手に手拍子を煽った。すぐさま子どもたちは反応を返してくれる。

 ほんとうに迫力ある演奏だった。原曲の跳ねたベースラインを活かしたアレンジが凝っている。よくこんなに指が動いて弾けるものだ、脱帽だ、と今夜のうちで何度目かの感心をしてしまった。そして、その演奏の労力に比例して曲のノリがとてもいい。

 踊っていいよ、と言われてももじもじしてしまうのは無理もないことだけれども、悠里の歌と演奏にはその壁をぶち破る強さがあった。サビまでくると小さい子たちが足をばたばたと動かしながら立ち上がる。ほどなく大きな子たちも立ち上がり、それぞれが自分なりに音楽に合わせて身体を動かし始めた。

 音楽会は最高潮を迎えた。

「みなさんありがとう、そしてどうでしたか?」

 『ダンシング・クイーン』を終えて少々息を切らせながら悠里は会場に話しかけた。小さな子たちは、楽しかった、と応える。大きな子たちからは、最高! の言葉も届いた。

「よかった。みんなが、全員が楽しめたみたい。ねえ」

と急に僕に話を振るので、マラカスをかかげてサッサッと二度鳴らして、ほんとに、と言うと、子どもたちが小さく笑う声を立てたのが聞こえた。今夜はもうそういうキャラクターでも良かった。みんなが楽しんだのだし、もちろん僕も楽しくて、そして一役買えたのだ。

「じゃ、最後。みんなで『きよしこの夜』。歌いましょう」

 悠里は鍵盤の音色をパイプオルガンに変更した。伴奏が始まり、みんなで喜び楽しみ興奮した夜が落ち着きを取り戻していく儀式のような曲だ。空気が清浄で透明なものに変わっていくのを感じた。それはおそらく、子どもたちもそうだったと思う。みんなで一緒に歌いながら日常に戻っていく、まるで長く運動したあとの深呼吸のように。歌と伴奏がともに終わる。音楽会は成功だ。参加させてもらってとても良い経験になった。


 感慨にふけってしまい司会者として最後のあいさつをするのを忘れていた。さてなんて言おうか、と考えていると悠里のキーボードからまだ音が発せられているのに気付いた。不思議な印象の音だ。エレクトリックピアノの硬くて丸い音と、切なく訴えるような電子音が混じり合っている。そんな音が、一定のリズムで高音の単音として奏でられている。なんだろう、と子どもたちも僕も悠里を注視した。悠里は頭を下げて、ただ右手の小指で打鍵し続けている。

 そこからセンチメンタルな旋律が始まった。悠里、なんて切ないメロディーを奏でるんだ、そう不安に似た思いを抱きつつ、僕は曲に耳を傾けながらその先を信じた。悠里の演奏する旋律にどんどん和音が重なっていき、テンポも少しずつ速くなっていっているようだった。そのうち、リズムとして鳴る低音があることに気づき、センチメンタルな印象が薄れていくのを感じた。曲調が移行し始めている。客席の子どもたちも息を飲むようにしながら、悠里の音を受け取っている。

 曲はついに八小節を単位としてほぼ同じ演奏を繰り返す曲になった。そこに悠里のハスキーで甘い歌声が即興の音として重なり合う。序盤のセンチメンタルさとはうって変わりどこか野性的で、それでいてショーを思わせるような華やかさもあった。

 八小節の二回目の繰り返しの終わりの頃だった。悠里のキーボードから音の一つひとつが放射状に飛び出しはじめた。音が、淡く透明なさまざまなパステルカラーの、ゴルフボールほどの大きさの球体となって、僕たちの過ごすこの場所、空間にあふれ漂いだしたのだ。揺れながら宙を進み天井や窓まで行き着くまでに無色になって見えなくなる。けれども、無尽蔵というくらいに、球体はどんどん生まれてくるのだ、悠里のキーボードから。

 離れがたいその時間へ、幻を見ているのだ、これは幻を見てしまっているのだからどうにか目覚めないと、と目の前の出来事に抗う気持ちを持たないとどうかしてしまいそうな気もしてくるのだけど、かたやこの幻のような光景を信じたうえで、あえて飛び込んで溶け込むことこそがこの時間のただしい解釈の仕方なんだ、と主張してくる自分もいて、詰まる所、そちらのほうの勢いが強かった。

 だけど、幻は幻じゃなかった。みんな、その球体が見えていた。そこにいるみんなが、驚きを飛び超え、うれしさや楽しさに満ちたりたような思いおもいの表情を浮かべていた。ある小さな男の子はきょろきょろと目を動かし、ある小さな女の子はひとつの球体を飛び跳ねながら追いかけ、またある大きな男の子はもはや目を閉じ、いくつかの涙の粒を頬に転がして小さく幾度か頷いていた。

 僕らは少しばかり、表現しがたい時間の中にいた。そしてそんな空前の幻想時間は、悠里がだんだん曲の音量自体を小さくするように弱く弾いていくことによって日常の世界へ無理なく着陸していった。見事なパフォーマンス。僕らは夢を見た。


 今年は、老人介護施設に付き合いなよ、と言われた。またマラカスかい、と聞くと、手拍子でもいいよ、と返されたのだけど、僕はたぶんまたマラカスを握ることだろう。

 僕の肌に落ちた雪はとけ、蒸発する。

「わたしは音楽で色を届けたいんだよ。なにも雪の世界が悪いっていうんじゃないんだけど。でもちょっとした憂鬱さに人生が負けてほしくないんだ」

 さあ、テイクオフ。今年もその日は近い。 


<了>

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