第2話 あなたはだあれ。
「ママのこと、ごめんな。許してあげてくれ。」
部活動が終わった土曜の午後、送迎される車で私に向けて呪文のように投げかけたパパの言葉は、FMラジオのディスクジョッキーの軽快な饒舌と共に、湿気で暴発したセミロングに混じると、車のヒーターの熱で少しずつ薄まって、最後には消えてしまった。
フォグライトを灯した白い乗用車は、断続的に降り続く12月の霧雨を受けた。灰色の空の下で、首都環状線につながるバイパスの輪を抜けた。
雨が降り注いでいっぱいになった田んぼを切り裂いて、山の見えるキャンバスの消失点を塗りつぶすかのように延々とアスファルトが舗装されていた。雲の合間から差し込むわずかばかりの光が、常夜灯と同じく、どす黒い道を局地的に照らし始めているところだった。
私たちの目的地は新興住宅街だ。ミルク色の外壁で囲まれた北欧風のすてきなおうち。
ママが癇癪を起こすのはいつものことだった。些細なことが気にかかって、私のラインを一時的にブロックする。
ママの気持ちはよく分かった。自分の家族みたいに、負けたという感覚を味わわせたくないのだろう。
だって私の家族は、海の見えるきれいな地方都市の中で派手に負けたから。
長男を産むという、家系を紡ぐために必要な選択肢を求める田舎において、私は長女として生まれた。
弟を作ろうとしたが、うまくいかなかった。
彼女の身体は、常識という名の至言によって何度も掻きまわされた挙句、二度と子どもが産めなくなった。
この出来事を境に、彼女は自身の精神をセルフコントロールできなくなった。
鎖国という漆で完璧にコーティングされた彼女の価値観は、県庁に勤める多忙な父親の努力もむなしく、ネイルのように剥がれ落ちてどんどん不安定になっていった。
そして、娘の私もまた「女性も高等な教育を受ける権利がある」という外部からの新しい生き方を母親の中でシャットアウトさせるのに十分な存在だった。
中学生になって、県下の御三家を目指しているとわかるやいなや、朝食を作らなくなった。
第一志望だった高校に入学すると、両親だけで外食に出かけるようになり、懇談会にも来なくなった。
私はあっという間に、“家庭”という和を外れた。私の選択は、彼女の望むものでは無かったのだ。
彼女はあきらめていない。私の部屋は、太陽の光が入らない薄暗がりの、誰からも目につかないように幽閉された空間に置かれた。
地元の専門学校に入学するという返答をするまで、ここで残された時を過ごさねばならない。
“家族“も親族も、普通を求め、私はそれにこたえるのだろうか。
高校を卒業する。学校に入って、お気に入りの白いセーターにシミを付けた彼氏とお別れする。
就職して、社会人4年目で結婚相手と出会う。子どもを授かる。花束と育児休業。
白物家電、1200㏄のコンパクトカー、35年ローンの一軒家、学資保険。
いつもと同じ風景。マクドナルド、呉服店、イオン、ホームセンター、国道沿いのサイゼリヤ。
今日からお前の名前は、ツムギだよ。よろしくね。
お前は選ばれた子どもなんだよ。人と人の縁を“紡ぐ”存在。だから人を幸せにして生きるんだ。
深い眠りから目覚めると、あなたはラベリングされる。そして愛されている。普通の人間として戦えるように。少しでも勝負で勝てるように。
あなたの価値はあなたでない“誰か”に規定される。学歴、年収、ルックス、既婚、未婚、それとなりの配偶者。
学校で、職場で、この土地で、この国で。
すべての生き物に対して、この使命が課される。
私であって、私ではない自分が小さな獣として薄汚れたミルク色の壁に囲まれ、必死にうごめている。
獣は、手が付けられないほど大きくなっていく。私のすべてを覆い尽くしたとき、それは“うさぎさん”に変わる。
自立した個人としての人間ではなく、“女”として、“母親”としての役割を求めながら、私と変わらない背丈をした不思議な生き物、“うさぎさん”。
その大きなプラスチックの黒い目で、一体何を考えているの。
反射して映っているのは本当に私なのか。それとも、私の形をした“うさぎさん”ではないか。
帰りにいちごのケーキを買ってきたよ。早くママに謝らないとね。
メガネをかけた“パパうさぎ”は語り掛ける。
身体を拘束しているシートベルトに手を掛けて、ぎゅっと握った。
“あたたかな家庭”はあの角を曲がるとすぐに現れる。
チョコレート色の屋根をした小さなお菓子のおうちにいる限り、“うさぎさん“達を巻き込んだおままごとは続いていく。
そう、これからもずっと。
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