18 私は人間ではありませんでした


 あれだけ子どもがほしかったのだから、妊娠したらもっと浮かれるものだと思っていた。実際はこれからすべきことのリストアップとその順位付けに一喜一憂し、出産や子育てへの不安、生まれてくる子への期待で胸がいっぱいになる日々だ。

 現時点での優先順位の一位は流星のご家族に私たちの結婚を許してもらうこと。流星自身は医師に私の妊娠を告げられた帰りに結婚を承諾してくれた。というか彼の方からプロポーズしてくれた。

 「幸せにすると言える立場じゃないですよね。一緒に幸せになりましょう」

 「うれしい……」

 子どもと夫を同時に手に入れることができて、私は感極まって泣き出した。桜子と椿姫にはその足で二人で帰宅して妊娠と結婚の報告をすることにした。

 泣きじゃくる私を見て、出迎えた二人にあらぬ誤解を受けた。

 「別れたという報告? ここ最近のあんた、若い男に狂って周りが見えなくなってたもんね。前の男はあんたの方から振ったみたいだけど、いつかボロ雑巾のように捨てられるんだろうなって思ってた」

 「百合ねえ、正直言うとね、前の人も今の人も年の差がありすぎて見てて痛々しかった。次の相手はもう少し身の程を考えて選んだ方がいいよ」

 そんなふうに思われてたんだ……。思わず涙も止まってしまった。妊娠と結婚の報告だと知って、手のひらを返したようにおめでとうを連呼してくれたけど、二人とは次の日まで口を利かなかった。


 妊娠発覚から三日後、思わぬ人物の訪問を受けた。ちょうど流星がわが家に来ているときだった。ドアを開けると一人の女が地面に顔をつけて土下座していた。殺人未遂事件以来、たくさんの人に謝られたから、またかと思っただけだった。一方、流星は面食らっていた。

 「この人も有紗の関係者ですか?」

 「それとは無関係」

 顔は見えないがひと目で羽海だと分かった。離婚されたから旧姓の佐々木に戻ったのだろうか? 羽海の後ろに李久と詩が腕組みして立っている。

 「私に謝ってこいと言われて来たの? あなたと不倫相手の会話を録音した音声、たっぷり聞かせてもらったよ。私はあなたの不倫の手伝いをさせられていただけだと知って、正直二度とあなたの顔を見たくないと思った。しかも、あなたの不倫相手が私を犯して撮影して奴隷にするって言ってたとき、あなた、おもしろそう、見てみたいって笑ってたよね。二人とも人間じゃないって思った。李久君には許されたみたいでよかったね。でも私はあなたを許す気はないよ。帰って!」

 「主幹を犯して撮影して奴隷……?」

 私の罵声を聞いて、流星の表情も険しくなった。

 羽海は昔から言い訳ばかりの女だった。下手な言い訳をすればするほど、羽海の後ろで腕組みしている李久の再構築の意欲もなくなるだろう。

 羽海の罪のうち私に対するものなどおまけにすぎない。


 ・(李久の前の彼氏の頃)雄大に貢ぐために不特定多数の男を相手に売春し、性病を当時の彼氏に移し浮気発覚。

 ・李久と結婚後も雄大との関係を継続。つまり不倫期間は李久との結婚生活の全期間。

 ・雄大との不貞行為は李久の仕事中、李久が建てた自宅にて。

 ・李久の稼いだお金を不倫相手の雄大に貢ぎ続ける。

 ・雄大に托卵させ長女の詩を出産。

 ・雄大が連れてきた男が支払うと約束した2000万円と引き換えに、羽海はその男にも托卵させ妊娠、三女の星奈を出産。2000万円は雄大の手に。


 つまり、羽海と李久との結婚は羽海のみならず雄大まで寄生して宿主の李久を食い尽くすための、いわば寄生婚だった。ここまでされて羽海を許そうとする李久の考えがまったく理解できなかった。18年前、浮気した羽海をかばった私のことは全然許してくれなかったくせに。

 羽海が顔を上げて、右目を覆う白い眼帯が目に入った。ふてぶてしいまでに自信満々だった以前の面影はまったくなかった。夫から制裁され、娘たちから罵倒され、実家からは勘当され、最後の心の拠り所の不倫相手はあっさり自分を見捨てて金だけ持って一人で逃げようとして、阻止しようとしたら右目を失うほどの凄惨な暴行を受けた。

 私に人間じゃないと罵倒されたところで、私を馬鹿にしくさっていた以前の羽海なら十倍にして言い返したはずだ。でも今の羽海は違った。

 「小百合さんのおっしゃる通り、確かに私は人間ではありませんでした」

 羽海が私をさん付けで呼び、私に敬語を使うのを初めて聞いた。

 「すべてを失い、泣いてばかりいた私に李久さんが言いました。加害者の君に泣く資格はない。泣きたいのはこっちだ。でも僕には泣いてる暇はないんだ。子どもたちを守り、傷ついた心のケアもしなければならないからね、と。今まで家族を裏切り続けてきた償いは一生かけてもできませんが、夫――もう元夫ですが――彼に説得されてできる限りの償いをすると約束しました。小百合さん、私はあなたにも昔からひどいことばかりしてきました。あなたと李久さんは私が別れさせたようなものでした。もしあなたと李久さんの交際があのまま続いて二人が結婚していれば、私と雄大以外誰も不幸になっていなかったのに」

 「もうその不倫相手のことは何とも思ってないの?」

 「彼には私がついてないとダメなんだってずっと思い込んでました。でもそうじゃなくて、私が甘やかしたから彼がダメになってしまったんですね。それも李久さんに教えられました」

 そこまで分かってるならもう私から言うべきことはない。

 「正直羽海には今も頭に来てるけど、私への償いはいらないから。だって李久君と娘さんたちへの償いだけで手一杯でしょ。よかったね。私が今すごく幸せで。そうじゃなかったら、私はあなたに復讐しようとしていたかもしれない。もういいから帰って。私はもうあなたのことは忘れる。あなたも私のことは忘れていいから」

 許すとは言わなかった。それが長年さんざん煮え湯を飲まされてきた羽海への私のささやかな復讐。

 羽海は最後にまた顔を地面に押しつけてから、李久に支えられて帰っていった。

 羽海たちが帰ったあと、私の部屋に戻って、羽海と私の二十年の関係を流星に説明した。

 「こんなこと言うと怒られるだろうけど、主幹と李久さんがうまく行ってればおれの出る幕はなかったわけだから、おれとしては主幹の初恋が実らなくて正直ホッとしてますよ」

 まあそれはそうだ。流星と恋に落ちなければ、ほかの何より愛しいお腹の子どもだって存在しなかった。そんな人生は私にとってもありえない。

 「それにしても本気で怒ってる主幹を初めて見て、その……あなたを抱きたくなってしまったんですが」

 「そんなこと言われても今妊娠中だから。口で……口でしてあげるから……」

 羽海への復讐どころでなくなってしまった。これから子どもが生まれればもっと忙しくなって、よけいなことを考える暇はさらになくなるのだろう。もう過去に引きずられてる場合ではなかった。一人ぼっちではない未来が両手を広げて私を待っている。さよなら羽海、さよなら李久、そしてさよなら光夜。もうあなたたちのことは思い出さない。

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