17 それぞれの悪戦苦闘
松本李久による羽海と雄大への制裁は佳境を迎えていた。托卵は通常、犯罪として立件されない。避妊に失敗しただけで意図的に托卵する意図はなかったと言い張られたらどうしようもないからだ。
だが三女の星奈の場合、遺伝上の父親と仲介者の雄大の間に契約書が残されていたから、実子だと信じて養育させられた自分への詐欺罪が適用されるべきだとして李久は羽海と雄大と遺伝上の父親を刑事告訴した。
雄大は預金凍結を恐れ全額引き出してどこかへ逃亡を図ったが、羽海は彼の逃亡を阻止しようとした。そのお金は星奈の養育費として李久に差し出すべきだと進言する羽海に、雄大は激昂して暴行。羽海はどれだけ痛めつけられても札束の入ったスーツケースを手放さなかった。雄大は通報され現行犯で逮捕された。暴行を受けた羽海は右目を突かれて眼球摘出の上失明した。それだけの被害を与えたのだから、羽海への暴行の件だけでも雄大の刑務所行きは確実だった。
今回の行動を評価して、李久は羽海に再入籍はしないが、家政婦兼星奈の母親役として同居しないかと提案した。実家からも勘当され身寄りのない身でありながら、なんと羽海は拒絶。これだけの罪を犯した自分にそんな資格はないと。この頃すでに羽海は雄大からの洗脳が解け、甘美な共依存の心理からもほぼ脱していた。李久は羽海が入院している病院に通い粘り強く説得しているそうだ。
詩は羽海の同居に反対しているが、
「血が繋がってない私の親権を取るくらいだからお父さんのお人好しは筋金入り。最終的にはお父さんの決めたことに従うつもり」
とあきらめ顔で語っていた。ただし同居したとしても、もうお母さんと呼ぶつもりはないそうだ。〈羽海さん〉と呼ぼうと雪と決めている。
私は一週間休んで職務に復帰した。私が殺人未遂事件の被害者になった件は上司である課長には伝えてある。職場でそれ以外に知っているのは流星と田所主事だけ。三人とも口が固く誰かに漏らすようなことはなかった。
秘密といえば田所主事は私と流星が交際してることも知っている。彼女はそれについても知らんぷりしてくれている。二人っきりになったとき残念そうに話しかけられた。
「主幹が私の義妹になるのかってワクワクしてたんですけどね」
「私も光夜君と別れるまではそうなればいいってずっと思ってた」
「今回の件は光夜の自業自得。さすがに心から反省したみたいですよ」
「あれから有紗さんとはどうなったか知ってる?」
「彼女は釈放されてすぐ病院に入院させられました。閉鎖病棟らしいです。光夜は毎週休日に面会に行って話し合ってるみたいです。彼女も光夜との面会を望んでるので当分そういう関係が続くんでしょうね。光夜は彼女の治療と更生には真摯に協力するけど、交際に発展させることは考えられないと言ってました」
流星は心を入れ替えて仕事している。遅刻することもなくなった。私の手助けなしですべての自分の仕事を成し遂げようと毎日悪戦苦闘している。
「頼った方がいいときは頼ってもいいんだ。そのための上司なんだから」
「今までちゃらんぽらんだった分のツケを返してるだけです。大船に乗ったつもりで見守ってて下さい」
彼はそう言うけど、見てると笹舟か泥舟にしか見えなくてハラハラする。彼のプライドを傷つけるわけにはいかないし、本人の意思を尊重してできるだけ手助けしないことにしている。
ただ毎晩ホテルで彼に抱かれてるけど、彼が仕事で苦労した日は必ず野獣のように底なしに私を求めてくる。妊活中の私にとってそれは間違いなく歓迎すべきことなので、彼には内緒だけど私がフォローできる程度の失敗を週に何度かしてくれないかなと実は願っている。とはいえ週に何度かで十分だ。毎日だと私の身がもたない。
県庁は新幹線も停車する主要駅から徒歩たった十分だから、県庁に勤務する職員は基本的に自家用車での通勤は認められていない。正確に言えば、車で通ってきてもいいが県庁敷地内に車を駐めるスペースはないし、近隣の有料駐車場を借りるにしても自腹でね、ということ。
七月途中から流星に県庁近隣の月極駐車場を借りてもらった。毎日退勤後に私と数時間ホテルで過ごし、そのあと私を自宅まで送ってもらうためにはどうしても車があった方がいい、ということでそういうことになった。ホテル代と駐車場代は私の、ガソリン代は流星の負担。食事するときは交互に全額負担。そんな約束をした。給料の多い私が全額負担してもいいのだけど、それは彼のプライドを傷つけるかもと心配した。
県庁から徒歩圏内にもそういうホテルはあるが、そこは光夜とよく利用したホテルだった。流星も一度そこに車で入って行こうとした。そのホテルは過去に私が光夜と来たホテルだと知ったら流星は気にするだろうか? それとも気にしないだろうか? 分からなかったが、分からないなら避けた方が無難だろう。
「ここはちょっと……」
と私が口を濁すと察してUターンしてくれた。
言いたいことを言い合っても、お互いへの気遣いは忘れない。私たちはそんな交際を心がけた。
「いつか私たちが結婚したとしても、今の気持ちを忘れずに過ごすようにしよう」
私がそう言うと流星はいつも神妙にうなずいてくれた。思えば光夜とはそういう話がまったくできなかった。ひたすら子作りのための行為をしていた。まるで妊娠がすべてのゴールであるかのように。
確かにギリギリの年齢である私には出産が可能である残り時間は少ない。でもそれに振り回されて、私は光夜とどんな関係を今後築きたいのか、そういう発想がまったくできていなかった。
若くかつ検査して何の問題もなかった光夜とあれだけ行為して妊娠に至らなかった。妊活相手は流星に変わったが、私はこれからも月のものが来るたびに絶望の淵に叩き落されることだろう。私に必要なものは持久戦に耐えられるだけの心の余裕と毎月の絶望を乗り越える強さだ。
七月下旬、私は三度目の絶望をこれまでの二度のときにはなかった心の余裕と強さを手にして迎撃しようとしていた。だがせっかく手にしたその強力な武器を使う機会は来なかった。
生理が来ないまま私は灼熱の八月を迎え、流星と二人で訪問した産婦人科で医師からおめでとうの言葉を掛けられた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます