15 あのときあなたが私を選んでいたら


 退院する前日、松本詩が私の家に行ったらしく、桜子から入院中と聞いてびっくりして、その日のうちに立派な花束を抱えて病院に見舞いに来た。私もびっくりした。父親の李久同伴だったから。李久は穏やかな表情。まだ詩から妻の裏切りの件は聞いてないのだろうか?

 李久を見るのは彼と羽海の結婚式以来だったけど、一目で李久だと分かった。浮気を擁護するなんて信じられない、軽蔑するとこれ以上はないというくらいみっともない言葉をぶつけられ私は振られた。もう18年も前のことなのに胸が苦しくなった。

 入院して三日もすると、まだ本調子でないとはいえ普通に体を動かせるようになっていた。私はベッドの上で体を起こして二人を出迎えた。

 詩が心配そうに話しかけてきた。

 「殺人未遂のニュースは見てたけど、まさか小百合さんが被害者とは知りませんでした。光夜先生、毎日クラスでも部活でも顔を合わせてるのに何にも教えてくれなかったんですよ」

 「詳しくは言えないけど、加害者は光夜君に片想いしてる女の子だった。なんか疲れちゃって、彼とは別れることにした」

 「そうだったんですか。なんて言っていいか……」

 「彼と私の問題だから、詩ちゃんが気にすることはないよ」

 今まで黙っていた李久がここでいきなり頭を下げた。入院してからいったい何人の人に謝られただろう? ちなみに昨日は光夜の元婚約者の飯島香織も田所主事に連れられて見舞いに来て、私が会いたいと言ったばかりに大変なことになってと頭を下げていった。有紗とは全然違う聡明で落ち着いた女性だった。香織は私が光夜と別れたことを田所主事から聞いていたが、光夜と復縁するつもりはないという。

 「そんな火事場泥棒みたいなことはできません!」

 私に気を遣ってるならそんな必要はないと答えておいた。香織まで手を引けば、光夜のこれからの交際相手は斉藤有紗ということになるのだろうか? そうなると光夜の前から実力で私を排除しようとした有紗の思惑通りということになるが、あとは光夜が判断して決めることだ。別れた私が心配することじゃない。

 「さゆ……藤川さん、お久しぶりです。あなたが羽海に頼まれてずっと前からうちの娘たちを預かって世話してくれていたと詩から聞きました。申し訳ない。僕は全然知らなかった。どうやら正当な報酬も支払われていなかったようだ。あなたの言い値で支払いたい。藤川さんが事件に巻きこまれて今大変な状況なのは聞いています。退院して落ち着いてからでいいので希望額を教えてもらいたい」

 真面目な李久の言い出しそうなことだと思った。羽海と愛人の西雄大は李久のこの真面目さにつけ込んで、不倫に托卵に資産の使い込みにとやりたい放題だったわけだ。

 私も大変だけど、李久の現在の状況は私の大変さに全然負けてない。詩はどこまでを李久に打ち明けたのだろうか? それが分からないから、安易に話を振ることもできない。本当は私が詩たちを預かったことが結果的に羽海の不倫の手助けをしたことに繋がったと謝りたいのだけど――

 「り……松本さん、お久しぶりです。こんな形で再会するとは思いませんでした。お金はもらうなら娘を預かってと頼んできた羽海からもらうのが筋かなと思うので、あなたからは受け取れません」

 「詩に聞きました。藤川さんはうちの娘たちを預かったことで妻の不倫の手助けをしたんじゃないかと自分を責めているそうですね。何も知らなかったあなたに罪はありません。悪いのは妻と不倫相手です。妻ならうちから追い出しました。これから慰謝料を請求しますが、藤川さんに娘たちの面倒を見させた報酬も含める予定なので額を気にせず請求して下さい」

 李久はそれから、娘三人のDNA鑑定を実施し、同時に興信所に不倫の証拠写真を撮らせ不倫相手の素性も調査させたことを淡々と語った。DNA鑑定の結果は詩の告白の通りだった。ただし、DNA鑑定は李久と三人の娘たちだけで実施したため、現時点では長女の詩と三女の星奈の遺伝上の父親が誰か未確定。不倫相手と星奈の父親とされる男の鑑定も弁護士が要求中。

 李久による羽海と愛人の雄大への制裁は開始されたばかり。まだまだ拡大中。

 「鑑定結果がどうであれ、娘は三人とも僕が育てます。父親はバラバラでも母親は羽海一人ですが、あの女に親権は渡しません。僕の稼いだお金を男に貢ぎ、専業主婦でありながら家事をサボり僕の仕事中に不倫三昧。挙げ句の果てに不倫相手に言われるままに金目当てに見ず知らずの男とも不貞行為をし、その男の子どもを妊娠し出産。そもそも幼い娘たちの面倒を小百合さんに押しつけ育児を放棄して不倫の快楽に溺れる女に大事な娘たちを任せるわけにはいかないです。羽海は今彼女の実家にいて彼女の両親の監視下に置かれていますが、離婚成立後は両親からも勘当されて実家からも追い出されることになっています。羽海が今まで使い込んだ莫大な資産は両親と兄弟が立て替えて返済するそうですが、それ以外の慰謝料と養育費は何十年かかっても本人にきっちり払ってもらいます。離婚後は不倫相手とくっついてもかまいません。不倫相手には羽海以上の金額を請求しますが、星奈の父親から受け取った2000万円ももちろん取り上げます。無一文同士で慰謝料と養育費の支払いに追われるだけの毎日を死ぬまで送ればいいと思ってます。そんな人生に絶望してあの二人が心中しても僕は一滴の涙も流さない自信がありますよ」

 淡々と語ってるようで、途中で私を恋人時代の呼び方で気づかず呼んでしまった辺り、内心は悔しくて悔しくてたまらないんだろうなと想像した。李久は穏やかな顔をして実は壮絶な修羅場の真っ最中だった。もちろん今まで不倫相手とともに好き放題やってきた羽海にとっても正念場。この闘争の結末がどんなことになるか、私にはまったく見当もつかない。

 李久が羽海から事情聴取した内容によれば、羽海は初めから不倫相手の西雄大に狂っていたわけではないらしい。

 二人が出会ったのは羽海が大学一年、雄大が高校三年のときのこの街の夏祭りで。出会ったその日に羽海は年下だが女扱いに慣れた雄大にお持ち帰りされた。雄大は羽海にとって初めての男だった。

 当初はどこにでもいるような普通のカップルだった。ただ、ちょっと口でおだてればお金を出してくれて、性欲処理までさせてくれる羽海は、もともと怠惰な性質だった雄大の怠惰をさらに増長させた。一方、心にもない褒め言葉を平気で口にできる雄大は、優秀な兄弟に挟まれてもともと自己評価の低かった羽海の心を鷲掴みにした。

 ある意味、二人は共依存の関係と言えた。雄大はお金や性欲解消という実利を提供する他者の存在を、羽海は精神的充足のため自己を高く評価する他者の存在を必要とした。お互いにとって相手が自身の不足を解消させるもってこいの存在だったのはお互いにとって不幸なことだった。

 だって本来その自身の不足は自身の努力により解消すべき問題だったから。すべき努力を放棄し二人とも人間的成長がストップした。

 その結果、雄大は定職につかずヒモ同然の生活を送ることとなり、羽海は夫がある身でありながら耳障りのよい薄っぺらな言葉を求めてお金と体を貢ぎ続ける生活を送ることとなった――

 最後に、李久から別の件の謝罪を受けた。

 「18年前、僕はあなたの釈明を一切聞かず、一方的に別れを告げた。今思えばあなたは羽海に頼まれてあんな主張をしていただけだとしか思えない。僕は馬鹿だ。あのままあなたとの交際を継続させていれば、僕はきっとこんな惨めなことにはなっていなかったのに……」

 それを聞いて詩が驚きの声を上げた。

 「お父さんと小百合さんって恋人同士だったの!? なんで小百合さんを捨てて、よりによってあんな女を選ぶかな? もう信じられない!」

 「でもあのとき李久君が私を選んでいたら、詩ちゃんたちは生まれてなかったんだよ」

 私がそう言うと、

 「そうだけど、そうだけど……」

 詩は悶えるように地団駄を踏んだ。

 「それから李久君。あえて昔の呼び方で呼ばせてもらうけど、今の自分を惨めだとあなたに言ってほしくない。不倫した羽海はすべてを失ったけど、あなたのその肩には詩ちゃんたちお子さん三人の人生がかかってる。それを忘れないで!」

 「その通りだね。僕は不倫した妻を失っただけだ。かわいい娘たちとこれからも一緒に暮らしていける。全然惨めなんかではなかったよ。僕が幸せだってことに気づかせてくれてありがとう」

 私こそありがとう。18年前のトラウマを今ようやく払拭できた。過去は変えられないが、未来なら変えられる。前に進んでいくしかないのは、李久君、私だってきっと同じだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る