14 私、崩壊


 目を覚ますと病室のベッドに寝かされていた。ベッドサイドのパイプ椅子に桜子と椿姫が座っていた。私がまばたきしてるのを見て、二人は私が意識を取り戻したことを知った。

 「私が誰か分かる?」

 「お姉ちゃん」

 「気分はどう?」

 「あんまり……」

 気分がよくないのは目を覚ましてすぐに自分が生理になっていることに気づいたからだ。私が病院のベッドで寝ているのは当然別の理由だろうが、そのときの私にはそのことが何よりもショックだった。先月生理になったときは光夜にすがりついて泣いてしまったが、今はそうする気分にはなれない。

 桜子は、走ってきたトラックが私を跳ね飛ばしたと教えてくれた。私の体は何メートルも先まで弾き飛ばされたらしい。事故の衝撃で意識は失ったものの、幸い脳にも内臓にも目立った損傷はなかった。丸一日眠り続けて今また真昼。なるほど体にまったく力が入らないし全身が焼けるように痛いが、骨が折れてるとか出血したとかそういうわけではなさそうだ。体に力が入らないのも今だけで、じきに元通りになるという。

 そうか、私は殺されかかったんだなと今さらながら背筋が寒くなった。弾き飛ばされただけなのは幸運だったのだ。巻き込まれたり轢かれたりしていれば、確実に死んでいた。

 結論から言えば、私を車道に突き飛ばした女は光夜の元婚約者ではなかった。光夜が卒業した大学の二年後輩の斉藤有紗という女。有紗は私を突き飛ばしてすぐに通行人たちに取り押さえられ、現在警察署に勾留中。

 光夜が大学生の頃、婚約者の飯島香織を裏切って誘ってきた後輩の女と体の関係を持ったと打ち明けられたことがあるが、その浮気相手こそ有紗だった。有紗は光夜に、香織と別れて自分と交際するよう迫り拒否された。有紗は当てつけのように光夜の親友と交際を開始。自分を捨てるなら親友に全部バラすと脅し、光夜との関係を繋ぎとめようとした。ほどなく光夜が有紗とキスしてるのを香織に見られ、光夜の二股はあっけなくみなの知るところに。光夜は婚約者も親友も失い、後ろ指を指されて鬼畜と呼ばれるようになった。

 その後、有紗は光夜につきまとったが、光夜は相手にしなかった。光夜は大学を卒業し、つきまとわれることもなくなった。だが有紗はあきらめたわけではなかった。光夜のスマホに細工して、LINEのやり取りを監視。有紗は私さえいなくなれば光夜が自分のものになると思い込んだ。光夜の今カノである私が元婚約者の香織と会うと知って、香織に成りすまして私と会い、流星が私を助けに走ってきたのを見て発作的に私の背中を押した。

 今回の事件は衆人環視下での殺人未遂なので報道もされている。ただ有紗に精神疾患の疑いがあり責任能力の有無がまだ確認できない状況なので容疑者名は報道されていないとのこと。有紗の心が病んだとすれば、それは初めてを捧げた光夜につれなくされたからだろうか? そうだとすれば有紗もある意味被害者。有紗の厳罰は望まないと桜子に伝えた。

 「あんたが会ったのは彼氏の元カノの成りすましだったわけだけど、元カノ本人だったとしても会うべきじゃなかったね。だってどっちにせよあんたを憎んでいてもおかしくない相手なんだから、危害を加えられる可能性はゼロじゃない。あんたが元カノと会うと知ってて止めない彼氏も配慮足りなすぎてどうかと思うけどね」

 桜子に私のスマホを操作してもらって、LINEの履歴を見た。フレンチレストランのトイレから田所主事にメッセージを送信してすぐ、返信が来ていた。


 《主幹が約束した時間に現れないと香織さんから連絡がありました。主幹が会っている相手は香織さんではありません。今すぐ逃げて下さい!》


 流星は田所主事に聞いて助けに来てくれたのだろうか? あの二人がそんなに親しかったとは知らなかった。

 「あんたと会いたがってる人が病院のロビーで大勢待ってるけど、まず誰から会いたい?」

 「誰が来てるの?」

 「あんたの彼氏、彼氏の家族、あんたの職場の同僚、それに加害者の両親」

 私はまず加害者の両親と会うことにした。一番に彼らと会うことにしたのはもちろん彼らと話をしたかったからではない。さっさと帰ってほしかったからだ。


 有紗の両親はともに五十歳くらいか。病室に入るなり土下座して謝罪された。私への謝罪はもういいので娘さんの心のケアをしてあげてくださいと伝えて出ていってもらった。私も自分の子どもがほしいけど、生まれてくる子が誰かを傷つけ加害者になるというリスクもあるんだなと知った。私と未来の夫はそうならないように心のきれいな人に育てていくことができるだろうか? 余談だがその後有紗の両親とは慰謝料500万円、及び今回の件にかかる入院費と通院費の全額を先方が負担するという条件で示談した。


 次に流星に病室に入ってもらった。桜子と椿姫には席を外してもらった。いきなり頭を下げられた。

 「おれが大声を出したせいで、有紗のやつ発作的に主幹の背中を押してしまったんだと思います。もっと慎重に近づくべきでした」

 「君は有紗さんを知ってたの?」

 「元カノでした。いや彼女だって思ってたのはおれだけで、向こうはおれのことなんてなんとも思ってなかったってあとで知らされましたけどね」

 この瞬間、今までのいろいろな疑問が解消された。

 「学生時代に婚約者と親友の彼女で二股かけてたのがバレて親友に絶交されたって光夜君に聞いていたけど、その親友って君のことだったんだね」

 「おれ今まで二人好きになって、二人とも光夜に盗られちまったってことですね。昨日香織さんから、光夜の今カノと会うはずだったけど、たぶん有紗が自分に成りすまして今カノをどこかに連れてった、フレンチのレストランにいるらしいけど心当たりあるかって連絡を受けて、よくおれがおごらされた店かと思ったら大正解でした。でも、まさか光夜の今カノが藤川主幹だったなんて思いませんでしたけどね」

 「三井君、そこに座って」

 いつまでも頭を下げて立ち続ける流星を、さっきまで桜子が座っていたパイプ椅子に座らせた。

 「確かに私の恋人というのは光夜君だった。でも光夜君の前に君に来てもらったのは訳がある。私と光夜君は私が妊娠したら結婚すると約束していた。この二ヶ月間、私は君が絶交するほど大嫌いな光夜君にさんざん抱かれてきた。君は何年でも私を待ってくれると言ってくれたけど、それを知った今でも気持ちは変わらないかな?」

 「主幹、光夜と別れるんですか?」

 「私はもう若くないしね、今さら映画みたいなドラマチックな恋をしたいわけじゃないんだ。仕事が終わってうちに帰ると、優しい夫がいて、笑顔の子どもたちがいて、穏やかだけど幸せな日々。私が望むのはそういう家庭。今でも光夜君を愛してるけど、彼と結婚できても私の望むものは手に入らないってことが今回のことで分かった。いつか浮気されるんじゃないかって不安を抱えたまま、まして自分の命を危険にさらしてまで今の恋を続けたいとは思わない。私は小物で臆病者だから、彼の恋人や奥さんになる器じゃないって知った。もし君がまだ私を待ってくれているなら、私はこれから君を好きになりたい」

 「主幹……」

 流星は言葉を選びながらぽつりぽつりと語りだした。

 「光夜本人を許せと言われてもそれは無理です。でも過去に光夜と交際していたからその人まで許せないかと言われたら、それは違うと思います。主幹への想いは今も変わりません。むしろ、主幹が光夜でなくおれを選んでくれるなら、おれは何よりも光栄ですよ。だって顔も頭のよさもバスケの技術も、おれは全部あいつに負けてるんだから。おれが初めて好きになった女は有紗ですけど、私は流星先輩の恋人でいるより光夜先輩のセフレでいたいですって言われて振られたのは前に話した通りです。光夜といるとドキドキするけど、おれと一緒にいても全然そういう気分になれなかったそうです。でもおれは浮気はしません。主幹を危険な目に遭わせないように全力で守ります。主幹はまだ光夜を愛していて、これから少しずつおれのことを好きになってくれるんですよね。それでいいです。おれは主幹を急かしません。主幹のペースに合わせます。おれもゆっくり主幹との恋を楽しみたいです」

 「ありがとう……」

 体にまったく力が入らないから、自分で涙を拭うことができないのがもどかしい。流星は自分のハンカチで私の目元を拭ってくれた。

 「流星君って、職場の外では呼んでいいかな?」

 「いいですよ。おれはプライベートで主幹のことをなんて呼べばいいですか?」

 「君が呼びたいように呼べばいい。呼び捨てでもいいよ」

 「無理ですよ」

 と光夜と同じ回答。

 「おれ不器用なんで職場とプライベートで呼び方を変えると、間違って職場なのにプライベートの呼び方で呼んでしまうかもしれないです」

 「それは絶対困るな」

 職場で部下たちが見てる前で流星に〈おい小百合〉と呼ばれたシーンを想像したら頭が痛くなった。

 「しばらくプライベートでも主幹って呼びます」

 「まあ君がそれでよければ……」

 さん付けで呼ぶのが一番呼びやすい気がするが、もしかしたら流星は光夜が私をそう呼んでいたのを知っていて、光夜と同じようには私を呼びたくないと思ったのかもしれない。

 「流星君」

 「はい」

 「年食ってるだけのかわいげない女ですが、よろしくお願いします」

 「おれの方こそ声がでかいだけの仕事もできない男ですが――」

 「それは知ってるから大丈夫」

 私たちは心の底から笑い合った。思えば光夜とはこんな場面は一度もなかった気がする。彼はクールでスマートでクレバー。私は仕事してるときみたいに、自分の弱い部分、情けない部分をなるべく見せないように、彼と接してきた。流星とはもっと自然に、素の自分を出してつきあっていけそうな気がする。

 「流星君」

 「はい」

 「ロビーに戻ったら光夜君に来るように言ってくれないかな。一人で来るように言ってほしい。別れ話をしなければいけないので」

 「分かりました。あいつは暴力を振るうようなやつではないけど、万一ということもあるので、おれも同席させてもらっていいですか。一切口出しはしませんから」

 私を全力で守るという約束をさっそく実行してくれてるんだなと思った。私は了承した。

 「流星君」

 「はい」

 「君がよければキスしたい」

 「嫌なわけないじゃないですか!」

 きっちり三秒間私たちの唇は触れ合った。有紗の言うとおり、なぜかあまりドキドキしなかった。それでいいと思った。だって私は別にドキドキしたいわけではないもの。私は恋愛したいのではなくて、好きな人との子を産んで安らげる家庭を作りたい。つまり、私はドキドキできる恋人がほしいのではなく、私が死ぬまでそばにいてくれる夫と子どもがほしかったのだ。


 光夜はジャージ姿ではなかった。今日は学校には行かないようだ。普通にカジュアルなコーデ。ジャージを着てもサマになるくらいだから普通の格好ならなおさらだ。流星と並んで立つとアイドルと付き人くらいの格差を感じる。

 自分を呼びにきたのが絶交してるはずの流星で、その上自分と一緒に流星まで病室に入ってきたのを見て、光夜はすべてを悟ったようだった。流星も見ている。結論から伝え、短時間で話を終わりにしようと決めた。お互いのためにもその方がいいだろう。

 光夜との会話も謝罪から始まった。

 「僕の過去の不始末のせいで何も悪くない小百合さんを危険な目に遭わせてしまいました。申し訳ありませんでした」

 頭を下げる光夜をずっと見ていた。もうすぐ恋人ではなくなる男を。私と結婚するかもしれなかった男を。私を妊娠させようと毎日何時間も私を抱き続けた男を。高齢処女だった私に性の快楽を教えてくれた男を――

 「光夜君を責めるつもりはないから謝らないでほしい。君に悪気がないのは分かってる。ただやってることがいちいち危なっかしすぎる。有紗さんの心がここまで病んだのは君が彼女の想いを去年からずっと放置していたせいだろうし、先日君のクラスの生徒の詩ちゃんを車に乗せて、男女二人っきりで街なかを走っていたのも教師としての君の立場を危うくしかねない行動だったと思う。私は今でも君を愛してるけど、君と一緒にいてこれからもずっと幸せでいられるというイメージが持てない。いつも君の浮気を心配しながら愛を貫けるほど私の心は強くないんだ。愛のためなら命も惜しくないと思えるほど若くもないんだ。短いあいだだったけど君に愛されて私は幸せだった。でももう無理、心が折れた。私の方からお願いしてつきあってもらったのに、本当にごめんなさい……」

 私から別れを告げられたことは光夜にとってどれほどの打撃だったのだろう? 光夜は頭を下げたままで表情を確認できないからよく分からない。

 「小百合さんこそ謝らないで下さい。あなたの命を危険にさらしてしまったのは全部僕の責任です。香織さんと有紗、二人の女性の問題を解決しないままあなたとの交際を始めたのはあまりに無責任でした。これからすぐにでも二人と話し合っていくつもりです。僕の未熟さのためにあなたにさんざん嫌な思いをさせてしまいました。あなたは謝るなと言うけど、謝罪の言葉以外何も浮かびません」

 君が未熟なら私は卑怯だ。本来なら光夜と別れてから流星に交際を申し込むのが筋だ。卑怯な私は光夜と別れてから流星に交際を申し込んで拒絶されることを恐れ、先に流星に交際を申し込んで了解を得たあと光夜に別れ話を切り出した。流星に交際を申し込んで断られたら、光夜との交際を何食わぬ顔で継続させるつもりだった。浮気や不倫が大嫌いだったくせに、ほんの短い時間だったとはいえ、私がやっていたことは少なくとも二股交際そのものだ。

 「光夜君、これから私は君もよく知る流星君と交際させてもらうつもり。でもそれは流星君と絶交中の君への当てつけじゃない。彼とは同じ職場で働いていて、私がフリーになるのを何年でも待つと言ってくれていた。その言葉に甘えさせてもらっただけ。――ところで流星君、一つお願いがあるんだけど」

 「言って下さい」

 「田所さんもここに来てる?」

 「ロビーにいました。ここでは挨拶くらいしかしてませんけど」

 「じゃあ田所さんに伝えてほしい。私と光夜君が別れることになったけど、それは私の方から無理にお願いしたことで、光夜君が私を振ったわけではないですって」

 「言うのはいいですけど、なんでそれを田所さんに?」

 「田所さんは光夜君のお姉さんなの。彼女は空手の達人で、光夜君が私を振ったら生き地獄を見せるって光夜君を脅してたから」

 「田所さんが光夜のお姉さん? マジっすか?」

 「私も最近知ってびっくりしたんだけどね」

 それからすぐに二人は病室を出ていった。こんなにあっけなく別れ話が終わるとは思わなかった。光夜が別れたくないとゴネる姿は想像できないけど、未練を感じさせる言動がまったくなかった。ゴネられても困るけど、あまりにすんなり別れられたのもそれはそれでショックだった。

 別れを切り出してるときは必死だったから悲しくはなかった。二人がいなくなった途端に待ってましたとばかりにフラッシュバックが押し寄せてきた。

 コンビニの前で一人酒していた惨めな私に声をかけてくれた白馬の王子様のような君。その瞬間、私の運命はオセロで盤面全体が黒から白に塗り変わるみたいに激変した。それは別れた今振り返っても私にとって望ましい変化だったに違いない。

 「ごめんね、光夜君、ごめんね……」

 私はまだ光夜を愛している。というか、これから少しずつ流星を好きになると宣言したのはいいけど、本当にできるのだろうか? 正直自信がない。少なくとも現時点では私の心の中には光夜しかいない。さっき流星とした味気ないキス一回で崩壊するほど、私の心は脆くはない。別れてからかえって光夜の存在が強まったような気さえする。

 「光夜君、愛してる……」

 涙で何も見えない。涙がぼろぼろと流れ落ちていくが、相変わらず力が入らず腕が上がらなくて涙を拭くこともできない。

 「光夜君――」

 そのとき誰かが私の目元を拭ってくれた。誰かと思えば流星だった。

 「ごめんなさい! 彼と別れて君とつきあうって決めたのに、私はなんて失礼なこと……」

 「気にしないで下さい」

 流星は怒っていなかった。むしろ不幸な人を慈しむ聖者のような笑顔。

 「主幹は本気で光夜を愛してたんですよね。本気の恋なら別れたあともしばらく引きずって当然ですよ。おれも有紗に振られたあと今の主幹と同じような感じでした。逆に本気の恋なら別れた瞬間にキッパリ気持ちを切り替えられる方がおかしいです。おれは主幹――あなたが少しずつおれを好きになるのを気長に待ってますから」

 「待たないで!」

 「えっ」

 「私が君を好きになるのを待つんじゃなくて、なるべく早く私が君を好きになるように君が私をリードしてほしい」

 流星は少し考えてから私の体を抱き起こし二回目のキスをした。私はまた泣いていたけど、それは光夜を想っての涙ではなかった。さっきはきっちり三秒間だったけど、今回のキスの時間は不明。流星に包まれている安心感と病み上がりの疲れから、キスされている途中でいつの間にか私が眠ってしまったせいで。

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