13 ミサンガをつけた二人


 詩は自分の知っているすべてを父に打ち明けると告げてわが家を去った。松本家のその後については何も知らない。詩は休まず登校し続けていると光夜から聞いて、よい方向に進んでいると信じた。


 同じ頃、昼休みで周囲に誰もいないとき、流星が私の席の方に来て質問した。

 「以前、母子家庭向けの貸付金を申し込んで不承認になって貸してもいない人の口座から返済金を引き落としたっていう大きなミスがあったじゃないですか。すごく大きな不祥事だと思うんですが、一切報道されてないようです。そういう事実があったということは公表しないということですか?」

 「君はどうすべきだと思う?」

 「公表すべきだと思います」

 「それはどうして?」

 「同じ間違いを二度と犯さないためです」

 彼の言うとおり不祥事の隠蔽が常習化すれば、危機意識と規範意識が減退し、過ちは何度でも繰り返されていくだろう。

 「君の考え方が正しい。うちの県はなるべく不祥事は握り潰そうという考え方。都合の悪いことを公表して記者の前で謝罪したり、不祥事の防止策を考えたり、場合によっては誰かに責任取らせて処分したり、そういうことを考えて実行するのが面倒だから。これを変えるには君が偉くなって、淀んだ組織の空気を一掃する改革をするしかないね」

 「主幹は何もしないんですか?」

 と聞かれて、〈お二人に恥じない人生を生きます〉と宣言したときの詩の凛とした声を思い出した。

 「私も君と同じ気持ちだよ」

 そう答えると、彼は安心したように自分の席に戻っていった。

 不良職員の流星に公務員としての心構えを教えられてしまった。私もまだまだだなと落ち込んだけど、一方で偉くなって改革を進める数十年後の流星の姿が目に浮かび愉快な気分にもなった。


 「飯島香織さんが主幹と二人で会って話したいと言ってるんですが」

 と田所主事にいきなり言われて何のことか分からなかった。さっき彼女に給湯室に呼び出されたとき、人に聞かれたくない話があるらしいとは思ったが――

 「ごめん。その人が誰なのか思い出せない」

 「香織さんは光夜の元婚約者です」

 「!」

 私は分かりやすく動揺していたと思う。香織は光夜を信じて二度裏切られた。一度目は大学生のとき、光夜は軽い火遊びのつもりだったのに相手が本気だったために光夜は香織だけでなく一番の親友まで失うことになってしまった。二度目は今。香織との婚約が解消されてなかったことは光夜自身も知らなかったことだが、彼女にとって私は光夜の浮気相手にすぎない。

 そんな彼女が私に会いたい? しかも二人きりで? さすがに刺し殺されたりはしないだろうが、嫌な予感しかしない。

 〈この泥棒猫、光夜を返せ!〉

 これくらい言われることは覚悟した方がよさそうだ。謝れと言うなら何時間土下座してもいい。慰謝料よこせと言うなら相場の数倍の額を払ってもいい。

 私は香織と会うことにした。香織は田所主事に、なぜ私に会いたいかを語らなかったそうだ。聞けば彼女は県庁とは通りを挟んで向かいに建つ市役所の職員だという。年は全然違うが、同じ公務員同士、そして光夜を愛した者同士、理解し合える可能性はあると信じた。


 田所主事を通して私は香織と会う約束をした。香織さんと会うことになったと光夜に伝えると、すでに姉の田所主事から聞いて知っていた。特に心配はしていないようだった。

 会う日は私の誕生日からちょうど一週間後の土曜日になった。時間は正午。場所は市役所裏の広場。市役所の裏側は市街地への入口であり、待ち合わせにはもってこいのスペースではある。目印に二人とも腕にミサンガを結ぶことにした。梅雨時だから降り出しそうな空模様ではあるが、天気は今のところなんとか持ちこたえていた。

 ただでさえ怒ってるであろう相手との待ち合わせに遅れるわけにはいかない。私がその場所に着いたのは11時15分。早すぎたが遅れるよりはいいだろう。

 そういえば、ミサンガは願いを叶えるために身につけるアイテム。私は今日が無事に終わることを願った。できれば香織と友達になりたいが、さすがにそれは虫がよすぎるか。

 ベンチはあったが座って待つのは失礼かと思い、立って待っていた。すると前から両腕にそれぞれ十本以上、派手なミサンガをじゃらじゃら巻いた若い女が近づいてきた。表情は笑ってはいないが、怒ってもいない。無表情に近い。来た! と私は身構えた。

 「飯島香織さんですか?」

 と話しかけると彼女はうなずいた。ボーダーのカットソーにベージュのロングスカート。しゃれているが落ち着いた感じもするコーディネート。話に聞いていた元婚約者のイメージ通りだと思った。

 私の方は白いブラウスに黒いタイトスカート。もとから地味な服しか持ってないけど、その中でもこれ以上は無理というほどのビジネスライクなコーデにした。それはもちろん今日は香織の引き立て役になるくらいの気持ちでここに来たからだ。

 「はじめまして、藤川小百合です」

 「あなたが……」

 香織はまるで神か悪魔でも見たかのように目を見張っている。

 「失礼ですけど、お年が38歳というのは本当ですか?」

 「今月で39歳になりました」

 「はあ……」

 「私の年がどうかしましたか?」

 「光夜は私とつきあってるとき平気で浮気してました。でもあなたは光夜よりずいぶん年上なのに、彼はあなたとつきあい始めてからはほかの女に見向きもしないようです。正直負けたなって思いました。あなたの何がよくて、私の何がいけなかったのか、光夜をあきらめるにしても、それを知らないままでは私は先に進めない気がしました。そんな自分勝手な理由で年上のあなたをお呼び立てしてしまいました。すいませんでした」

 「謝らなくていいです。それであなたの気がすむなら、私はいくらでもつきあいますから」

 とりあえずランチでも食べながら話すことにした。どこのお店にするかは香織に任せた。私たちは市役所裏の広場を離れた。時間は11時30分。まだ待ち合わせ時刻の30分前だった。

 香織がここにしましょうと言って入っていったのは、すごくおいしいけど安いランチでも三千円は取られるフレンチの有名店。香織は慣れた様子でワインまで注文しだした。

 「光夜君とよく来たお店なんですか?」

 「彼とは一回もないかな」

 友達同士で気軽に来れるような価格帯のお店じゃない。家族でしょっちゅう来るお店ということか。どうやら香織の家はお金持ちらしい。

 「名前で呼んでいいですか? 私のことも名前呼びでいいので」

 「いいですよ」

 「小百合さん、こう見えて私悔しいんですよ」

 「すいません」

 「いや、光夜を盗られたこともだけど、一番悔しいのはアラフォーのおばさんに私は負けたんだなってこと。今日はどんなすごい人が出てくるのかと思ったら、どこから見ても普通の人で二度びっくり」

 確かにワインを飲み始めてはいるが、さすがにこんな早くは酔いが回らないだろう。香織さんってこんなストレートに自分の感情をむき出しにする人だったのか。今まで持っていたイメージと違いすぎたので私は内心戸惑っていた。

 「何度考えても分からないんですよ。小百合さんは県庁のエリートらしいからお金は持ってるんだろうけど、光夜はお金で釣られるタイプじゃない。そうなるとやっぱりセックスですか? 独身生活が長かった分おつきあいした男性も多かったんですよね。長年の経験に培われた小百合さんの夜のテクニックに光夜は骨抜きにされちゃったんですかね?」

 実態を言えば骨抜きにされてるのは私の方なんですけど、そう言ったところで信じてもらえそうにない。それにしてもこの手の話はするなとは言わないけど、せめてもう少し小声でやってくれないだろうか。隣のテーブル席の若いカップルから汚物を見るような視線でさっきから見られてることに、早く気づいてほしい。

 そのとき、バイブにしていたスマホが震えだして、ちょっとトイレにと言って席を外した。トイレで確認すると、田所主事からLINEのメッセージが届いていた。


 《主幹、今どこにいるんですか?》


 今回の香織との面会をセッティングしたのは彼女だが、香織とどこに行ったかをいちいち報告しなければならないのか? ちょっとムッとしたが、彼女は光夜の姉。おとなしく返信しておいた。


 〈香織さん馴染みのフレンチのお店。たぶんおいしいんだろうけど、酔っ払った香織さんに絡まれて料理を楽しむどころじゃなくなってる〉


 とだけ入力して送信した。トイレを出るときまたスマホが震えだしたが、どうせたいした要件じゃないでしょと決めつけて無視した。

 私が戻ると、香織は顔を真っ赤にしながら、

 「小百合さん、次行こ次!」

 と大きな声で誘ってきた。私がいないあいだにワインの瓶は空になっていた。隣のテーブルの若いカップルはたくさんお金のかかるお店に食べに来た挙げ句せっかくの雰囲気をぶち壊しにされて本気で怒っている様子。次の店に行くかどうかは別にしてこの店からは早く出た方がよさそうだ。

 「香織さん、じゃあ私お会計済ませて来ますね」

 「小百合さん、ごちそうさまです!」

 当然のように私のおごりということにされている。香織はにこにこ笑ってるだけ。香織は光夜が私を選んだことを信じられないと思ってるようだけど、一時期でも光夜があなたを婚約者としていたことの方が私には信じられない。

 たった一回のランチで請求額は三万円を超えた。うち二万は香織が一人で飲み干したワインの代金。酔っ払う前から全然私に敬意を払おうとしない香織に言ったところで機嫌よくお金を出してはくれないだろう。納得いかないが私の自腹で全部支払った。

 次の店も決まっているらしく、ついてこいと言わんばかりにすたすた歩いていく。酔っ払ってるにしてはしっかりした足取りだと思ったが、道を間違えたと言って引き返してきた。車の往来の激しい道でガードレールもない。信号が赤で横断歩道の前で並んで立ち止まる。

 「光夜は盗られちゃったし、もう死んじゃおうかなあ」

 なんて言ってる。きっともっといい出会いがありますよと私が言うと火に油な気がして、どう慰めていいか分からない。

 大丈夫だろうかと思ってるうちに、後ろで誰かが大声を出した。

 「主幹、アリサから離れて下さい!」

 主幹? 私のこと? そう思って振り返ると走ってくる流星が見えた。流星がなんでここに? アリサって誰? 私の頭の中は〈?〉だらけだった。

 「小百合さん、お別れです」

 香織がそんなことを言い出した。右の方から大型トラックが迫る。

 「香織さん、死ぬとかお別れとか軽々しく言わないで!」

 「何言ってるんですか。私は死にませんよ」

 香織はすべてを笑い飛ばすかのような吹っ切れた表情。それを見てホッとしたが、

 「死ぬのはあなたです」

 香織に後ろから思い切り背中を押され、私は道路に突き出された。耳をつんざくクラクションの音。大型トラックが私の視界全体を覆って目の前まで迫っていた――

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