10 赤鬼と一角獣


 不妊検査の結果に特にサプライズはなかった。光夜の精子は年齢相応に数が多く元気で、私の卵子は年齢相応に数が少なくなっていた。年齢要素以外に双方に妊娠しづらい理由はなかった。私はホッとした。どちらかが不妊症なら人工授精や体外受精に移行することになるが、そうすると今までの頻度で光夜と会い、会うたびに繰り返し行為しなければならないという根拠もなくなるから。

 光夜と出会って約一ヶ月。ほぼ毎晩会って行為した。それまで38年間未経験だったくせに、光夜の若さに甘え、膣内射精させた回数は間違いなく百回を超えていた。私は光夜しか知らないが、光夜は女の体の扱いに慣れていて、どうすれば女が喜ぶかよく分かっていた。私は行為がもたらす快楽に溺れ、光夜もうぶだった私が性の喜びに狂う姿を見て満足そうだった。38年も肌のふれあいを知らなかった私はどれだけ人生を損してたんだろうと後悔することもあるが、そういうときは大好きな光夜に初めてを捧げられてよかったと思うようにしている。

 光夜の家族が私を浮気相手扱いしていることは知っていたが、光夜自身の気持ちを疑ったことはなかった。六月中旬、私の誕生日を三日後に控えたあの日までは――


 その日、私は同僚が運転する公用車に同乗して出先機関に日帰り出張に出ていた。夕方、県庁に戻る途中、見慣れた車が前から向かってくるのが見えた。毎晩助手席に乗せてもらっている光夜の車と車種も車体の色も同じだった。珍しい車でもないからそんなこともあるよねと思って、ひょいと運転席に目をやると、運転していたのは光夜だった。黒いジャージ姿。同じ車はたくさんあっても、ジャージ姿で車を運転する男はめったにいない。あれは確かに光夜だった。

 問題は助手席に私ではない女を乗せていたことだ。あと一時間もすれば私が座るであろう場所に、今は別の女が座っている。嫉妬でも憎悪でもない。ひたすらショックだった。

 もしかして今までもそうだったのだろうか? 光夜の車の助手席に座る女は自分だけと思い込んでいたけど、私が座る前後の時間に違う女たちが座り、私と同じようにホテルに連れ込んでいたのだろうか? 実は私はそんな不特定多数の女の一人にすぎなかったのかもしれない。

 元婚約者が光夜と復縁したがっているのは知っている。でもさっき助手席に座っていた女はその人ではない。だってさっき光夜の隣に座っていた女は、どこかの高校の制服にしか見えないブレザーを着ていたから。ブレザーの下はブラウスに赤いリボン。どう見ても女子高生。彼女が18歳になっていなければ淫行だ。

 警察に通報してやろうかと一瞬思って、そんな自分がなおさら惨めになって涙が出てきた。同僚に気づかれたくなくて両手で顔を覆ったけど、ううっと嗚咽の声が漏れて私の心の修羅場はあっという間に白日のもとにさらされてしまった。

 「主幹! どうされたんですか?」

 彼女はそう声をかけてたまたま通りかかったコンビニの駐車場に車を駐めた。

 彼女は田所美月主事、私より一回り下の26歳。主な担当業務は特定不妊治療費助成と小児慢性特定疾病医療費助成。入庁してすぐ結婚、妊娠、出産。二歳の子を育児しながらの勤務だから、先日の母子係の歓迎会はやむを得ず欠席した。

 泣いてるのがバレたなら隠す必要がない。というか泣きやませる気力が皆無だったから、今さらどうしようもない。

 「病院に行きますか?」

 「そういうのじゃないの。ちょっとショックを受けただけで……」

 「何か嫌なことでも思い出したんですか?」

 こう見えて私は氷の女と呼ばれた女。嫌なことを思い出したくらいで人前で泣いたりしない。

 「偶然見ちゃって……」

 「何を見たんですか?」

 心が弱ってなければ話さなかっただろう。もちろん心が弱ってなければ泣いたりしないのだが。とにかくこのとき私は誰かに話を聞いてほしかった。気休めでいいから大丈夫だと言ってほしかった――

 「田所さん、ここだけの話にしてくれる?」

 「もちろんです。子どもが熱を出して保育園から呼び出されたときとか、主幹にはいつもお世話になりっぱなしだから、こんなときくらい主幹の力にならせてください」

 「ありがとう」

 田所主事は年は若いが口は固く信用できる人物。思いきって話して見ることにした。

 「おつきあいしてる人がいるんだけど、その人が助手席に女子高生を乗せて車を運転してるのを偶然見てしまって……。その人にお姉さんがいるのは知ってるけど、妹がいるとは聞いてなくて……」

 「実は主幹が独身で交際中の方がいるという話を歓迎会の場でなさったそうですね。最近聞きました。主幹とおつきあいされている方が年上なら、妹ではなくて娘さんということはありませんか?」

 乗りかかった船だ。恥を忍んで全部打ち明けることにした。

 「実は彼、あなたより年下だから、それはないかな」

 「ええっ!」

 本気で驚いている。援助交際の相手みたいに思われたら嫌だなと思ったけど、素直に恋人だと受け取ってくれたようだ。

 「見かけたのはその彼氏さんで間違いないんですね」

 「うん。顔も服装も……。彼、いつもジャージ姿なんだ。食事するお店に入るときまで。ジャージ姿で車を運転する人って珍しいでしょ」

 「ジャージ姿……」

 田所主事は少し険しい表情になった。

 「その男の顔の分かる写真とかありますか」

 「あんまりないけど……」

 焼肉店に行ったときあまりに豪快な食べっぷりだったので思わず撮影してしまった動画があって、スマホの画面でそれを見せてあげた。軽薄な男に見えたのだろう。彼女の感想は辛辣だった。

 「主幹、どうしてもその男でなければいけませんか。主幹ならいくらでも条件のいいお相手が見つかると思いますけど」

 浮気性の男はやめとけという忠告が正論なのは分かる。しかも浮気相手は女子高生。とんでもない地雷だ。地雷なら踏み抜いて炸裂させないように離れて歩かなければならない。分かってはいるけど……

 「見栄を張って既婚者の振りをしてたけど、本当は先月彼と出会うまで、男の人と体の関係になったことがただの一度もなかった。私ならいくらでもいい相手が見つかる? 適当な慰めを言わないで! 今までの人生で男性にチヤホヤされたことなんて一度もなくて、それどころか38年間私は誰にも手を出されなかった。今、彼を失って、新しい恋人を作る自信なんてない。何よりまたあの淋しい日々に戻るなんて耐えられそうにないよ……」

 情けないがここで大泣きしてしまった。田所主事が約束を破って今の話を職場で言いふらしたら私はもう出勤できない。歯止めの利かなくなっていた私はさらに恥の上塗りを重ねていった。

 「私が妊娠したら結婚してもらえることになっていて、私は毎晩彼に抱かれてる。私には彼しかいないけど、彼にとっては私なんて性欲処理の道具にすぎなかったのかな。16歳年下の若い男がこんなおばさんと結婚してくれるわけないって頭では分かってる。でもどうしてもあきらめきれないんだ……」

 「あたしが尊敬する主幹をたぶらかしてオモチャにして、絶対に許せない!」

 自分がたぶらかされてオモチャにされた汚れた女なんだと思うと、なおさら惨めな気分になった。

 「私のために怒ってくれてありがとう。今夜も仕事帰りに彼と会うから、私を傷つけるだけならいいけど、もしそれが淫行ならあなた自身の人生が終わるかもしれないんだよって諭してみるつもり。お金を渡して彼と女子高生の関係が切れるならいくらでも渡そうと思ってる」

 「今までも彼にお金を渡したりしていたんですか?」

 「食事代とホテル代は私が出してるけど、お金を渡したことはなかった。要求されたこともなかったし。彼も働いてるから、お金に困ってる感じはしなかったけど……」

 「これから彼と会うんですよね? 主幹と話す前に、私がその彼と話してみてもいいですか?」

 「どうして?」

 「今の主幹の精神状態だと、お金を出せと言われたら全財産渡しそうじゃないですか。まず私が冷静に事情聴取した方がいいと思います」

 一理あると思った。実際、彼と女子高生の関係が切れるのなら三千万円だって惜しくないとさっきまで考えていた。

 「手を貸してもらえるのはうれしいけど、彼を問い詰めたり手荒な真似をしたりしないで落ち着いて話すって約束してくれる? 私は彼と別れたいわけじゃないし、彼を怒らせたいわけでもないの」

 「もちろんです!」

 そのあと田所主事は車を発進させて、県庁までの道中、彼女のご主人との馴れ初めを教えてくれた。ご主人は同級生で、小学生のときから通っている空手道場で知り合ったそうだ。二人とも空手道場には高校卒業まで通い、道場を辞めたらもう会えなくなると思うとつらいねと話してるうちになんとなく交際が始まったそうだ。二人はどっちが強いの? と聞くと、何回か手合わせしたことあるけど全部あたしが勝ちましたと田所主事。あいつあたしが相手だと絶対に本気出さないんです。たまに腹立つけどそういう男なんですよ、あいつは。

 腹が立つと言っていたけど、のろけにしか聞こえなかった。私もそういうほんわかした恋がしたかったな。こんなキリキリと胃の痛くなるような恋ではなくて――


 〈あなたが助手席に女子高生を乗せてるのを見ました。話がしたいのでいつもの時間に県庁裏の公園のベンチで待っていてください〉


 光夜にLINEでそう送った。本当はそのあとに〈どうせ騙すなら最後まで騙し通してほしかった〉と書いてあったのだけど、その部分は直前に消去して送信した。すぐに誤解ですと返信が来た。これから私が光夜の車に乗って食事する店に行くにせよ、ホテルに直行するにせよ、その前にケリをつける必要があると信じた。


 県庁の執務室に戻るなり、驚いた顔の流星が飛んできた。

 「主幹、何があったんですか!」

 「な、何もないけど……」

 「目の辺りが真っ赤じゃないですか? 彼氏にモラハラでもされて泣いてたんですか? もしそうなら、おれからそいつにびしっと言ってやってもいいですよ」

 「本当に大丈夫だから……」

 気持ちはありがたいが、ありがた迷惑そのものだ。ただ今の私に流星のテンションに正面から対抗する気力はなかった。


 公園といっても県庁も含めて徳川家康が築城したお城の跡地。お堀に囲まれた敷地は広大な面積を誇る。

 指定した県庁裏手のベンチに光夜は座っていた。車は近くの駐車場に駐めたようだ。

 光夜は車を運転していたときと同じ黒のジャージ姿。ただし隣にはブレザー姿の女子高生。彼女はのんきに大きなソフトクリームをなめている。六月らしく蒸し暑い一日だったから、本当においしそうだ。しかも私にはけして真似できない無邪気で屈託のない笑顔を満面に浮かべながら。

 堂々と二人並んでベンチに座ってるのを見たら、また涙が流れてきた。これはあれか。私が光夜の前に現れたら、

 〈この子とつきあうことにしたので、あなたとは別れることにしました。今まで楽しい時間をありがとうございました〉

 と死刑宣告でもするつもりなのか? それならいっそ本当に殺してくれたらいいのに。光夜と出会う前の恋のときめきを知らなかった時代に戻りたい。

 「あの男で間違いないですか?」

 田所主事の問いかけに無言でうなずいた。向こうの二人はまだこっちの存在に気づいていない。実際の距離よりもずいぶん遠くに感じる。結局、私たちは体だけ何度も何度もつながって、心は一度もつながっていなかった。すべてが錯覚だった。私はまた元通りの一人ぼっちになった。


 「じゃあ話し合ってきます」

 「お願いします」

 なぜか田所主事は正面から行かず、二人の視界に入ることを避けるように二人の後方に回り込み、後ろからひたひたと近づいていった。

 田所主事がベンチの真後ろに到達した。光夜と女子高生はまだ気づかない。彼女はすうっと片足を自分の顔の高さまで上げた。パンツが見えそうだよと身振りで注意を与えようとしたら、彼女はそのまま振り上げた片足を振り下ろした。振り下ろした踵が脳天に直撃して、光夜が地面に崩れ落ちた。もしかしてこれが踵落とし? 初めて見た。いやそんなことより――

 手荒な真似はしないって約束したじゃん! 私が田所主事に光夜を襲わせたと勘違いされたら、問答無用で別れを切り出されてしまうんじゃないか。いても立ってもいられなくて私も走り出した。

 田所主事は赤鬼さながらの鬼気迫る表情。追撃の手を緩めず、「思い知れ!」だの「やっぱり去年殺しとけばよかった!」だのと叫びながら、倒れた光夜を蹴りまくっている。長年空手をやってきただけあって美しい蹴りだと思った。光夜は終始無抵抗でサンドバッグ状態。

 女子高生がやめてと叫びながら田所主事につかみかかったが、田所主事は逆に女子高生の手からソフトクリームを奪い、地面に座り込む光夜の顔面にべちゃっとソフトクリームを突き立てた。ソフトクリームは顔に刺さったまま落ちず、せっかくのイケメンが台無し。女子高生が防犯ブザーを作動させてけたたましい音が鳴り響く。そして、「誰か助けて!」と泣き叫んでいる。

 途中で走るのをやめて、私は呆然と立ち止まった。どうにかして光夜からの愛を取り戻したいと意気込んでいたはずなのに、ソフトクリームが顔に突き刺さって一角獣みたいになった光夜を見ていたら何をどうしていいか分からなくなってしまった。私は氷の女。仕事の修羅場ならいくらでも乗り越えてきた。でもこの年になるまでまともな恋愛経験のなかった私にとって、地獄絵図のようなこの光景は幼稚園児レベルの私の恋愛キャパをはるかに超えていた。

 突然、女子高生が防犯ブザーの音を止めたと思ったら、私の方に駆け寄ってきた。

 「あの、藤川小百合さんですよね?」

 えっ? 女子高生に知り合いなんていないはずだけど……

 「思い出してくれないか……。六年ぶりくらいですもんね。私、松本詩です」

 詩ちゃん!? 羽海と李久君の長女の? 今年高校に入学したというのは羽海に聞いていたけど、小学生までの顔しか知らないから全然気づかなかった。詩が生まれてから十歳になる頃までずっと、急用だと言っては羽海がわが家まで預けに来て面倒を見させられたものだ。たまに小さな子どもを預かるのは楽しいが、多いときは週に三日ということもあった。しかも詩だけでなく次女の雪が生まれてからは二人セットで。いくら用があるといってもそこまでになるとさすがにネグレクトじゃないかと腹を立てたこともあるが、雪が小学生になると預けに来なくなった。だが、昨年暮れに三女の星奈が生まれてから、羽海はまた私のうちを無料託児所として利用するようになった。最近は光夜とのデート優先で羽海の依頼は断り続けている。

 「勝手すぎるよ! 友達がこんなに困ってるのに」

 先日はとうとう電話で逆ギレされた。勝手すぎるってどの口が言うのか? 本気でそう問い返してやりたかった。

 目の前の詩はいかにもスポーツやってますという感じの、ショートカットのさわやかな少女に成長していた。詩の誕生日は八月だったはずだから今15歳か。38歳のおばさんに勝ち目はない。

 それにしても詩が光夜の新しい彼女? ほぼ十年間さんざん面倒見てあげた詩に最愛の男を奪われるのか? 恩を仇で返された気分なんですけど!

 「ああ、でも小百合さん、お話はあとです。頭のおかしい女に先生が襲われてるんです! 助けてくれませんか?」

 「先生!?」

 思わず叫んでしまった。光夜が先生? 安月給で休みなく働かされるブラック企業の社畜さんじゃなかったの?

 「ほらそこ。ああっ、男の人の急所を蹴られまくってる。先生が子どものできない体にされちゃうよお!」

 それは困る。私は詩と二人でようやく田所主事を光夜から引き離した。

 「主幹、止めないで下さい! 主幹の彼氏がいつもジャージ姿だと聞いて嫌な予感がしたら案の定でした。今日という今日は愛想が尽きました。この男の息の根を止めるか、最低でも男性機能を消失させるか、どっちかになるまで見守ってて下さい」

 「はいそうですかって言えるわけないよね? そもそも私の部下から犯罪者を出したくないんですけど!」

 田所主事はハッとしたように動きを止め、いつもの従順な部下である彼女に戻った。

 「すいません。あたし、手荒な真似はしないという主幹との約束を破ってしまいました」

 「うん、これだけ無残に約束を破られるとかえってすがすがしいと思えるほどの破り方だったね」

 私はしゃがんで、呆然と地面に座り込む光夜に話しかける。黒いジャージは土まみれ。目はうつろで肩で息をしている。

 「光夜君、私、分かる?」

 「小百合さん、助けてくれてありがとうございます」

 「よかった。光夜君、一言もしゃべらないし一度も反撃しないから、脳震盪でも起こしてるのかなって心配してた」

 「この人昔から、言い返したりやり返したりすると、二倍三倍どころじゃなく十倍返ししてくるんで……」

 光夜と田所主事は昔からの知り合いだったらしい。知り合いといっても田所主事の方が一方的に光夜を暴行する関係のようだが。

 「警察です。ちょっとお話を聞かせて下さい」

 そこへ制服を着た二人の警官が駆けつけてきた。この光景を目にした誰かに通報されたらしい。(そりゃそうだよね)

 田所主事が前に出て警官たちに頭を下げた。

 「すいません。ただの兄弟ゲンカだったんですが、やりすぎました」

 「兄弟!?」

 と叫んだのはもちろん私。一瞬名字が違うのにと思ったが、田所は夫の名字で旧姓は光夜と同じ村瀬だったのだろう。

 「弟は浮気者で、婚約者を裏切ったという前科もあります。今回の件はもっとタチが悪いですね。男性との交際に慣れてなくて、しかも年齢的に結婚、妊娠に焦っている主幹の弱みに付け込んで、たぶらかしてさんざんオモチャにしたわけですから。あたしが尊敬する主幹をなんだと思ってるのかと問い詰めようとしたら、光夜にはまた新しい女ができていて……。しかも女子高生? まさか教え子? あたしは自分を見失って、本気で殺してやろうと思いました」

 「殺す?」

 と反応したのはもちろん警官たち。職業柄そこは無視できないのはよく分かる。警官たちには大人三人で頭を下げて、騒ぎになったことを丁重に謝罪してお帰りいただいた。


 どこか別の場所に移動して話し合った方がいいのだろうが、田所主事によってぼろ雑巾のようにされた光夜をすんなり受け入れてくれる飲食店があると思えない。ちなみに田所主事は無傷。かえってまだ殴りたりないという憎々しげな視線を光夜に向けている。

 さっきまで光夜と詩が座っていたベンチに私と田所主事も加わり、窮屈に四人並んで腰掛けて話すことになった。並び順は、光夜、田所主事、私、詩。私と詩を光夜から離したのは田所主事の配慮。さっきまで顔にソフトクリームが刺さっていた光夜の顔の辺りから、ほのかに甘い香りが漂ってくる。

 光夜が田所主事の顔色をうかがいながら質問した。まだ少し怯えているようだ。

 「姉さん、小百合さんと同僚だったの?」

 「同僚じゃなくて、主事のあたしより四段階も役職が上の直属の上司! 子どもが急に熱を出したとき職場の理解のある上司が嫌な顔一つしないで仕事を代わって引き受けてくれるって、あたし何度も話したことあったよね。その上司というのが藤川主幹なの!」

 「そんな素敵な人を恋人にできたなんて、僕は幸せ者ですね」

 私が素敵な人? 私を恋人にできて幸せ者? 今、人生で一番心地よいセリフを聞いたような気がするんですけど、空耳ではないよね?

 でも田所主事は途端に気持ち悪いものを見るような表情になった。

 「ふーん、じゃあ聞くけどさ、藤川主幹があんたの恋人なら、あんたが車で連れ回してたそこの女子高生はあんたの何なの?」

 「姉さんはさっき僕が小百合さんをたぶらかしてオモチャにしてるって言ってたけど、僕は小百合さんと真剣に交際させてもらってる。年の差があるから小百合さんが不安に感じてるのは知ってるけど、不安に付け込んでセフレ扱いしようとか貢がしてやろうなんて思ったことは一度もないよ。それから今、小百合さんの隣に座ってる松本詩さんは僕が担任するクラスの生徒だよ。僕が顧問を務める女バス――女子バスケットボール部の部員でもあるけどね。要は仕事上のつながりしかないってこと。彼女に対して恋愛感情なんてこれっぽっちもないよ。それは詩さんも同じ。僕は担任として受け持った生徒の相談に乗って、急に気分が悪くなったというので彼女のうちまで車で送っていく途中だったんだ。僕と詩さんが恋愛関係にあると疑うなんて彼女に対しても失礼だよ」

 どうして私は光夜の言い分も聞こうともせず、彼を信じてやれなかったのだろう? 私が中年のおばさんだから醜いのではなくて、自分が中年のおばさんだから若くて魅力的な彼に本気で愛されるわけがないと思い込む私の卑屈な心が醜いんだと知った。浮気を疑ってごめんなさいと光夜に謝ろうとしたとき、ううっとすすり泣く誰かの声が漏れ出した。泣き出したのは詩だった。

 「詩ちゃん、どうしたの?」

 高校生にちゃん付けはおかしいかもしれないが、私にとっては彼女が生まれてからの十年間の預かっていた期間、ずっと詩ちゃんだった。今さら簡単には呼び方を変えられない。

 「光夜先生に恋愛感情なんてこれっぽっちもないって言われちゃった。私の方はあったのに……」

 「詩ちゃん、ごめんね、ごめんね」

 涙をぼろぼろこぼし始めた詩の目元を拭ってあげた。どうして私は自分の恋人に振られた別の女を必死に慰めているんだろう? いつだって恋は理不尽だ。

 教え子からの思わぬ告白に目が点になってる光夜を、田所主事がここぞとばかりに責め立てる。

 「あんたに恋愛感情なくても、あんたに対する恋愛感情が相手にあるなら、二人っきりになっちゃダメでしょ。あんた、また去年と同じ失敗繰り返す気? ほんと、全然女心分かってないくせに無駄にモテるから危なっかしくてしょうがないわ」

 「すいません……」

 光夜は詩が自分に恋愛感情を持ってるとは夢にも思ってなかったようだ。

 ここで、光夜への密かな想いを吹っ切ったかのように、詩が私に話しかけてきた。

 「まさか先生に私の母親と同い年の恋人がいたなんて思わなかった。まあでも分かるかな。小百合さんいい人だもんね。子どもにも子育てにも興味なかったあの女によって私たち姉妹はしょっちゅう小百合さんちに預けられてたけど、預けられて嫌な思いしたことは一度もなかったよ。それどころか小百合さんがお母さんだったらいいのにってずっと思ってた」

 また最高にうれしい言葉を耳にした。私がお母さんだったらいいのに? いつか自分の子を産んで、あなたがお母さんでよかったとその子からも言われてみたいと思った。ギリギリの年齢の私。願いは叶うだろうか?

 「光夜先生、小百合さんは私にとって実の家族以上にお世話になった恩人なんです。小百合さんが先生の恋人だというなら、私は先生のことあきらめてこれからはお二人の応援団になります。でももし将来先生が小百合さんを振って泣かしたりしたら、今はバスケ王子なんて呼ばれて先生は学校の女子たちに大人気だけど、実は赤い血の流れてない悪魔だったってみんなに言いふらして学校にいづらくさせてやりますからね。覚悟しといて下さい」

 「僕は小百合さんと別れると学校で生徒たちに悪魔と罵られて白い目で見られるようになるみたいです。小百合さん、絶対に僕と別れないで下さいね」

 「それくらいで済むと思ってるの?」

 私が返事する前に田所主事が叫んだ。

 「もしあんたが主幹と別れたら、あたしも悪魔になって、死んだ方がマシだと思えるくらいの生き地獄を毎日あんたに見せてやるよ!」

 「小百合さん、これから僕が子どもに見えて物足りなくなったとしても、お願いですから僕を捨てないで下さい。できれば僕も生き地獄には落ちたくないので」

 職場では誰からも信頼厚い私だけど、恋に関しては一人ぼっちだった。姉の桜子からはヤリモク男に引っかかっていると決めつけられ、光夜の家族からは彼が婚約者を裏切って手を出した浮気相手だと見なされている。

 当の光夜は愛してるとベッドの上では甘くささやいてくれる。行為を盛り上げるためのリップサービスにすぎないかもしれないのに、私の心の拠り所はそれしかなかった。

 今、私は光夜の実姉である田所美月と光夜が担任するクラスの生徒である松本詩を味方にすることができた。薄暗闇の中を手探りで進んでいた私の恋に夏の太陽の陽射しが差し込んで、一気に視界が開けたような思いがした。

 「ところで姉さん、小百合さんと別れるなと言ったということは、僕と小百合さんの交際を認めてくれるっていうこと?」

 「真剣な交際ならやめろなんて言えるわけないでしょ」

 「香織さんのことは?」

 「正式に破談にするしかないでしょうね。言っておくけど、慰謝料はあんたの稼ぎから出すこと。藤川主幹に出させたりしたら許さないから」

 「分かってる……」

 初めて聞く名前だけど、香織さんとは光夜の元婚約者のことだろう。光夜に浮気されても光夜本人だけには婚約が解消されていないことを告げず、彼女と光夜の家族が設定した三年間の謹慎期間後の復縁を予定していたが、そんなこと知らなかった光夜に私という恋人ができてしまったせいで、復縁の夢が断たれてしまった。

 あと三年待ってもし私が光夜の子を妊娠しなければ、そのときはぜひ光夜と復縁してもらいたいが、それを私が提案するのは傲慢だろう。彼女が光夜に謝れと言うなら、代わりに私が土下座して謝罪してもいいと思った。

 「それにしても年が一回りも上の主幹があたしの妹になるかもしれないのか。なんだか不思議な気分……」

 田所主事が夢見心地のようにぽつりとつぶやいた。私があなたをお義姉さんと呼ぶ日が来ることを、誰より私自身が強く願っています――

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