9 石橋千夏の遺言


 朝、食前にサプリを飲んでいると桜子に声をかけられた。肝臓が悪い人がレバーを食べるように、妊活中の私は胎盤(プラセンタ)サプリを服用している。

 「プラセンタ? あんた、婚活すっ飛ばして妊活やってるの?」

 「すっ飛ばしたわけじゃない。同時進行だから」

 「妊娠できたら結婚するということ? 妊娠できなかったらその人とは結婚できないの? 妊娠できたらその人は本当に結婚してくれるの?」

 彼の家族にとって私は浮気相手としか思われてないみたいだし、愛してると言ってくれる彼の心だけが私の頼りだ。ただ、愛してると言ってくれるのは行為中だけ。それを言えば、そんなの行為中のリップサービスに決まってるでしょとさらに桜子に責められそうだ。

 「私に干渉しないで! 私だってお姉ちゃんの生き方に口出ししたことはないはずだよ」

 姉は真面目な男と結婚したはずが、浮気されて離婚して子どもまで義実家に取られてしまった。口には出さなかったが、ふだん偉そうなくせに浮気夫相手にボロ負けじゃんと情けなく思ったものだ。

 元夫の石橋進は桜子より五歳年上で現在45歳。息子の翔(しょう)は離婚時二歳、現在は七歳のはず。

 結婚したのは十年前。見合い結婚だった。桜子は住み慣れた実家から出て、隣県の義実家での同居生活を開始した。子どもも生まれ仲良くやっているように見えたが、進の不倫が発覚して離婚したのが五年前。夫婦とも離婚を主張。両家の家族同士の話し合いの場で椿姫が、

 「不倫くらい許してあげなよ。私だって妻子持ちの男と遊んだことくらいあるよ」

 と言い出してつまみ出されるハプニングもあったが、桜子が慰謝料として夫と不倫相手に相場よりかなり高額な五百万ずつ請求。向こうは了承し、不倫相手の分も含めて、進は一括で一千万円振り込んだ。翔の親権は桜子が取るはずだったが、義母が置いていってほしいと泣きながら土下座して懇願したので、そのまま義実家で育てることになった。義実家は迷惑料としてさらに一千万円を桜子に振り込んだ。養育費はいらないし、面会も希望すればいつでも息子と会わせるという条件で。

 桜子は月一で元義実家に面会のために通うつもりだったが、離婚後すぐに元夫が不倫相手と再婚して、しかも元義母が泣いて土下座したのは演技だったと笑い話にしているとあとから知って行くのをやめた。子どもはかわいかったが、元夫はともかく無理やり自分から夫と子どもを奪った後妻と元義母に会いたくないという気持ちが上回った。

 それから五年。律儀な元夫は毎月必ず翔の写真を桜子あてに送ってくる。桜子も送られた写真はアルバムに貼って大切に保管している。

 何度か尋ねたこともある。

 「翔君に会いに行かないの?」

 「あの女が死んだらね」

 聞かれるたびに桜子はそう笑っていたが、桜子の怒りが空を飛んで県境を越えたのだろうか。私が光夜と不妊検査を受けた日の夜、元夫の後妻が亡くなったと元夫から電話で報告があった。ただ亡くなったのは一週間前でもう通夜も葬儀も終わっているという。

 桜子は驚きながらも不機嫌な口調を崩さなかった。

 「だから何? 私にあの女の葬式に出てほしかったとでも言うの?」

 「いや、これから君の口座に一千万振り込むからその連絡をしたかったんだ」

 「何の話?」

 「君は僕の家に来たくないようだから、明日翔を連れて君の家に説明しに行かせてほしい」

 桜子は翔に会えるならと了承した。


 振り込んでもいいと桜子が了承したわけではないのに、振り込むと電話があった翌日に一千万円が振り込まれた。同日、進はさっそく翔を連れてわが家を訪問した。さっそく〈説明〉が始まった。翔にはその間別室でテレビゲームをやってもらっている。

 「不倫夫さん、お久しぶりです。不倫妻さん亡くなったんですって? 因果応報ってあるんですね。じゃあ次はあなたですね」

 椿姫がさっそく突っかかっていったが、因果応報があるなら椿姫自身が真っ先に死んでなければいけないんじゃないだろうか。

 「妻の遺言を収めた動画を見てやってください」

 今さらなんでそんな辛気臭いものを見なければならないのか? どうせ桜子から進と翔を奪ったことの言い訳ばかりに決まってるのにと思いながら、あまりに必死に進にお願いされたから、スマホの動画をテレビで再生してみんなで見た。手足を拘束されてベッドに横たわる、私たち姉妹よりわずかに若そうな、だけど土気色の顔をしてひどく不健康そうに見える女が画面に映し出されて、私たちは言葉を失った。

 「藤川桜子さん、はじめまして。石橋千夏と言います。旧姓は高木でした。手足が勝手に動いて危険なので全身を拘束されています。桜子さんがこの動画を目にする頃は私はもう拘束具から永遠に自由になっていることでしょう」

 彼女の言うとおり手足に限らず体のあちこちが不随意運動を起こしていて、それは口元も例外ではなく話するのも大変そうだった。

 「私は十万人に一人しか発症しない難病を生まれつき抱えていました。遺伝性の病気で母もこの病気にずっと苦しみ、私が高校生のとき亡くなっています。大脳の神経細胞が失われていく進行性の病気で、だんだん動作と感情をコントロールする能力を失っていきます。現在まだ治療法はありません。それでも十代の頃はまだなんともありませんでした。高校を卒業して就職してしばらくすると、病気が原因で激しく貧乏揺すりを起こすようになり、職場の同僚から変な目で見られるようになりました。そのとき、同じ職場の上司だったのが石橋進さんでした。進さんは陰になり日向になり何かと私を助けてくださいました。当時、私は二十歳で進さんは三十歳。私と進さんは恋に落ち、やがて私は妊娠しました。進さんは産んでほしいと言ってくれましたが、病気が遺伝する確率は二分の一。母が私を産んで病気が遺伝したことを知った父は母を捨てました。私は堕胎し、これ以上迷惑をかけたくなかったので退職して進さんの前から姿を消しました。それから病気はどんどん進行し、十年後には私は歩くことも困難になっていました。私には家族がいません。ほかに頼る相手が思いつかなくて私は元の職場を訪ねて、進さんに助けを求めました。進さんが五年前にすでにあなたと結婚していると知って私は絶望しました。私は母の死を看取っていたので、同じ病気の自分がこれからどうなって、どんな死に方をするのか知っていて、それを進さんに伝えました。病気が進行して歩くこともままならなくなっていた私を見て、進さんは離婚して私と再婚する人生を決断してくれました。私と結婚するとはつまり心も体も急激に壊れていく私の介護に追われ、私の最期を看取るだけという、マイナスばかりで何のプラスもない選択をするということです。好きな男と結婚して子どもを育てるという当たり前の幸せが、私には星をつかむような難しい話でした。でも私は夢が叶いました。進さんと結婚できて妻としての幸せを味わえただけでなく、私が寝たきりになるまでの短い期間のことでしたが、進さんと桜子さんの子どもを育てるという母としての幸せを味わうこともできました。たった35年間の人生、しかも最後の数年は寝たきりでしたが、私は確かに幸せでした。もちろん私は私の叶えた夢が、進さんの前妻の桜子さんの犠牲の上に成り立っていることを理解しています。進さんとお姑さんは責めないでください。お二人は五年間、私の介護を本当によくやってくれました。暴れる私を取り押さえようとしたときに怪我をさせたことは一度や二度のことではありません。私が寝たきりになってからは、おむつ替えも一度も嫌な顔せずやってくださいました。あなたから夫と子どもを奪ったのは私です。恨む相手はどうか私だけにしてください。私はじきに死ぬでしょう。あなたに償う方法は母が私に残したお金しかありません。それは母が亡くなったときに振り込まれた保険金の一千万円です。ちなみに初めからこの病気だと分かっている私はどこの生命保険にも入れなかったと聞いています。私から何かを受け取るのは嫌でしょうけど受け取ってやってください。それからもしできれば進さんと再婚してもらえないでしょうか。翔君のお母さんに戻ってもらえないでしょうか。死にゆく私を憐れに思って、最後に私の願いを聞いてはいただけないでしょうか。あなたに一度も会ったことがないのに、お願いばかりで申し訳ありません。あなたと石橋家のみなさんの人生に私が割り込む前の状態に戻していただけることが私の最後の願いです。さようなら。長々と失礼いたしました」

 動画が終わり、私も椿姫も無言。ただ桜子だけがクックッと静かに笑い出した。

 「おかしいと思ったんだよ。私なんてプライド高いだけの中身のない女なのに、お見合いから結婚までトントン拍子でさ。あなたほどの男が私なんかのどこがよかったんだろうってずっと思ってた。そういうことか。あなたは千夏さんを忘れるためにほかの女と結婚しようとした。千夏さんを忘れられれば私でなくても誰でもよかったわけだ」

 「桜子さん、それは違う。明るくさっぱりしたあなたとなら幸せな家庭を築けると思った。あなたは神様が僕に授けてくれた宝物だと信じたから結婚したんです」

 「ずいぶん安っぽい宝物ねえ。十年ぶりに千夏さんと会ったらあっさり家から放り出したくせに」

 「それは本当に申し訳ない」

 桜子はため息をついた。何かに呆れたようなため息ではなく、

 〈何やってるんだろう、私?〉

 そう言ってるように聞こえたため息だった。

 「結局、あなたは今日何をしに来たの? 千夏さんのビデオを見せに来ただけじゃないんでしょ」

 進が桜子の前で顔を床に擦りつけて土下座した。

 「勝手すぎるのは重々承知だが、もう一度やり直せないだろうかとお願いに来ました。僕の妻に戻るのが嫌なら、翔の母親ということでもいい。僕に償いをさせてください」

 「子どもを出しに使わないで! 出てけって言ったり、戻れって言ったり本当に勝手すぎるよ。だいたい戻れるわけないよね。あなたとお義母さんは病気の千夏さんのために献身的に介護した。私は何もしてないどころか、千夏さんが死ねばいいってずっと思ってた。登場人物の中で私だけ屑じゃん。どの面下げてあなたたちといっしょに暮らせるの?」

 「それは気にしなくていい。千夏のことは君とは無関係だ」

 「無関係なわけないじゃん! それで実際私は離婚させられてるわけだし。それにしてもお義母さんにはすっかり騙された。わざわざ離婚してから電話してきて、〈泣いて土下座したのは演技だった、親権手放してくれてありがとう、そんな間抜けだから浮気もされるのよ〉って大笑いされた。五体満足な私を見て千夏さんが落ち込まないように、私を義実家に近づけないようにするためにあんな嫌な言い方したんだね。そこまでが演技だったのか。全然気づかなかったよ」

 「桜子さんを傷つけるようなことを言って申し訳なかったと母も言ってました」

 「進さん、あなたは私と復縁したいと言うけど、それはそうなることを千夏さんが望んだから? そもそもあなたは私を愛していないでしょう?」

 「愛していますよ」

 「嘘。あなたにとって愛って何なの?」

 「あなたが千夏と同じ病気になっても、僕はあなたが亡くなるそのときまで精一杯介護するでしょう。僕にとって愛とはそういうものです」

 それきり桜子はおし黙った。本人が言ったとおりプライドの高い姉には認めたくない現実だっただろう。

 たとえば進が年が若いだけの頭空っぽの女とのセックスに溺れて自分と離婚したのだったら、桜子のプライドは傷つけられずに済んだはずだ。私は男見る目がなくてさあ。桜子なら酒を飲みながらそう笑い飛ばしそうだ。

 進と千夏の関係はそもそも不倫だったのだろうか? それこそ真実の愛ではなかったか? 私は妻だったのに、真実の愛の邪魔だから切り捨てられた。実際そうだったわけだから、桜子のプライドはズタズタのボロボロだろう。

 「今すぐ結論を出せって言ってるわけじゃないんでしょ?」

 「もちろん。じっくり考えてほしい」

 「とりあえず翔との月一の面会は再開します。そのあとのことはゆっくり考えます」

 それでも桜子はさすが私と椿姫の親代わりをずっと務めてきただけあって、内心の動揺をそれ以上私たちに悟らせなかった。

 「進さん、遅くなりましたが、奥さまのご逝去本当にご愁傷さまでした」

 「お心遣いありがとうございます」

 桜子は部屋を出ていった。おそらく別室にいる翔に会いに行ったのだろう。

 「百合ねえ」

 椿姫に小声で話しかけられた。

 「何?」

 「桜ねえが復縁しないんだったら、私が進さんをもらったらダメかな?」

 「真面目な話してる最中にふざけないで」

 「私も真面目に話してるんだけどな」

 椿姫はいかにも小悪魔という笑顔を桜子の元夫に向けていた。

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