6 ワンチャンください


 行為したのが初めてだったのだから、行為したあと男に職場まで車で送ってもらうのも生まれて初めてだった。私は助手席に座っていた。少し顔を右に向ければ恋人の凛々しい横顔が見れる。そんなささいなことがこの上なく幸せだった。

 「仕事が終わる頃に連絡して下さい。迎えに行きますから」

 そう言ってもらえて正直ホッとした。光夜のかつての交際相手の中にはワンナイトだけ関係した女も何人かいたらしい。今夜も誘ってもらえたということは私はワンナイト枠の女ではなかったということだ。

 かつて光夜はC美を〈一度寝ただけなのに彼女づらしてくる迷惑な女〉としてぞんざいに扱った。光夜にそんな扱いされて、C美も苦しかったはずだ。光夜の親友と交際を始めたりと理解に苦しむ行動の多かった彼女だけど、つまり当たり前の判断ができなくなるくらい光夜に夢中だったわけだ。

 光夜は分かってないようだけど、彼女の奇行の責任の一端は明らかに光夜にある。彼女が狂った責任を果たせと指摘して、光夜が彼女とよりを戻しても困るから黙っていた。C美には悪いが私だって自分の幸せが大事だ。

 「今夜、私の係の歓迎会があるんだ。二次会以降は断るから、一次会だけ出てもいいかな?」

 「出るななんて言いませんよ。係の飲み会に係長がいなかったらサマにならないですもんね」

 「ありがとう。終わる時間が分かったら連絡するね」

 今日は金曜日。会えるのが遅い時間なら明日ずっと一緒にいればいい――

 と考えたところで、県庁勤めの私は土日休みだけど光夜は違うかもしれないと思い至った。

 「ところで、光夜君、土日は仕事休めるの?」

 「土日は休日ですけど基本的に出勤します」

 「じゃあ、平日に振り替えて休むの?」

 「無理ですね。ちなみに四月に就職したばかりですけど、最初の四月は一日も休みが取れませんでした」

 公務員なんてやってるとブラック企業なんて都市伝説かというくらい自分と無関係な存在でしかないけど、とうとう私のテリトリーにもそれが姿を現したわけだ。

 「ごめん。休みがまったく取れないなんて信じられない。その休日勤務した分はちゃんと割増賃金が支払われてるの?」

 「割増賃金?」

 「私たちの場合、休日勤務は時給換算で少なくとも2500円以上はもらえるよ」

 「僕らが休日に働いた分は時給に直したら500円くらいですね」

 「500円!? 最低賃金の半分じゃない! 法令に違反してるよ!」

 「職場の先輩はこれでもマシになったって言ってました。一昔前は休日はどれだけ働いてもタダ働きだったそうです」

 「どれだけブラックなの! 光夜君、転職は考えてないの?」

 「やりがいはあるんですよ。できれば定年まで勤め上げたいと思ってます」

 まだ若いのに洗脳されて立派な社畜にされてしまっている。本人がやりがいがあると言ってる以上、詳しく仕事の内容を問い詰めて無理に転職させようとすれば反発されるだけだろう。かわいそうに。私が君を魂の牢獄から絶対に救い出してあげる!

 と心の中で誓ったところで県庁の正面に着いていた。ちゅっとキスを交わして車を降りたら、目の前を歩いていた三井流星と目が合った。

 「主幹、おはようございます。ドクターのご主人に送ってもらってるんですね」

 光夜とキスしていたのは気づかれなかったようでホッとした。

 「三井君、私は独身だから主人なんていないからね」

 「独身!? みんな主幹は既婚者だって言ってましたよ」

 知ってる。誰にも結婚してもらえない底辺だとバレるよりその方が都合がいいから、今までは既婚者呼ばわりされても訂正しなかった。でも今、私には光夜がいる。もうくだらない見栄を張る必要はないんだ。

 「さっきの人は彼氏さんだったんですね。もしドクターの彼氏さんと別れることがあれば教えて下さい。おれ、主幹の新カレに立候補しますから」

 ところでなぜ私の彼氏が医者だと決めつけられているのだろう? 実際は制服だというジャージを着て低賃金で休みなく働くスーパーブラック企業勤務の社畜さん。私が馬鹿にされるのはいいけど、光夜が馬鹿にされるのは耐えられないから、もちろん流星にそこまで教えるつもりはない。

 私はふうっと大きくため息をついた。

 「朝から部下にからかわれて気分よくないんだけどね」

 「からかってなんていません! 次に恋人にする人は尊敬できる人って決めてたんです」

 それならたとえ私が光夜と別れても、私が流星の恋人になることはありえない。だって私は流星を全然尊敬できないもの。申し訳ないけどね。


 光夜に早く会いたくてたまらないのに、こういうときに限って仕事はトラブル続き。母子家庭支援の一環として母子寡婦福祉資金貸付金という母子家庭向けの貸付事業もある。もちろん申請すれば必ず貸してもらえるというものではなく、厳しい審査があり不承認となる申請者も少なくない。それはいいのだが、貸付を不承認となった申請者の銀行口座から償還(返済)金が引き落とされてしまったって意味不明なんですけど! それも同様の事例が同時に何件も! お金を引き落とされた人から抗議の電話が来るまで、職員側で異常事態に気づいた者が誰もいなかった、というのも大問題だ。

 貸付の受付や申請者情報のシステムへの登録、償還が滞った滞納者への督促などは県庁ではなく県下数ヶ所にある出先機関で行われている。県庁担当課は国から資金を受け取り各出先機関に送金したり、出先機関の実務に対する監督をしたりしている。

 ある出先機関の担当者から今回の件はどうしましょうと対応方法を尋ねられた。そんなもの返金処理をした上で訪問して謝るしかないだろう。出先機関の担当者がシステムの不具合が今回の事例の原因だと主張したが、それはそうなのだろう。でもあらかじめ出力された償還者の名簿のチェックが不十分だった責任はあなたにあると言ったら黙った。私たちは県民のために仕事している。私たちのミスのせいで県民の財産を不当に奪うなどという事態は絶対にあってはならないのだ。

 貸付のシステムの不具合解消は民間の業者が請け負っている。業者との折衝は県庁の仕事。システムエンジニアさんたちを呼び出して、今回の事例を報告し、早急にシステム改修するよう要請した。彼らは今夜も徹夜だろう。私たちは夜七時過ぎに今回の件のすべての処理を完了した。


 母子係は係長の私を含めて五名の職員がいるが、若い女性職員一人が小さな子を見なければいけないという理由で歓迎会は欠席。今日の歓迎会は歓迎される主役の流星を含めて四名というメンツ。

 幹事が予約した居酒屋は初めて入る店だったが、なかなか雰囲気のよさそうな店だった。仕事が押したので宴会のスタートが一時間遅くなった。お店に迷惑かけたが、あらかじめ遅くなることを伝えてあったこともあって、お店の人から文句は言われなかった。

 「母子係の業務の円滑な遂行と係のみなさんのご健勝を祈念して、乾杯!」

 居酒屋のこぢんまりとした和室で、私の乾杯の音頭で宴会が始まった。

 なぜか朝から流星の機嫌がいい。両隣に座る二人から次々にお酒を注がれてるのもあるけど、初めから飛ばしてがんがん飲みまくっている。今夜の宴会の主役ではあるけど、機嫌がいいのはそれだけではなさそう。

 「三井君、今日は機嫌よさそうだけど、なんかあったの?」

 と聞いたのは今回の宴会の幹事で、執務室で私の隣に座る緒方拓也主査。私の部下だけど年は私より二つ上の40歳。奥さんと小学生の子ども二人との四人暮らし。担当業務はこども医療費助成など。

 「朝、藤川主幹が実は独身だったって知って、もしかしたらワンチャンあるかなと思って」

 ありません。というか私のプライベートを飲み会の場で言いふらさないで!

 「独身? 弁護士のご主人とは別れたんですか?」

 弁護士なんて知り合いにもいないのにどこからそんな話が出るのだろう?

 「緒方さん、失礼ですよ」

 そうたしなめたのは山口美奈子主任。29歳。彼氏も県職員で来年結婚予定。担当業務は児童扶養手当(児童手当ではない。母子家庭向けの現金給付)など。

 「主幹のご主人は16歳年上のIT企業のやり手社長ですよ。離婚なさったって本当ですか?」

 残念ながらIT企業の社長にも知り合いはいない。夫が16歳年上? 彼氏が16歳年下なんだがこの調子ではそう言ったところで信じてもらえそうにないな。

 「つまり主幹はバツ2ということですか? いいんです、おれ。主幹ならバツ2でもバツ3でも気にしませんから」

 流星はそう言うけど、私が君では嫌だと思ってるのは無視ですか? そうですか?

 「主幹は仕事の役職だけじゃなくて、つきあう男もどんどんランクアップさせてるわけか。だとすると次の相手が三井君になると大幅なランクダウンだから、三井君にワンチャンはなさそうだね」

 緒方主査が極めて失礼なことを言い出したが、失礼という点を除いてはその見解におおむね同意する。

 でもさすがに気の毒だから上司として少しは励ましてあげることにした。

 「あのう、お三方、先に言っておきますけど、私は一度も結婚したことありませんから。今恋人はいるけど、正直これから先どうなるか分からない。でもね、三井君、冗談でも16歳年上の女に気があるとか言わない方がいいよ。若くて元気な君なら本当は彼女くらいいるんじゃないの? 君の彼女さんが今君が言ったことを聞いたらどれだけ悲しむか」

 今恋人はいる――

 この部分は強調して言った。38年間言いたくて言いたくてたまらなかったセリフだから。

 でもお相手はどんな人と聞かれても困るな。16歳年下。ブラック企業勤務の無休薄給の社畜。親友の彼女と浮気して婚約者を裏切った鬼畜。第三者に自慢できる要素が何もない。

 一見、16歳年下というのは自慢になりそうな気もするが、男女逆転のパパ活だと思われるのがオチだ。実際預金通帳を見せてなびかせたわけだから、その見解はあながち間違っていない。

 「おれの彼女ですか? あっはははは!」

 流星が突然壊れたように笑い出した。

 「おれ全然モテなくて大学生になって初めて彼女ができて、もううれしくてうれしくてできれば結婚したいって思うほど夢中になって、死ぬほどバイトして金を稼いで、ほしいものなんでも買ってあげたし一食一万近くするレストランのコース料理も毎週のようにおごったし精一杯尽くしていたんですけどね。彼女浮気してたんですよ。ショックでしたよ。何がショックって、おれにとって一生をともにしたいと願ったたった一人の女が、別の男にとってはただのセフレの一人にすぎなかったって知って。おれあきらめきれなくて、おまえがあいつと別れるならおれは過去の浮気には目をつぶるからやり直そうって泣きながら訴えたんです。そうしたら彼女なんて言ったと思います? あなたの恋人でいるより彼のセフレでいたいって。おれより悲惨な振られ方した男っているんですかねえ! おかげで体重が十キロ減りましたよ。一つだけいいことあったとすれば、もう女はいいやって思って、それから公務員試験の勉強に必死に打ち込んだらダメ元で受けた県庁に受かったことですかね。そのことだけはあの女に感謝してます」

 流星は感極まって泣き出した。山口主任がオロオロしながら慰めている。ショックだろうなと思う。私と光夜の関係でいえば、

 〈勘違いするな。おまえは恋人じゃなくてただのATM兼性処理係。おとなしく金出して股を開いてればそれでいいんだ〉

 などと言われるようなものか。私を殺すのに刃物はいらない。愛してると言ったのは嘘だったとたった一言光夜に告げられただけで、次の瞬間私は生ける屍と化すことだろう。

 「あんな目に遭ったけど、主幹に会えておれは立ち直れました。〈私たちは県民のために仕事している〉主幹の今日の言葉、痺れました。真顔でこのセリフ言ってサマになる人ほかにいますか? 一生この人の部下でいたいと改めて思いましたもん」

 私のおかげで失恋の痛みから立ち直れた? それは買いかぶりだし、定年までこの男が部下でいるのは正直勘弁してほしいかな。だいたい母子寡婦福祉資金貸付金は本来君の業務。新採職員でトラブル処理は未経験だろうから代わってやってあげただけだ。私のやることにいちいち感心しなくていいから、早く仕事を覚えてほしい。

 トイレに行こうと席を立つと、顔色がよくないですよと山口主任に声をかけられた。

 「ちょっと二日酔いでね」

 「え? 主幹、まだ一滴も飲んでないじゃないですか」

 昨夜コンビニで一人淋しく缶酎ハイを六本も空けたことは黙っていよう。しかもそのあと午前二時過ぎまでずっと光夜と行為していて寝不足なのもアラフォーの身にはこたえた。

 トイレから出ると流星が待ち構えていて驚いた。

 「どうしたの?」

 「主幹の気分が悪くなったのはおれのせいかと思って……」

 「それは違うよ。絶対に君のせいじゃないからそれは気にしないで」

 「それならよかったです」

 でも流星は全然よかったという顔をしていない。

 「おれ、本気ですから」

 「なんのこと?」

 「おれの主幹への想いです」

 「でも私には……」

 「今の彼氏さんとのつきあいは長いんですか?」

 「そんな長くないけど……」

 というか出会ってまだ一日だ。

 「結婚も考えてるんですか」

 「子どもができたら結婚することになってる」

 「おれは主幹が彼氏さんとの子どもを妊娠して結婚されることを祈ります」

 「ありがとう」

 「でももし妊娠できなくて彼氏さんと別れることになったら、おれにもワンチャンください」

 「それは約束できないな」

 「待ちますよ。何年でも。おれはちょっと前まで一生誰ともつきあわないと決めていた身でした。何年か待つくらいどうということはありません。ちなみに彼氏さんとはあと何年妊活するつもりなんですか?」

 「あと三年……」

 「おれが主幹とつきあえてもつきあえなくても関係なく――」

 流星は酔っ払っていて顔は真っ赤だったが、その眼差しはどこまでも真剣だった。

 「おれは主幹の幸せを願っています」

 そこまで言うと、流星は踵を返して緒方主査と山口主任の待つ和室へと戻っていった。

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