3 与えられた夜


 彼の名前はセックスする直前にやっと聞いた。

 「村瀬光夜。光る夜と書いて光夜」

 「かっこいい名前ね」

 「名前を考えたのは父親らしいから、彼女が褒めてたって今度伝えますよ」

 「光夜君って呼んでいい?」

 「いいですよ。僕はあなたを小百合さんって呼びますね」

 「小百合って呼んで!」

 「無理ですよ」

 38年間守ってきた(実際は誰も手を出してこなかっただけだけど)私の処女は、薄汚いラブホテルの狭くてけばけばしい部屋の中であっけなく散らされた。

 「本当に初めてだったんですね」

 処女を相手するのは面倒だと思う男もいるそうだが、光夜は喜んでくれた。今まで未経験だったことが恥ずかしくて仕方なかったけど、光夜の喜ぶ顔を見て未経験でよかったと初めて思えた。

 でも感傷に浸っている暇はなかった。光夜は私を妊娠させようと愛してると言いながら何度も何度も私の中で果てた。午前二時を過ぎた頃、先に音を上げたのは私の方だった。

 「光夜君、ごめん。これ以上は今日の仕事に差し支えそうだから、もう寝かせて!」

 「小百合さんは社会人の鑑ですね。あなたの恋人になれて本当によかった」

 「私こそ……」

 人生経験では圧倒できるはずなのに、恋愛スキルの差はいかんともしがたく、ピロートークでは私は防戦一方に追い込まれた。光夜はニートにしては人間関係スキルが高い、というか女の褒め方がこの上なく上手。

 「君に抱かれて私はようやく二十歳のときのトラウマを乗り越えられたような気がする」

 そう答えるのがやっとだった。酒に酔い光夜に酔い生まれて初めての行為に酔った。酔い疲れて私は深い眠りに落ちた――


 朝、目覚めると、二日酔いで頭がガンガン痛んだ。いい夢を見たと思って見回すと見覚えのない部屋で、そして私は裸で布団をかぶっていた。

 誰かがシャワーを浴びているようだ。しばらくすると下着姿の男がバスルームから出てきた。

 「小百合さん、おはようございます」

 「お、おはよう……」

 どこまでが夢でどこからが現実か分からない。私はこの男と行為して処女を失ったらしい。三年以内に子どもができたら結婚するという契約を交わし、昨日まで38年間処女だった分際で、何度も何度も避妊なしの行為をせがんだような気がする。しまいにはアラフォーの肉体の衰えは隠せず、体力の限界に達してさっさと寝落ちしてしまったようだ。

 「ごめんなさい。私、疲れて先に眠ってしまったみたい……」

 「謝る必要はないですよ。小百合さんが先に眠ってくれたおかげで、小百合さんのかわいい寝顔を好きなだけ堪能できましたしね」

 38歳の女の寝顔がかわいいわけがない。騙されたらダメだ。きっとこの顔だけ無駄にいい若い男は抱いた女に必ずそうリップサービスしているのだ。実際、女に不自由してるとは思えない。思い返してみると、女の体の扱い方がずいぶん手慣れていたように感じた。きっと38歳でキスもしたことないという奇特な女に興味を持ったか同情したかで面白半分に抱いてみただけだ。責任取る気などさらさらないだろう。私の体に飽きるか私が妊娠したらさっさと捨てるに決まってる。

 「今さらだけど光夜君って何歳なの?」

 「22歳です。十月に23歳になります」

 ということは流星と同じ学年か。光夜は大学は出てるのだろうか? いや聞かないでおこう。彼が中卒や高卒だったりしたら聞かれたら傷つくだろうから。

 「16歳差か。君が生まれたとき私はもう高校生だったということか」

 「さすが事務の仕事やってるだけあって計算早いですね。僕はそういう計算はどうも苦手で」

 理知的な顔立ちをしているくせに、実はあまり頭がよくないということだろうか。もし結婚できるなら私だけ働いて、光夜は専業主夫ということでもいい。最悪、家事もしないヒモ同然でもかまわない。年の差を考えたらそれくらい甘やかさなければ私と結婚なんてしてくれないのではないだろうか?


 私もシャワーを浴びて昨日の服を着ていると声をかけられた。光夜も昨夜の土で汚れた白いジャージを着ている。

 「送っていきますよ。直接県庁に行きますか? 一度自宅に戻って着替えますか?」

 昨夜、急に友達の家に泊まることになって帰らないと桜子にはLINEで伝えてあった。全部着替えたいのはやまやまだけど、光夜の車で送られたのを桜子か椿姫に見られたら面倒だ。

 「うちには戻らない。職場に行く途中、どこでもいいからコンビニに寄ってくれないかな。替えの下着を買っていきたいから」

 「気にいるかどうか分からないけど、このホテルなら下着を自販機で売ってますよ」

 〈このホテルなら〉か。光夜が以前にもこのラブホテルとここではない別のラブホテルを利用したことがあることは分かった。彼の過去に嫉妬しても仕方ない。ただこれからはどうだろう?

 若い彼が16歳年上のおばさん一人で一生満足してくれるとは思えない。まして、別に私がそれを望んだわけじゃないけど光夜はかなりのイケメン。彼にその気がなくても女の方から彼に言い寄っていくかもしれない。浮気を公認というか黙認すべきなのだろうか?

 誰かに相談したいけど、夫の浮気を許せず離婚した桜子と誘われたら断れないサセ子の椿姫は相談相手としては不適当だろう。羽海? それもシャクだし。

 そもそも光夜は今現在、私以外に交際相手が本当にいないのか? ニートならまさか既婚者だということはないだろうけど。なんか頭がぐちゃぐちゃだ。相手のことをなんにも知らないうちに、勢いだけで関係を持ってしまった自分の浅はかさに、今さらながら背筋が寒くなった。

 「あの、光夜君……」

 「なんですか?」

 「ううん、なんでもない……」

 〈二股かけたりしてないでしょうね?〉とストレートに聞きたいが、〈僕を信じられないんですね?〉と嫌われてしまうのは嫌だ。

 「小百合さん、聞きにくいことも遠慮なく聞いていいですから。そういうことができないと、僕らの関係はどんどんギクシャクしていきますよ」

 正論だ。彼が聞いていいと言うのだから遠慮なく教えてもらうことにする。

 「君のこと何も知らないうちにこうなってしまったものだから……。君は今私以外におつきあいしてる人がいないということでいいんだよね?」

 それを聞いても光夜の表情は元通り穏やかなまま。表情にも口調にもどこにも棘が感じられなかった。イケメンという人種に今までほとんど絡んだことがなかったけど、顔が美しいと心も美しいのだろうか? 38年生きてきて知らないことはまだたくさんあったんだなと思い知った。

 「大学三年生のとき前の彼女と別れて、それから一人でした。これからもあなたと交際しているあいだは、ほかの誰にも恋愛感情を持たないと約束します」

 今はニートでも大学までは行ってたんだなと知った。私が受験した頃とは違って、今は少子化で大学余りの時代。お金さえ払えば入れる大学はいくらでもあることは知ってるけど。

 「ありがとう……」

 「こういうことは大事なことだと思うので放置しないで一々確認して下さい。少なくとも僕はあなたの言った覚悟は持ってるつもりなので」

 「私の言った覚悟?」

 「ギリギリの年齢の女とつきあう覚悟ってやつです」

 私が酔った勢いで言ってしまった言葉だ。そんなふうに言われて、あるよと言ってくれる男なんてまずいないだろうと冷静になった今なら分かる。

 「君と私は昨日出会ったばかりなのに、君は私のどこがよくて私に対してそこまでの覚悟を持ってくれたの?」

 「あなたの預金通帳を見て、三千万円という預金額ではなく、まだ三十代で三千万円のお金を貯められる真面目な生き方をしてきた人なんだなと感心したんです。少なくとも僕の周りには、僕自身も含めて、それができそうな人はいなかったので」

 真面目に生きてきてよかったと心の中で涙した。正直に言えば、お金を貯めるだけの人生が空しくなって、有り金全部パアッと使ってしまおうという衝動に駆られたことは一度や二度のことじゃない。それをしなかったのは理性の力じゃない。単に勇気がなかっただけだ。

 私は真面目な女ではあるが、君が思うほど真面目でもない。正直にそう言う代わりに私なりの精一杯の感謝の言葉を君に伝えた。

 「私が38年ずっと一人だったのは昨日君と出会うためだったのかもしれない」

 光夜も私からそう言われてうれしかったらしい。いきなりディープなキスをされた。澄ました顔をしてるくせに意外と大胆で情熱的な男だ。そういえば私のファーストキスの相手も光夜。光夜は昨夜私からいくつかの初めてを奪い、そしてそれ以上の何かを与えてくれた。

 再び光夜の車に乗り込んだ。光夜も昨夜着ていた白いジャージ姿のまま。

 「私を職場まで送ったあと君はどうするの?」

 「僕もそのまま自分の職場に行きます」

 「ジャージ姿で?」

 「職場の先輩が〈ジャージはおれたちの制服だ〉って言ってました」

 「ふうん」

 どんな仕事してるんだろう? 肉体労働系だろうか? 私に話したがらないかもしれないから聞き出しにくい。とりあえずニートではなさそうだと分かって、正直ホッとした。

 さっき光夜とLINEでもつながった。私から送った最初のメッセージは、


 〈今夜も会いたいです〉

 《僕もです》


 光夜もそう返してくれた。

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