2 ギリギリの女


 車中で奥さんによる厳しい尋問が続き、18号は奥さんが妊娠中で手を出せないから手っ取り早く性処理したくて椿姫にまた言い寄ったと自供した。

 「最低!」

 椿姫が18号をビンタしたけど、あなたが知らないだけでたぶん残り46人の元カレたちも18号と似たりよったりだと思うよ。

 私だけ自宅から少し手前にあるコンビニの前で降ろしてもらった。車から降りて運転席の18号の顔を見ると、まだボロボロと涙を流していた。あんなに泣いていてちゃんと前が見えてるのだろうか。敵ながら少し心配になった。これから奥さんの実家に連行されて、奥さんの家族から袋叩きにされるわけだ。18号に情状酌量の余地はないが、生まれてくる赤ちゃんには幸せになってほしいものだ。


 時間は午後七時を少し回ったところ。コンビニで缶酎ハイを三本買って、コンビニの外のゴミ箱の横でまず一本目の缶を開ける。家で一人で飲んでるのを見つかると寂しいやつだと哀れに思われそうだから、外で飲むしかない。外で飲むしかないといっても、居酒屋や飲み屋さんに一人で行くのもなおさら淋しいやつだと思われそうで、結局こういうやり方で落ち着いている。コンビニのイートインスペースを利用できればいいのだけど、知らずにそこで缶を開けたら〈アルコールは店内ではご遠慮ください〉と注意されてしまった。

 嫌なことがあったときのストレス解消法が、コンビニの壁に寄りかかって隠れて一人でお酒を飲むことだけ? 38年生きてきてそんなことしか楽しみのない私の人生に価値なんてあるのだろうか?

 職場では順調に出世している。預金も三千万円ある。特に大きな病気をしたこともない。何十人もの男たちに都合のいい女扱いされた過去を持つ椿姫は結婚なんてできないだろうとさっき思ったけど、人の心配してる場合ではなかった。そんな浮ついた過去のない私だって淋しい人生の真っ只中にいるじゃないか?

 遊ぶだけなら軽い女でもよくても、結婚するなら貞操観念のしっかりした女を男は選ぶとよく聞くが、あれは嘘だったのか? 結婚するなら処女でなければという男もネット上の書き込みではよく見かけるが、そんな人種もリアルでは見かけたことがない。

 このまま誰にも愛されず結婚もせず子も産まないまま閉経してしまうのだろうか? 二十歳のとき初めて恋をしたとき、こんな人生になるとは夢にも思わなかった――


 さっき買った分全部飲んでしまったので、店内に戻りさらに三缶追加で買った。別にお酒に強いわけじゃない。ただ飲まずにいられないだけだ。ああ、こういうのを依存症と言うのか?

 「社会人になったという自覚を持ちなさい」

 遅刻を繰り返す三井流星に上司として何度もそう叱責したが、正直言えば彼がうらやましかった。私だって彼みたいにもっと自由に生きたかった。叱られることを恐れず自分の心に正直に生きたかった。誰かの敷いたレールにしがみつく生き方しかできなかった私に、彼を叱責する資格などあるのだろうか? 私はくすんで朽ち果てようとしていて、彼は若くて光り輝いている。正しいのは果たしてどっちだ?

 そのとき松本羽海(うみ)からLINEのメッセージが届いた。羽海は大学時代からの親友。専業主婦として三人の子どもを育てている。長女の詩(うた)は今春高校生になった。同じ大学の同級生なのにどうしてこんなに差がついたのだろう?

 次女の雪も今年中学生になった。子どもは二人で終わりかと思ったら、去年の暮れに三女の星奈(せいな)が生まれた。急にもう一人ほしくなったそうだ。

 どれだけお金と時間をかけて不妊治療しても授からない人も大勢いるのに、急にほしくなって簡単に手に入る人もいる。さらには私みたいにそもそも妊活する相手もいない底辺も。世の中不公平だし理不尽なことこの上ない。知ってたけど――


 《小百合、お願い! 今度の土曜日に急用ができて、また星奈を預けたいんだけどいいかな?》


 羽海から送ってきたLINEはそのお願いだけ。思えば羽海と私の関係も一方的に私のギブばかりでテイクのない関係。そもそも人生でたった一人の恋人まで羽海に取られてしまった。羽海はその人と結婚して子どもを三人作って都合が悪いとき私に子どもを預ける。専業主婦で保育園が利用できないし、一時保育はお金がかかりすぎるからとすぐに私の家に子どもを預けに来る。

 確かに最初の彼氏に振られてから一度も誰かと交際したことがなかったから休日はいつだって暇なんですけどね。たまにやる子守りは楽しい。詩や雪の子守りは喜んでやらしてもらった。

 でも私ももう38歳。他人の子どもの面倒見て喜んでる場合じゃないんですけど! 私だって自分の子どもがほしい! でも今から婚活やって、それがうまくいったとして結婚してから妊活やって、間に合うのか、私?

 しかも今度の土曜日ってあさってなんですけど。私、なめられてるのかな? 一日子どもを預かった見返りといっても、たいして高くもないカフェのランチを一回おごってもらえるくらい。全然割に合ってない。


 〈ごめん。土曜日、デートなんだ。その日だけは無理〉


 嘘言って初めて断ってやった。ざまあみろ! さすがに酔いが回ってきて私の気は大きくなっていた。


 《分かった。今回はこっちでなんとかするよ。それよりデート? 小百合、彼氏ができたんだね。おめでとう! 今度会わせてね!》


 〈会わせてね!〉の一言がプレッシャーになって、せっかく気分よかったのにどん底まで落とされてしまった。

 茶髪同士の若いカップルがコンビニから出てきて、私の前を通りすぎていく。二人ともフリーターだろうか。たいしてお金は稼いでなさそうだけど恋人はできるわけね。

 「おい見ろよ。足元に酒の空き缶が六本も転がってるぜ。いい年して淋しいおばさんだな」

 「しっ! ああいう人に関わったらダメ!」

 私、死んだ方がいいかな――

 お酒の空き缶を全部ゴミ箱に捨ててさらにお酒を三本買った。店外に出て定位置に戻り壁に寄りかかる。七本目の缶を開けたとき、誰かの声がした。

 「失礼ですけど飲みすぎだと思います。もうよした方がいいですよ」

 こんなところで深酒してる馬鹿なんて私以外にいるわけないから私が声をかけられたのだろう。コンビニの店員かと思ったけど、目の前にいるのは白いジャージ姿の若い男だから違うようだ。

 夜にジャージ姿でコンビニ? しかもそのジャージをよく見れば、ズボンの裾が土でひどく汚れている。ニートだろうか? たまに男が寄ってきたかと思えば、この程度の男。まあこの程度の男でさえ私は相手にされないんですけどね。

 「うるさい。ほっといて!」

 男を突き放そうとしたけど、酔ってるせいで誰もいない空気を押してしまってかえってよろめいてしまった。

 「ほら、やっぱりもう帰った方がいいですよ」

 馬鹿にしたようにそう言われて私はキレた。キレたってどうせ相手は知らない男だし、今後の生活で私に実害が及ぶことはないだろう。さんざん酔っ払ってるくせに、そういうところだけは冷静で打算的な私だった。

 「お酒を飲むなって君は言うけど、じゃあ君は私の悲しみを解消できるの? できないでしょ? だからほっといて!」

 「よっぽど嫌なことがあったんですね」

 「逆。なんにもないから悲しいの! 今までに恋人がいたことは二十歳のときの一度しかない。その一人もキスもしないうちに振られた。その初恋は美しい思い出なんてもんじゃない。それがトラウマになって私は恋愛に臆病になった。気がついたら38年生きていて私はずっと一人だった。いい人ぶってお酒を飲みすぎるなとか言わないで! じゃあ君が私の彼氏になってくれるの? なってくれないでしょ? だから私にかまわないで! 私の前からいなくなって!」

 男は何か考えてるようだった。顔を見るとどう見ても二十代前半。身長は流星より少し低いけど、顔は澄ましたようでそれでいて柔和な感じ。顔だけなら流星よりずっと上。

 イケメンかどうかとよく言うけど、イケメンにもお金の取れるイケメンとそうでないイケメンがある。目の前の彼は間違いなく前者。恋愛映画の主演男優だと言われても信じてしまいそう。どちらにしても私のような底辺の底辺とは違う世界の生物だ。

 「あなたは彼氏がほしいんですね。あなたが僕の恋人になったとして、僕にどんなメリットがありますか?」

 酔っ払ってる場合じゃないなと気づいた。仕事モードに気持ちを切り替える。どんなに体調が悪くても、やるべきことをやるのが社会人の務めだ。

 名刺と預金通帳を男に手渡した。名刺には主幹兼係長の役職名が印字されている。預金通帳は私が今まですべてを捨てて仕事に打ち込んできた証であり、私のプライド。お守り代わりにいつも持ち歩いている。どうせ失くしたところでカードと印鑑なしでは引き落としできないしね。男はすぐに通帳だけ返してきた。

 「安定した公務員、しかもけっこう出世してますね。それより何よりまだ若いのに貯金が三千万? 今まで本気で仕事に打ち込んできて、遊んで浪費することなく真面目に生きてきた人だということは分かりました。あなたがよければ、僕はあなたの恋人になりますよ」

 私はこれみよがしに大げさにため息をついてみせた。

 「君は分かってない。今君は私を若いと言ったけど、私の年齢は教えたよね? 38歳なの。若い人がするようなママゴトみたいな恋愛を君として、何年か無駄にしたとしたら私はきっともう子どもを産めない年になってる。今がギリギリなの。ギリギリの年齢の女とつきあう覚悟が君にはあるの?」

 「子どもなら僕もほしいと思ってます。逆に、子どものいない結婚生活でもいいかと聞かれたら、そっちの方の覚悟は持てない気がします」

 「じゃあこうしよう!」

 男の両肩をがっしりとつかんで言い放った。

 「三年間だけ君の時間を私にちょうだい。その三年間で君との子どもを私が産めたら結婚しよう。ダメだったら別れよう。私の三千万円は結婚できたら結婚生活の資金に、別れたら慰謝料として全部君にあげる。それでどう?」

 「慰謝料はいらないけど、それ以外は同意します」

 〈慰謝料はいらない〉という彼の啖呵が気に入った。お金目当てじゃないってことか。いや本当はお金目当てかもしれない。そうじゃなければいくらニートだからって、二十代前半の若者が私みたいなおばさんになびくわけがない。

 この際彼の気持ちを考えるのはやめよう。彼が私とつきあうのはお金目当てじゃないと私自身が信じられることが何より大事だ。いつかこっぴどく裏切られるとしても、裏切られるその瞬間までは恋人だと信じさせてほしい。その願いが叶うなら三千万円なんてちっとも惜しくない。

 「今夜これからどうしますか? もしあなたの都合がつくなら二人で過ごしたいと思うんですが」

 「私もそうしたい。私は家族と暮らしてるから、君のうちに行ってもいいかな?」

 「僕も実家住まいなのでホテルでもいいですか」

 普通に婚活して、〈交際→結婚→妊娠→出産〉という道筋をたどれば、ギリギリの年齢の私はあっさりタイムオーバーになってしまうだろう。目の前のジャージ姿の男のことを何も知らない。名前だってまだ聞いてない。でも私は迷わなかった。大きな決断をするときほど笑顔で。それが私のモットー。そのモットーを今回も守った。

 「それでいい。連れて行って」

 「じゃあ車に乗ってください」

 ニートでも車は持ってるんだなと思った。それとも家族の車か? いやそんなことは余計なことだ。私はこの流れに身を任せると決めたんだ。後悔するのは捨てられてからでいい。

 妊娠したら結婚してくれるという口約束が破られても、子どもさえいれば私はきっとこれからも前を向いて生きていける。結婚してくれないなら認知も求めない。私は一人でその子を育て上げてみせる!

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