1 3人と47人と0人
この四月に主幹兼係長に抜擢された。公務員人事に詳しくない外部の人に話しても、ふうんという反応しか返ってこないが、中の人たちからはいつも称賛の眼差しを送られている。
うちの県の職制は次のようになっている。前歴がなければ主事からスタート。主事→主任→主査→係長→主幹→課長→局長→部長。部長より上もあるが私には無関係だろうから省略。
つまり主幹は民間でいえば課長補佐級。通常なら45歳辺りでなれる役職。七年早いスピード出世というわけだ。私の場合は係長も兼務しているから直属の部下も四人いる。うち一人は年上だから少しやりづらいが、それは向こうも同じだろう。お互い気にせずビジネスライクに接していくしかない。
今38歳、六月に39歳になる。入庁して17年目。三年間だけ出先機関で勤務したが、それ以外の期間は県庁の中でさまざまな業務を経験させてもらった。
激務を厭わなかった。時間外勤務手当が十万円を超える月も多かった、というかそれが当たり前だった。上司に指示されたどんな仕事も忠実にこなしてきた。
職場内の人間関係でトラブルを起こしたこともない。どんなにたくさんの仕事を抱えていても手を抜かず機械のように精密に一つ一つの仕事を片づける私は、氷の女と陰で噂されていた。それを小耳に挟んでも気にしなかった。嫌がらせされるなら困るが、噂されるだけなら実害がないからだ。
後輩の女性職員たちが結婚や妊娠や出産のために長期で休暇を取ることになっても必ず笑顔で送り出した。それでこっちに業務が割り振られても一切文句を言わなかった。彼女たちも感謝の言葉をかけてくれる。それに対して、
「いいよ。こういうのはお互い様だから」
私はいつもそう返していたが、今までギブばかりでテイクはなかった。そういうことは考えないようにしていた。
私はこども家庭課の母子係の係長。業務は母子家庭支援や少子化対策。少子化対策の柱は不妊治療費助成だが、子づくりのための行為をしたことのない私がその業務の係長というのはどういう巡り合わせなのだろう?
部下たちは当然のように私が既婚者だと思い込んでいる。今いる部署の中で私がずっと独身であることを知っているのは上司と同期の同僚の二人だけだ。そんな彼らも私に男性経験がないことまでは知らないし、私もそんなことをいちいちカミングアウトするつもりはない。
昨日も今日も明日も独楽のようにキリキリ回り続けるだけだ。何も考えるな。こんな愚かな私にも居場所だけはある。それで十分じゃないか。それ以上何も望んではいけない――
朝。打ち合わせ開始直前のやや張りつめた空気を破るように、
「おはようございます!」
元気よく執務室に飛び込んできた男。見なくても分かる。新規採用職員の三井流星主事。大学を出たばかりの22歳。童顔だから十代と言っても通用しそうだ。
元気がいいのはいいが、今朝も三分遅刻。まだ働きだして一カ月。遅刻はもう七回目。とんだ問題児が入ってきたものだ。
広い執務室はこども家庭課を含む四つの課の共有。流星はよりによってこども家庭課の職員で、しかも母子係だから私の直属の部下だ。
まっすぐに私の方に駆け寄ってくる。中学から大学まで全力でバスケに打ち込んでいたと言うだけあって身長は185センチもあるそうだ。しかも筋肉質。そんなガタイで突進してこられると正直少し恐怖を感じる。でも私は彼の上司。どんなときでも毅然とした姿勢を見せなければならない。
「藤川主幹、遅れてすいませんでした」
「言い訳しなくなったところは進歩だと思うけど、三井君、確か昨日も遅刻してたよね」
「面目ないです」
「君以上に君の指導担当である私の面目がないんだけどね」
「主幹は悪くないです!」
突然大声で叫びだして、目の前にいる私はもちろん執務室にいる約五十人の職員全員が呆気にとられている。
「安心してください。おれが悪いだけなのに主幹を悪く言うやつがいたら、全力でぶっ飛ばしてやりますよ」
話をすればするほど安心からほど遠い気持ちになる。誰だ? 去年この男を面接して適性のなさを見抜けなかった面接官は?
ただ適性はないが、若いだけあって体力があるから何時間残業しても平気。だから今のところ彼の仕事に遅れは出ていない。でも本来新規採用職員の彼にはほかの職員と比べて少なめの業務しか割り当てられてないのだから、早く仕事を覚えて定時に帰れるようになってほしいものだ。残業が減れば睡眠時間が足りなくて朝起きられずに遅刻するということもなくなるだろう。
昼休みに、姉の桜子からLINEが届いた。桜子は私より二つ年上の40歳。年相応の整った顔立ち。髪型はお団子ヘアー。いかにも上品な奥様という見た目だが、実はバツイチで現在お一人様生活満喫中。
以前、五年ほど結婚して家を出ていたが、離婚して出戻り。産んだ子どもは元旦那の石橋進さんの家で育てられている。離婚したときに二千万円のお金を手に入れたので現在は趣味中心の悠々自適の生活を送っている。
《椿姫に18号からコンタクトあり。思い出の場所に行こうと誘って、今日の夕方会う約束をした模様》
椿姫と書いてツバキと読ませる。二つ年下の妹。顔は小さいのに胸は大きい。髪はショートの金髪。地味な姉や私と違って、見た目も性格も派手で男好きする印象。
私たちは三姉妹で、私が大学生のとき両親が相次いで亡くなってから、広い家に三人で暮らしている。
椿姫は高校生の頃からビッチだった。私が体調を崩して高校を早退した日、私が帰ってきてるとは知らず、男を連れ込んで隣の部屋でイチャイチャし始めたときは殺意を覚えた。何度も〈イッちゃう!〉などと絶叫していたっけ。
〈アフリカのサバンナにでもイッちゃってライオンに食われてしまえ!〉
と吐き気をこらえながら呪い続けていたのは今でもトラウマになっている。
〈18号? おととし結婚したんじゃなかったっけ?〉
《知ってる。だからこっちにも考えがある》
椿姫の元カレは何十人もいるから、私と桜子は番号で識別している。1号から25号までいる。ただしその25人は私たちが把握してる人数であって、椿姫の元カレの実数ではない。
最近、桜子が椿姫に詰問していた。
「結局、あんたって今までセックスした男は何人いるの? 50人はいそうだけど」
「人をヤリマンみたいに言わないで! 47人だよ」
忠臣蔵かよと心の中で突っ込んだ。桜子が呆れたようにため息をつく。
「50人と47人の差なんて誤差だよ」
「そういう桜ねえは何人としたの? 進さんを含めて」
椿姫は桜子を〈桜ねえ〉と呼び、私を〈百合ねえ〉と呼ぶ。私の名前は百合ではなく、小百合なんですけどね。
「三人だけど」
「40年も生きてきて知ってる男の数が今までにたった三人? 少なくない?」
「それくらいが普通なの!」
「じゃあ百合ねえは何人?」
絶対に話を振ってくると思った。姉も妹も私が未経験だということを知らない。
「お姉ちゃんと同じかな……」
本当は0人だけど、桜子に言わせれば三人差は誤差だそうだからそう答えても許されるのではと考えた。
本人の言うとおり、椿姫はヤリマンではなかった。ただ恋人がいないとき少し優しくされると簡単に股を開いてしまうだけだ。そういう女をサセ子と言うらしい。だから椿姫にとっては元カレでも、相手から見れば椿姫はただのセフレだった。
今までの人生で合計47人の男にセフレ扱いされていた女。そんな椿姫の過去を知った上で妹と結婚してくれる奇特な男なんてさすがにいないだろう。
椿姫と18号の待ち合わせ時間は夜の六時。定時に退勤して待ち合わせ場所に急いだ。
椿姫ももう36歳。ただのデートなら邪魔したりしない。でも18号(名前も知らない。姉は知ってるのだろうが)は既婚者。ほっとくわけにはいかない。
私と18号との出会いが最悪だったことだけは確かだ。ちょうど十年前、桜子が結婚して家を離れる直前の頃だったと思う、姉は椿姫が出会い系で知り合った11号とラブホテルに行く約束をしたことをキャッチした。当時から桜子は妹のスマホの設定を勝手にいじって監視していた。もちろん椿姫はそのことに気づいてない。桜子には人の心を読む異能があると本気で信じている。
ただそのときはホテルに入る前に椿姫を捕捉することができず、私たちは椿姫が男とホテルから出てくるのを外で待ち構えることしかできなかった。スマホから何度連絡しても無視された。
数時間後、椿姫は男と歩いてホテルから出てきたが、私も姉も目が点になった。連れていた男は二人だった。目当ての11号ともう一人いた男。それが18号だった。桜子が男たちを怒鳴りつけた。
「大切な妹をおもちゃにしやがって!」
「お姉さんですか。誤解しないで下さい。僕らは椿姫さんの嫌がることなんて何一つしてませんから。そうだよね?」
ニヤニヤ笑いながらそう聞いた男こそ18号だった。
「うん。二人とも本当に優しかった」
椿姫本人がそう言う以上、私たちにはそれ以上どうしようもなかった。
そんなことが十年前にあった。また椿姫が18号と会うと聞いて、嫌な予感しかしない。18号は椿姫を〈思い出の場所に行こう〉と言って誘ったらしい。椿姫と18号の思い出の場所? 椿姫が二人の男と行為したあのラブホのこと?
嫌悪感しか湧いてこない。私が恋愛に臆病になった直接の原因は二十歳のときの無様な失恋だけど、桜子の離婚騒動や椿姫の無軌道な性生活も小さからぬ要因となったに違いない。今さら二人を責める気はないけれどね。
夜六時ちょうど、椿姫が派遣社員として勤務する会社が入るビルの裏手に黒のワンボックスが停車し、椿姫が助手席に滑り込む。すかさず桜子が後部座席のドアを開けてドカッとシートの上でふんぞり返る。私も反対側のドアから後部座席に乗り込んでいく。
「え? お姉ちゃんたち? なんで……」
助手席の椿姫が目を丸くしている。
「椿姫の思い出の場所、私たちも興味あったから同行させてもらおうと思ってね」
「そういう無粋な真似はやめましょうよ。お姉さんたち、降りて下さい」
運転席の18号がニヤニヤしながら桜子をたしなめる。態度の悪さは十年前のまま。後ろから運転席のシートを蹴り飛ばしてやろうかと思ったくらいムカムカした。
「そうはいかない。それにあなたたちの思い出の場所に一番行きたがってる人がまだ乗ってないよ」
「一番行きたがってる人?」
そのとき私側のドアが開けられて30歳くらいの女性が悠々と乗り込んできた。大きなお腹。妊婦のようだ。私は真ん中のシートに移動して、その人を座らせてあげた。
「ヒロト、これからあなたの思い出の場所に行くんだって? あなたの妻としてあなたの思い出の場所を当然知っておくべきだと思うから、ぜひその場所に私も案内してね」
「あ、アカネ、なんで……」
一瞬にして真っ白な灰と化した18号。最後に乗り込んできたその人は18号の奥さんだった。もちろん桜子が告げ口して連れてきたのだろう。
「ゴー! ゴー!」
桜子が後ろから笑顔ではやし立てる。18号はハンドルを持ったままフリーズしている。しまいにはシクシク泣き出した。
「ヒロト、こんな街なかに車を停めたままじゃ邪魔でしょ。早く動かして」
「でも……」
「思い出の場所はもういいから、この人たちをこの人たちのうちまで送ってあげて」
「え? うん、分かった」
「助かったって顔しないで。そのあと私たちが帰る場所は私の実家だから」
「えっ」
「あなたが十年前に助手席の人に何をしたか聞いたよ。結婚前のことだからって許されることじゃない。知ってたら結婚なんてしなかった。その件と今回の件、私のお父さんとお母さんにあなたの口からちゃんと説明して。あなたの態度次第では私はもうあなたの家には帰らないから」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
もう18号の脳裏のどこにも助手席の椿姫の存在などなかった。椿姫の方が彼氏だと思っていても、男たちから見れば椿姫なんてその程度の存在でしかない。椿姫もいい加減そういう厳しい現実に気づいてほしい。そもそも過去を知られたら結婚してもらえないのはあなたも同じなんだからね――
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