エピローグⅡ
「少しは落ち着いたかい?」
落ち着く気などない。私は本気で怒っている。でもそれは私のために怒ってるわけじゃない。母として和馬のために怒っていることだ。誰にも文句を言われる筋合いはない。
和馬が第一希望の大学に合格して、東京のマンションに引っ越していった。和馬がLINEで、あの子と交際したいというメッセージを送りつけてきたのはそれからまもなくのことだった。聞けばあの子は東京の看護学校に入学して、和馬の新居のそばに住んでいるらしい。天国から地獄へというのはこのことだ! 私たちの手が届かない場所に行ったとたんこれか? いやきっと前々から二人で周到に準備してきたことに違いない。だから何だって言うの? 私は絶対に許さない!
それなのに今日の四人の話し合いは私一人が除け者扱いされて、和馬とあの子の交際は決定事項のようにスルーされて話が進んでいくことに我慢できなかった。
「私はあんなことをしでかしたあの子が不幸になればいいって思ってるわけじゃないのよ。あの子が悪い子じゃないのも分かってるつもり。あの子の過去を知らない人と幸せになってほしいって本当に願ってる」
「それは聞いた」
「でもなんでうちの和馬なの? 和馬が緘黙だから? 和馬がずっと友達がいなくて孤独だったから? 和馬なら自分の過去を知られても離れていかないって馬鹿にしてるから?」
「奈津さんが初めてうちに来たとき、〈妥協したんじゃない、高望みして和馬に交際してほしいと頼んだ〉と言ってたのは本当だったと思うよ」
「そりゃそうでしょうよ。悪い男と遊んで恥ずかしい写真まで撮らせておいて、普通の人と交際したいって、そんな図々しい話あってたまるもんですか! 結局、撮られた画像が街じゅうに拡散して、この街にも住めなくなってるじゃない! あなたもあの画像見たでしょ? 正直どう思った?」
「画像は見たっていうか、見たくなかったけど無理やり君に見せられたんだけどね」
「見た感想は?」
「かわいそうだなと思ったよ」
「それだけ? 今日、和馬はただ交際したいんじゃなくて、大学を卒業したら結婚したいとまで言い切ってた。和馬の結婚相手としてあの子はどうなの?」
「できればやめてほしいと思ってる」
「じゃあ、なんでさっきもっと反対してくれなかったの? 私ばっかり悪者にして! 自分だけ理解あるいい父親ぶって! 和馬も和馬だけど、あなたもひどい夫だと思った」
「君がひどい夫だと思うんならそうなんだろう。でも和馬が自分の口で結婚したいって言ったんだよ」
「だから何なの? 私はあの二人に鬼と思われてもいい。結婚どころか交際だって絶対認めません!」
「そうじゃない。緘黙になったのは六歳の頃だからもう十二年僕は和馬の声を聞いたことがなかった。今日わが家に二人が来て僕は腰が抜けるほど驚いたよ。和馬は奈津さんの前では普通にしゃべっている。僕らが長年どれだけ努力しても治せなかった和馬の緘黙を奈津さんは見事に治してみせたんだ。これを愛の力と言わずに何というんだ?」
とっさに何か言い返すことができなかった。二人が深い愛情で結ばれてることは否定できない。でも幸せになるために愛が不可欠だとしても、愛だけあれば無条件に幸せになれるなんて、そんな甘く単純な話でもないんだ。人生というやつは!
「愛がすべてを解決できるなら、なんで奈津さんは高校を退学してこの街に住めなくなったのかしらね。今、和馬とあの子は東京に住んでるけど、これからあの画像が東京中に拡散したら、また学校を退学するのかしら? またどこか遠くに逃げていくのかしら? 和馬を巻き添えにするのだけはやめてほしいわね」
今まで余裕たっぷりに話していた夫が初めてあせった表情と口調になった。
「まさか君は君自身の手であの画像を和馬や奈津さんが住む街に拡散させるつもりなのか?」
「言ったでしょ。私は和馬のためなら鬼にだってなってみせるって!」
夫に頬を平手打ちされた瞬間、何が起きたのか分からなかった。結婚して二十年、夫に暴力を振るわれたのは初めてだった。
「僕だって全面的に二人の交際に賛成してるわけじゃないんだ。和馬が奈津さんと別れてほかの女性と交際したいと言うなら、それがいいとアドバイスするだろう。でも今、和馬が愛している相手は奈津さんなんだ。いくら親だからといっても、それを駄目だと言う資格が僕らにあるとは思えない。僕らに反対されても別れる気はないと強硬だった和馬に対して、奈津さんは交際を認めてほしいと君の前で土下座までしたじゃないか。僕らが二人に会いに上京すると言ったのに向こうから会いに来たのは、奈津さんが和馬を説得したからとも聞いた。画像が拡散したこの街に来るのは死ぬほどつらかったはずなのに、奈津さんは僕らのために来てくれた。もう許してやってもいいんじゃないか?」
結局私は悪者なんだなと思った。夫ばかりじゃない。和馬の味方をするに決まってるから今日の話し合いには参加させなかったけど、和馬の妹の羽海なんてあの子のことをお姉さんと呼んでいる。私はどうすればいい? ただ和馬に幸せになってほしかっただけなのに――
「それでも私は納得できない。相手の親に反対されても、それでも交際したいなんて、わがままなんじゃないかしら……」
夫が意外なことを言い出した。
「僕らは?」
「僕らって?」
「僕らが結婚するとき」
「私たちが結婚するとき? 私の親もあなたの親も反対してなかったはずだけど」
「うちの親は結婚式には来てくれたけど祝儀をくれなかった」
「それは株が下がって大損してにっちもさっちもいかなくなってってあなたのお父さんに謝られたけど……」
「まだ本気にしてたのか、そんな馬鹿な話」
嘘をつかれていたということ? でもなんで? 一人息子の結婚を祝いたくなかったの?
「僕の親が調べて、君の親に文句を言ったんだ。君の両親は僕の両親の前で僕らの結婚を許してほしいと土下座までした。僕も両親を説得して最終的に向こうが折れた。でも実はまだ許されてはいないんだ」
調べたって何を? 私の過去を? でもあれは私が悪いんじゃないじゃない! 夫と知り合う五年前のこと。理想的な条件の男と知り合って、結婚してくれるというから避妊しないでセックスさせてあげたのに、私の妊娠が分かったとたんおれの子じゃないとか言い出して、しかも相手には奥さんと三人の子どもまでいるとあとから分かって仕方なく堕胎した。私はだまされた被害者。悪いのはあの男じゃない!
「あなた、知ってたの?」
夫は無表情で無反応。目の前の私よりずっと遠くを見てるような目をしていた。
「私と奈津さんが同じだと言いたいの? おれもおまえを許したんだから、おまえもあの子を許してやれって?」
夫は何も答えない。そこまで言って、言いたいことがあるなら最後まで言えばいいじゃない!
「私は過去を後悔してる。あなたにずっと黙っていて済まないとも思ってきた。だから妻として母として一つも手を抜かないで二十年生きてきた。それでも私は許されないの?」
夫はようやく口を開いた。
「許すも許さないもないよ。君は二十年、最高の妻であり最高の母親だった。君と結婚できて本当によかったと感謝の気持ちしかないよ」
絶対責められると思っていたから、逆に褒められてなんと言い返していいか分からなかった。
「知り合ったとき、君は二十八歳、僕は三十三歳だったね。実は僕にも一つだけ君に伝えてないことがあったんだ」
「だよね? 普通に生きてれば人に言えないことの一つや二つできるもんなのよ。私の秘密だけみんな知ってて不公平じゃない? あなたのその秘密も教えなさいよ」
「経験ある振りしてたけど、僕にとって君は実は初めての女性だったんだ。今年で五十五歳になるけど、いまだに君以外の女性を知らない。僕と知り合うまで君に何人も恋人がいたのは聞いていたから、悔しくて眠れなくなる夜がこの年になってもときどきあるんだ」
そうだったの? 知らなかった。こういうときなんと言って慰めてあげればいいのだろう? 私に気づかれないように遊んでくれるなら風俗くらい行ってもいいのよ、とか? いや行ってほしくないな。それにきっと夫はそういうことをしたいと言ってるわけではないのだ。
「奈津さんを許したくないなら許さなくてもいい。でも結局最後は本人同士の決める問題だと思わないかい?」
「そうね……」
夫の言ってるのは、親に反対されても交際して結婚までしたカップルなんていくらでもあるということだろう。その場合、和馬と奈津さんが結婚したとして、私たち夫婦と和解できなければ孫の顔も見せに来てくれないのだろうか? それは嫌だ!
「今すぐは無理だけど、奈津さんと分かり合えるように努力してみます」
「君ならそう言ってくれると思ったよ」
夫にいつもの笑顔が戻った。この人の笑顔を見ると私は不思議に安心した気持ちになれる。
今日、奈津さんがしていた話で一つだけなるほどとうなずいた話があった。
「私は和馬君と知り合うまで本当に大切なものが何か分かっていませんでした」
それは私もそうだったから。夫と知り合うまで両手の指で数え切れないほどの恋をしてきたけど、それはどれも本当の恋ではなかった。刹那の快楽に溺れたこともあったし、つまらないことで相手を傷つけたこともあった。そして最後に一番傷つけられたのは私自身だった。私の傷ついた心と体を春の日射しのように優しく照らしてくれたのは夫だった。私は夫と出会って初めて本当の恋を知った。
「和馬たちはもう東京に帰ってしまったし、一旦この話は終わりにしよう。今夜は今夜で羽海が誰かを連れてくるんだろ」
「そうだったわね。昼は和馬が奈津さんを連れてきて、夜は羽海。忙しいったらありゃしない。羽海はいったい誰を連れてこようっていうのかしら?」
「わざわざ僕らに会わせたいというくらいだから恋人なんだろうね」
「恋人? 羽海はまだ高一よ!」
「君なら羽海の年でもう恋人がいたんじゃないの?」
「ノ、ノーコメントで……」
私が口ごもると、夫は腹を抱えて大笑いしてみせたのだった。
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