第十一章 決行


 奈津さんが不登校になって僕はまた教室で一人ぼっちになった。僕が緘黙で話ができないからと誰も話しかけてこない。

 いや前よりひどいかもしれない。前はそれでも僕を馬鹿にしようとして話しかけてくる人はいた。ケンカを売ってきたクラスメートたちや先輩たちを空手の技でまとめて返り討ちにしてから、怖がって誰も僕に近寄ってこなくなった。

 奈津さんはずっと自分の部屋に閉じこもって寂しい思いをしている。でも周りに人が大勢いて感じる寂しさは、君の感じる寂しさに負けていないかもしれない。

 でも、寂しい寂しいなんて嘆いてばかりもいられない。クラスメートの広河隆子がときどき僕をにらみつけてくるのに気づいていた。以前僕をひどい目に遭わせようとして失敗したのをいまだに根に持っているようだ。油断はできない。また何か策を巡らせて僕を陥れようとしてくるかもしれない。

 バレンタインデーの昼休み。僕はぽつんと教室の自分の席に座っている。周囲では誰にチョコレートをあげるとかあげたとか女子たちがあちこちで盛り上がっている。

 僕は奈津さんと会うことを禁じられた。僕のスマホは毎日母のチェックを受けることになった。LINEはアカウントを削除され、アプリもアンインストールさせられた。

 奈津さんからチョコをもらいたかった。でも君は二度とこの教室に来ることはないし、じきにこの町からいなくなってしまう。チョコがほしいという気持ちさえ伝える手段がない。

 「本郷君」

 ふだん名前を呼ばれることはない。先生だって僕が話せないのを知ってるから授業で指名されることもない。だから気づくのが遅れた。

 「耳は聞こえるだろ。恥ずかしいから早く気づけよ」

 ハッとして顔を上げると、広河隆子が僕の机の前に立っていた。

 広河さんが本郷君って呼んだのか? 僕の緘黙を馬鹿にして、ずっとカンちゃんって呼んでたくせに。

 「屋上まで来てほしいんだけど」

 またかと思った。また僕をやっつけてほしいって男子生徒にお願いしてあって、何人いるか知らないけど校舎の屋上で僕を待ち構えているのだろう。

 望むところだと思った。正直広河さんには頭に来ている。画像が拡散してることを広河さんに馬鹿にされたせいで奈津さんは登校できなくなったのだから。

 一応女子である広河さんを殴るわけにはいかない。その分まで屋上にいる男子たちには引き受けてもらおうと決めた。


 広河さんについて屋上まで来た。雨は降ってないけど、二月中旬だからそれなりに寒い。きょろきょろ見回したけど、肝心の男子たちの姿が見当たらない。

 「きょろきょろ見回してどうした?」

 仕方ないからスケッチブックを使うことにして、バッグから取り出した。


 ケンカ相手はどこ?


 「そんなことのために呼び出したんじゃねえよ。第一、あんたとケンカしてもいいっていうやつはこの学校にはもう一人もいねえよ」


 じゃあなんで、こんなひとけのない場所に呼び出したのさ?


 夏ならここでご飯を食べる人もいるけど、冬だから僕ら二人以外誰もいない。用がないなら僕も校舎の中に戻りたい。

 広河さんが僕に何かを差し出した。爆発物ではないようだ。とりあえず受け取った。

 「料理のできないあたしの手作りチョコだから、たいしてうまくないと思うけど食べてくれ」


 義理チョコ?

 君が僕に何か贈る義理はないと思うよ


 「義理じゃねえよ。あんたのことが好きになったんだ。もちろんあたしがチョコを渡すのもあんただけだ」


 なんかの罰ゲーム?


 僕はまた辺りを見回した。やっぱり誰もいない。

 「だからそういうのじゃねえっての! あんたがあたしのこと毛嫌いしてるのは知ってるけど、好きになっちまったもんはしょうがねえだろ!」


 僕が君を嫌ってるのは、カンちゃんって呼んだり君が僕を馬鹿にしてるからだよ


 「悪かったよ。二度とカンちゃんなんて呼ばねえよ。だからさっきも本郷君って呼んだじゃねえか」

 なんて言うけど何か裏があるんじゃないかと勘ぐってしまう。好きだと言われて、はいそうですかとうなずくほど僕はお人好しじゃない。

 緘黙の僕とセックスするくらいなら六十歳のおじいさんとセックスする方がマシだ。広河さんはそんなことも言っていた。僕は何を言われてもいいけど、このセリフは僕とセックスした奈津さんに対する最大の侮辱だ。絶対に許せない!


 君は嘘をついてる

 だって君は授業中よくすごい目つきで僕をにらんでたよね


 「あたしは目つきが悪いからそう見えたかもしれねえけど、絶対ににらんでねえよ! でももしかしたら、嫌われてるから無理に決まってるのになんで好きになっちまったんだろう? ってイライラして、思わずあんたをにらみつけちまったことはあるかもしれない。そうだとしたらすまなかった」

 悪の権化のような広河さんが素直に僕に頭を下げた。いつもみたいにズケズケと悪態をついてくる方がよほど相手しやすい。調子が狂うというか、僕はどうしようもなく困り果てていた。


 正直信じられない

 どうして僕を好きになったの?


 「誰かを好きになるのにもっともな理由なんてあるわけねえだろ。それを言ったらあんたが奈津を好きになったのだって、一人ぼっちで落ち込んでるときに話しかけてもらえたのがうれしかったとか、そんな適当な理由じゃねえの?」

 図星を突かれてたじろいだ。今まで広河さんのことを、ワルぶってるだけの中身がないやつだと馬鹿にしていたけど、見くびりすぎていたかもしれない。


 君が一人ぼっちには見えないけど

 もしかして今落ち込んでるの


 「落ち込んではいる。沙羅がダチのあたしらに何も言わずに退学した。びっくりして調べてみたら、男にクスリ漬けにされてたそうだ。家に行ったら沙羅は失踪したってさ。こんな生活続けてたらあたしも沙羅とおんなじような人生たどるのかって思った。落ち込んだ上に怖くなった。奈津があんたを好きになった気持ちが今ならよく分かる。奈津は奈津でいろいろあって落ち込んでるときにあんたと知り合って救われたんだろう。いろいろあった奈津を見捨てなかったあんたは偉いと思うよ。でも、あんな画像が拡散しちまったら、奈津ももうこの町には住めないよな。さすがに奈津とは別れたんだろ?」


 親には奈津さんのことは忘れろと言われている


 「その言い方だと別れる気はないって言ってるように聞こえるんだけど……」


 僕は何があっても別れないと覚悟して彼女とつきあうことにした

 今は会うどころか連絡も取れないけど、おたがいが会いたいっていう気持ちを持ってる限り、いつかきっと気持ちが通じるときが来るって信じてるんだ


 「勇気を振り絞って告白したのに、フラれただけじゃなくて、ほかの女とのノロケ話まで聞かされちまった。こりゃ当分立ち直れそうもねえな」

 あの広河さんが涙を流している。僕のせいなのか? 僕のせいに決まってるな。僕はひたすら困惑していた。

 何かの間違いじゃないのか? ちょっと前まで友達一人いなかった僕が女の子に告白されて、しかもその子を振って泣かしてるなんて……。ありえない!

 「それにしても、奈津のあんな画像が出回ったあとでも気持ちが変わらないなんて、あんたすごいな。あたしの男を見る目だけは間違ってなかったっていうことか……」


 ごめん

 チョコも返すよ


 「あんたのために作ってきたんだから、食うなり捨てるなり好きにしろ。ただ、一つだけ教えてくれ」


 何?


 「あんたが一人ぼっちのとき、声をかけたのが奈津じゃなくてあたしだったら、あたしのこと好きになってた?」


 たぶん


 「素直でよろしい。ちょっとしたタイミングの差だったんだな」


 人生は紙一重なんだよ、きっと


 「あんたが奈津と話ができるときがいつかまた来ると思うけど、あたしを振って泣かしたことは絶対にバラすなよ。今だって本気で悔しいんだからな!」


 分かった

 絶対に言わない


 「その代わり奈津に会えたら、あたしが今までのこと謝ってたって伝えてくれ。それともう一つ、本郷君といつまでも幸せにな、ってさ……」

 言うだけ言って広河さんは走り去り、カンカンと階段を駆け下りていった。泣いてるのを見られるのが嫌だったのだろう。

 屋上はまた世界の終わりみたいに静まり返った。誰もいないのに一人ぼっちだと感じないのが不思議だった。それは大嫌いだった広河さんからであっても告白されてうれしかったからだろうか? それとも今手元に広河さんからもらった本命チョコがあるからだろうか? どちらのことも奈津さんに知られてはいけないことなのは確かだ。

 しかも奈津さんより前に声をかけてたらあたしを好きになってたかと聞かれて、〈たぶん〉なんて返事してしまったし。でもあのときは、〈そんなわけないじゃん〉とスケッチブックに書いて、泣いてる広河さんをこれ以上悲しませたらかわいそうかなって思えてしまった。どう答えるのが正解だったのだろう? 今度奈津さんに会ったら聞いてみ……。いや、広河さんに告白されて振って泣かせたことは奈津さんにはバラさないという約束だったな。

 それからしばらくして、僕はまた一人ぼっちになるために屋上をあとにして教室へと急いだ。


 帰宅してバッグから広河さんからもらったチョコを取り出してどうしようかなと思案していると羽海が部屋に飛び込んできた。部屋に入るときはふすまをノックしてからだと何度注意しても直らない。逆に僕がノックしないで羽海の部屋に入ると烈火のごとく怒られる。理不尽なことこの上ない。

 「アニキにプレゼント」

 昼に広河さんからもらったのと同じような白い箱。手作りチョコか?

 開けてみるとちょっとゆがんだハート型のチョコレート。しっかり者の妹だと思っていたが、チョコ作りは雑だなと思った。

 さっき母からも手作りチョコをもらった。これで三個目。

 「なんだか全然うれしそうじゃないね。返して!」

 というから箱を閉めて素直に返した。羽海が誰かと通話している。

 「お姉さん手作りのチョコ、アニキ全然興味なさそうだったから、あたしが食べていい?」

 羽海じゃなくて奈津さんの手作り?

 羽海から白い箱を奪い返した。

 「なんかまたチョコ取られちゃった。なんかあたしが作ったって勘違いしてたみたい」

 そうか。

 毎日チェックされるから僕のスマホで奈津さんと連絡を取ることはできないけど、羽海のスマホを使えば奈津さんと話ができるのか!

 「ちょっとアニキ、机の上の白い箱は何? お母さんがくれたチョコとも違うよね」

 広河さんからもらったチョコに気づいて勝手に箱を開ける羽海。

 黒いチョコに白字で何か書いてある。

 すできす……じゃない。すきです、か。なるほど。えっ!

 気がついたときは手遅れで、羽海はすかさず撮影し、画像を奈津さんに送信した。

 「これって浮気だよね? 彼女がいるなら本命チョコなんてもらったらダメなのに。会えなくなってまだ一週間しか経ってないのに、お姉さんのこともう忘れちゃったのかな?」

 適当なことを言うな! 奈津さんが父に送られて帰ったあの日から、一日たりともというか一瞬だって君を忘れたことなんてない。

 「お姉さんがアニキに電話代わってって」

 羽海のスマホを渡された。怒られるのか? 怒られても通話では僕は何も言い訳できないんだけど……

 「和馬君」

 一週間ぶりの奈津さんの声。もし僕が緘黙じゃなかったとしても、この状況では何も言葉にならなかったに違いない。

 「私の気持ちは今も変わらない。もし君が心変わりしてもう私のことが好きじゃなくなったなら、今すぐに電話を切ってほしい」

 間違って変なところをさわって通話が切れてしまったらどうしよう、と口が乾いて手が震えた。幸い通話が切れることはなく、奈津さんの声がまた聞こえてきた。

 「チョコもらえてよかったね。和馬君、教室でいつも一人ぼっちだったから心配してたんだ。チョコくれた人に、恋人は無理だけど友達ならいいよって言ってみれば? 私は君のそばにいられないからね、ちょっとでも君が寂しくなくなるなら私もうれしい」

 僕はあの日、奈津さんを守れなかった。ふがいない僕を一言も責めない奈津さんに申し訳ないと思うと同時に、やっぱり君しかいないという気持ちがあふれてきた。

 「もう荷物は送ってあるんだ。私は明日の朝九時の電車でこの町を出ていくよ。でも君の両親に見つかったら面倒だから見送りには来なくていいからね」

 僕はその夜、奈津さんの手作りチョコを少しずつ味わって食べた。広河さんからのチョコは誰からもらったかは言わずに羽海にあげた。

 僕はその夜、一睡もしなかった。僕は僕らの将来のためにもっとも必要な、そしてもっとも後悔しないための行動を取ると決めた。


 朝六時。今日は土曜日。学校がないのをいいことにいつまでも起きそうにない羽海をたたき起こして、朝九時に奈津さんが電車でこの町を離れるとき僕が駆けつける、とお母さんに告げ口するように頼んだ。

 「どういうこと? 内緒にして会いに行かないと絶対に邪魔されるよ」

 怪訝な顔の羽海を置いて、僕は家を飛び出した。

 朝九時二分前、電車がホームに滑り込む。小さな町にあるこの駅が混むのは平日の通勤通学時間帯くらい。ホームで電車を待つ人の姿はまばらだ。

 小さなバッグを持った奈津さんのそばに彼女の両親と弟の雄太君。それを挟み込むように僕の両親がそれぞれ立って、何も起こらないように見張っている。羽海はホームを走り回って、きょろきょろとたぶん僕の姿を探している。

 奈津さんの前で開いたドアから何人か降りていった。そのドアから乗り込むのは奈津さん一人。

 奈津さんは少し気落ちした様子で電車に乗り込んだ。朝九時、ベルが鳴り響きドアが閉まった。同時に、今まで身を潜めていた僕が奈津さんの前で立ち上がり姿を現した。

 「和馬君、どうして!」

 僕は一つ前の駅からこの電車に乗り込んでいた。でもそんな説明はあとでもできる。

 ドアの向こうに僕の両親も駆け寄ってきた。ドアについた大きな窓の向こうに彼女と僕の家族が勢揃いしたのを確認して、僕と奈津さんは唇を重ね合った。僕の両親が目を丸くしてドアをどんどん叩いて、駅員に制止された。すでに一度同じ情景を見せられてる羽海は驚きながらも、よくやったと言わんばかりに笑顔で手を打っている。

 電車が動きだす。羽海と雄太君が電車を追いかけるように走ってくるのが見えた。

 「愛してる」

 「僕も」

 奈津さんが口を離した。

 「和馬君、今しゃべったよ!」

 「だから?」

 「ううん、なんでもない」

 僕らはまた唇を重ね合った。

 切符は君の行き先の駅まで買ってある。

 次に唇を離したとき、それを一番に教えてあげよう。

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