第九章 海へ


 まだ体調がよくないと言って、三連休はうちからまったく出なかった。本当は、人のいる場所に出かけていって、突然誰かに後ろ指をさされて〈あんな普通そうな子がねえ――〉などとひそひそと話題にされるのが怖かったのだ。

 火曜日。心配して和馬君が家の前まで迎えに来てくれた。

 和馬君と決めたことを雄太には教えておいた。雄太は反対しなかったけど、姉ちゃんが引っ越すならおれも引っ越すと言い出した。雄太のシスコンは当分治る見込みがないようだ。

 雄太は四月から中学生三年生。でも卒業するまで不登校を続けるそうだ。高校には行かず、自分で勉強して高卒認定試験を合格しての難関大学進学を目指している。

 高卒認定といっても合格すれば高卒の資格を得られるわけじゃない。あくまで高卒程度の学力があると認められて大学などへの受験資格が得られるだけ。たとえ高卒認定試験が合格できたとしても、大学受験に失敗したり、大学に入学しても卒業できなければ、学歴は中卒のまま。

 雄太の思い通りにいくのだろうかと私も含めて家族はみんな半信半疑だけど、十八歳になるまでは本人のやりたいようにやらせてみようという話になっている。

 事情を知っている雄太は私の見送りに家の前まで出てきて、和馬君に軽く会釈して私には親指をぐっと突き上げて見せた。健闘を祈るということらしい。


 今日は並んで歩く和馬君と手をつなぎたくなかった。

 「あの子だよ。例の画像の――」

 なんて声が聞こえてきたときに私が和馬君と手をつないでいたら、画像を撮影して拡散させたのが和馬君だと誤解されてしまうに違いない。そうなったら申し訳ないから手をつなぐ気になれなかった。

 和馬君は私の心配を知ってか知らずか分からないけど、いつものように私の手を取って手をつないだ。とても強く私の手を握って。私の心配なんてお見通しなんだと思った。分かった上で私と手をつなぐ。これが彼の言う〈覚悟〉なんだと気づいた。

 通学途中は何もなかった。拡散は悠樹の弟の通う中学校の中だけで、そこから外には出てないんじゃないか。

 また自分に都合のいい解釈をしようとしていた。でも拡散されてることを沙羅が知っていた時点で、その解釈はすでに誤りだった。


 学校に着いてトイレに行くと、たまたま沙羅が出てくるところだった。小声で話しかけた。

 「拡散の件、LINEで教えてくれてありがとう」

 「悠樹さんを奈津に紹介した責任があるからね」

 沙羅はすまなそうな表情をした。

 「あたしは遊び仲間にあの中学の子がいたから知ったけど、あの中学に通う弟や妹を通してうちの学校の生徒にも画像が広まってるかもしれない……」

 「そうなったらもう学校に来れないね。だから先に言っとくね。いろいろありがとう。もう沙羅を恨んではいないからね」

 沙羅は何も言わず親指を上に突き上げた。今朝雄太にも見せられた健闘を祈るのポーズ。

 沙羅が去ったあと、自分でも親指を上に突き上げてみた。少し勇気が湧いてきた。単純すぎるなって思わず苦笑いした。


 そのあとの授業も何事もなく、もうすぐ昼休み。四時間目の授業は現代文だった。

 「スマホをしまいなさい!」

 机間巡視する教師が授業中スマホを操作する生徒を見つけたようだ。と思ったら、見つかったのは広河隆子だった。

 「ちょっと待って」

 急な用件でもあるのかと思ったら、

 「今ハリネズミを世話してるの!」

 ペット育成アプリをいじっていたのだった。

 なんでこんなレベル低い子と同じクラスなんだろう?

 とため息をついたとき、ちょうど隆子と目が合った。

 またニヤニヤと嫌な笑いを浮かべている。

 「あんな画像を男に撮影させる馬鹿と同じ学校だなんて、こっちが恥ずかしくなるんだけど」

 目の前が真っ白になった。昼休み、私は無断早退して家に帰った。帰る前に和馬君に一言声をかけることさえ忘れて。

 帰宅して出迎えてくれた雄太がすべてを察したように、

 「それでもおれは姉ちゃんの味方だから」

 とだけ言って、自分の部屋に戻っていった。

 部屋でスマホをチェックすると、和馬君から〈大丈夫?〉としか書かれてないメッセージが届いていた。

 〈大丈夫だから今日は来なくていいよ〉と返信した瞬間、電話が鳴った。お母さんからだった。

 「奈津、あなた今どこにいるの? 担任の先生から職場に電話があって、奈津が今日学校を無断早退したって言われたんだけど。本当なの?」

 「今うちにいる。ごめんなさい。もう学校に行けなくなっちゃった……」

 「まさかいじめられてるの? そのまま家で待ってなさい。私も仕事を早引けして帰るから。いいわね!」

 ガチャ切りされた。私はスマホを握りしめたまま、そのまましばらく呆然と動けなかった。


 お母さんはそれから一時間もしないうちに帰ってきた。

 「私も自分が高校生のとき何度か学校をサボったことがあったけど、ただのサボりじゃないみたいね」

 理由を言わずに〈もう学校に行かないことにした〉と言っても納得してくれそうにない。きっと担任に連絡して〈奈津がもう学校に行きたくないって言ってます。学校でなんかあったんじゃないですか? しっかり調べてください〉と学校側を責めるような注文をつけてしまうだろう。

 和馬君と取り決めたとおり、腹をくくって事情を全部話すことにした。

 スマホを取り出してあの画像を開いてお母さんに見せた。お母さんは魔法使いに石にされたみたいに思考も感情も停止してしまったようだった。

 「この画像が学校のクラスメートにも拡散してることが分かって、とても教室にはいられないって思った」

 私のこの言葉も聞こえてるかどうか分からなかった。私もそれきり黙りこくった。

 何分かして、突然お母さんは電話をかけ出した。

 「あなた? 今すぐ帰ってきて。奈津のことでだいじな話があるの」

 そう言っただけで電話を切った。お父さんは分かったとだけ返事したようだ。突然の呼び出しに驚いたはずだけど、溺愛する私のことでだいじな話があると言われたら、どんなに今仕事に追われていても飛んで帰ってくる。お父さんはそういう人だ。

 お父さんと話して、そしてすぐに帰るというお父さんの返事を聞いて、お母さんは少し冷静さを取り戻したようだ。

 「相手の人は恋人なの?」

 「恋人だった。今は顔を見るのもいや」

 「この人とこういうことをしたのは奈津が望んだこと?」

 「そのときは……」

 「写真を撮らせたのは?」

 「撮っていいか聞かれて撮っていいと答えた。でも誰かに見せていいなんて言ってない」

 「相手の人も高校生?」

 「大学生。五歳年上」

 お母さんはそれきり何も言わなかった。でもそれはさっきのように精神的ショックから思考停止してしまったわけではなく、これからどうすればいいかを懸命に考えている姿に見えた。


 溺愛する娘のあられもない姿を見せられて、お父さんはお母さん以上にショックを受けていた。

 「もうこの男のことを愛してはいないんだな?」

 「うん。ひどい人だった」

 「今まで何不自由なく奈津を育ててきたのは、こんなひとでなしの女たらしに食い物にさせるためじゃない」

 「ごめんなさい……」

 「奈津は浅はかな行動の代償を十分すぎるほど支払った。次はその男が責任を取る番だ」

 「仕返ししたって拡散された画像は取り返せないよ」

 「いや、撮影して一番最初に画像を流出させたその男が制裁を受ければ、これ以上の拡散を抑止する大きな効果があるだろう」

 私はお父さんの考えに従うことにした。次の日、私は会社を休んだお母さんと警察署を訪れた。


 今までほとんど欠席しなかったから、三月いっぱいまで学校を休んでも休みが多いせいで単位が取れなくなる、ということはない。

 ただ、定期テストを受けなければそのせいで赤点になる科目もあるだろう。担任の先生にお願いして、二月下旬にある学年末テストの日だけ別室でテストを受けさせてもらえることになった。

 学年末テスト以外の日は登校しない。今の高校は三月末日付で退学し、四月から広域通信制高校に転校する。広域通信制高校の入試は形ばかりで面接さえ受ければ合格できるから受験勉強も必要ない。

 一人で外を出歩いて事情を知る知り合いにばったり会ってしまうのが怖かった。学校に行かなくなって自分の部屋に引きこもる生活が始まった。

 和馬君とは週末に図書館で会う以外は毎日LINEでやり取りしてるけど、私は部屋に引きこもってるだけだから、伝えることがなさすぎて困る。こんな本を読んだとかこんなテレビドラマを見たとか、そんな話題しかなくて泣けてくる。

 でも和馬君は彼らしく、そんなたわいもない私の話をいつも最後まで真剣に聞いてくれた。


 私が引きこもり(ヒッキー)になってもうすぐ一ヶ月。土曜日だったから今日も図書館で和馬君と会うことになっていた。

 朝、呼び鈴がなり、うちに誰か来たと思ったら、先輩ヒッキーの雄太が私を呼びに来た。

 「姉ちゃんにお客さん」

 「私に?」

 玄関に出て行くと、羽海だった。雄太が心配そうに後ろから見ている。

 「お姉さん、久しぶり」

 「羽海ちゃん、どうしたの?」

 「お姉さん、最近全然うちに来てくれないじゃん。お母さんたちも会いたがってるんだよ。アニキに聞いても何も教えてくれないし。アニキと別れたわけじゃないんだよね? 気になったからこっちから来ちゃった」

 悠樹の弟が通う中学には雄太も在籍してたから、悠樹の弟が拡散した画像は雄太のもとまで送信されてきた。羽海は違う中学だから私の画像が拡散してる件は知らないらしい。

 知らないなら知らせずに済ませたい。知ったら私を軽蔑するだろうか? 軽蔑されるだけならいいけど、和馬君と別れろと言われる気がして胸が重くなった。

 「別れてないよ。今日も会うことになってるし」

 「それならいいけど。なんかお姉さんしばらく見ないうちに不健康そうになってるね。まるで何年も自分の部屋に引きこもってる人みたいに」

 「そ、そう……?」

 そうだった。この子はのんびりした和馬君と違って、こういうことには抜け目ないというか鋭いのだった。

 事情を全部話さないと引き下がらないつもりだろうか? 私の胸はますます重くなった。

 助け舟を出すように雄太が割り込んできた。

 「おまえ、ちょっとデリカシーなさすぎなんじゃないの? 引きこもりの何が悪いんだ? 何も考えないで惰性で学校行ってるやつよりよっぽど考えて生きてるって思うけどな」

 「突然なんなの? あんたが誰か知らないけど、あんたが不登校の引きこもりだってことは分かった」

 「ああ、そうだよ。確かにおれは不登校の引きこもりさ。でも、学校行ってるってだけで、おまえはそんなに偉いの?」

 「ちょっと! あんたたち、やめなさいよ」

 慌てて止めに入った。同じ中二で、ブラコンとシスコンという共通点もあるのに、羽海と雄太の相性は最悪だった。

 「姉ちゃん、こいつ誰なの?」

 「和馬君の妹さん」

 「あの人の……?」

 無実の罪で和馬君を暴行してしまったことがあり、和馬君に負い目のある雄太がまずいことしたかという顔になった。

 「妹は口が利けるんだな」

 「そのセリフ、絶対にお兄ちゃんの前で言わないでよ。デリカシーがないのはあんたじゃん!」

 「言ったな! ここじゃうちの家族に迷惑だ。表に出ろよ、ヒステリー女」

 「望むところよ、ヒッキー君」

 私を置いて、二人でどこかに行ってしまった。

 大丈夫だろうか? でも今の私にはこれ以上二人のケンカを止める気力はないのだった。


 羽海と雄太がケンカになってどこかに行ってしまったと和馬君にLINEで伝えたけど、彼はまったく心配していなかった。


 大丈夫

 案外、次に会ったときは友達になってるかもしれないよ


 そんなことあるわけないと思ったけど、和馬君に言われると実際そうなる気がしてきたのが不思議だった。

 二人を心配するのをやめて、話題を変えてみた。


 午後になって暖かくなってからでいいから、海にでも行ってみない?


 いいね!

 天気もいいし、今日は図書館に行かないで最初から海に行こうか?


 おそらく和馬君はこの一ヶ月のあいだほとんど部屋に引きこもってる私を一番心配してたのだろう。二つ返事で賛成してくれた。

 私の家の前で待ち合わせたあと、駅から電車で三十分揺られた先にある浜辺を目指すことになった。


 三十分ほどでしたくを終えた。雄太はまだ帰っていない。外に出ていこうと部屋を出たところで、話があるとお母さんに呼び止められた。

 両親の寝室に入るように言われて入ると、リビングのソファーがそこに移されてるのが見えた。リビングで話さないのは帰ってきた雄太に聞かれたら困るような話をしようということらしい。

 狭い部屋がもとからあったツインベッドと運び込まれた三つのソファーでぎゅうぎゅうになっている。お父さんがその一つに座っていた。

 私たちもソファーに座ったところで、お母さんが話しかけてきた。

 「今日も図書館?」

 「今日は海にでも行こうと思って……」

 「一人で?」

 「友達と……」

 「仲のいい友達がいるのね?」

 「いるよ……」

 本当は友達でなく彼氏だけど、そう言っていいものかどうか分かりかねたから、友達ということで話を合わせることにした。

 話をするのがここでお父さんに変わった。

 「奈津の将来のことなんだけどさ。いくら転校先が通信制高校といっても、いつまでも部屋に閉じこもってるわけにもいかないと思うんだ。かといってこんな狭い町を出歩いたらどこで誰と会うかも分からない。みんながみんなあの画像のことを知ってるわけじゃないけど、今はまだ知らない人もいつか誰かに聞いて知ることになるかもしれない。この町に友達はいるみたいだけど、奈津がこの町で友達以上の関係を誰かと作れるかというと難しいと思う」

 「友達以上の関係って?」

 「いつか誠実な人と出会って交際して家庭を作るということだよ。あんなことがあった直後だからしばらく恋なんてする気にならないだろうけど、奈津もきっと誠実な恋人が必要になるときが来るさ。そのためには、今回の件を知ってる人がいない場所に住むのが奈津にとって一番いいんじゃないかってお母さんと二人で話し合って考えた。お父さんの実家はここから電車を乗り継いで四時間以上かかる。そこからコンビニに行くのでさえ一時間以上歩かなきゃ行けない、奈津にとってはありえないと思えるような田舎にあるけど、奈津が家庭にも学校にもなじめずに苦しんでるようだと電話で話したら、こんな田舎でよければ何年でも住んでくれてかまわないとおふくろ――つまり奈津のおばあちゃんも言ってくれた」

 「おばあちゃん、いい人だもんね。私もいつまでも部屋に引きこもってるわけにはいかないって思ってた。でもこの町に住んでる限り、一人で外に出るのは怖い。おばあちゃんの家に一人で引っ越すこと、私も真剣に考えてみる。おばあちゃんちが田舎だってことは別に気にしてないよ。それを言ったら今住んでるこの町だってたいした都会じゃないからね。ただ――」

 「ただ?」

 「恋人ならもういるよ。今の人は誠実な人だから大丈夫。画像の拡散の件も知ってるから、いつかバレるかもって怯える必要もないんだ。これから私がおばあちゃんの家に住むとしても、彼と別れる気はないよ。結婚するかまでは分からないけど、大人になったらまた彼のそばにいるって決めてるんだ」

 それきりお父さんは黙ってしまった。

 〈箱入り娘のように育ててきたはずなのに、なんでこんな恋多き女になってしまったんだ? 育て方を間違ったのか?〉

 顔にそう書いてある。

 私は別に恋多き女なんかじゃない。それどころかこれが最後の恋になればいいと心から願ってるんだ。恥ずかしいからそんなことあなたたちの前では言えないけどね。

 「もしかして今日いっしょに海を見に行く友達って……?」

 私はうなずいた。思考回路がショートして使い物にならなくなったお父さんと違って、お母さんはあくまで冷静だった。

 「奈津を迎えに下まで来てくれてるんなら、今うちに上がってもらいなさい。どんな人か会ってみたいから」

 「なんの心の準備もさせないで、いきなり私の両親に会ってって話すのは失礼だよ。彼に話して、会ってもいいって言ってくれたら、海に行った帰りにここに連れてくるよ」

 「それでいいわよ。お母さん、腕によりをかけて料理頑張っちゃうから」

 「料理がんばるのは彼が来てもいいって言ってくれたあとでいいからね」

 私は呆れてお母さんに念押しした。


 結局、雄太は私が家を出るまで戻ってこなかった。遅れたことを和馬君に詫びると、彼はいつものように胸の前で手を振った。大丈夫だよというポーズ。

 手をつないで歩きだした。私が和馬君と身を寄せ合って歩いてるのを、今ごろお母さんたちはマンションの部屋から見てるんだろうなと背中にかすかな視線を感じながら。


 背が高く体の大きな和馬君と並んで歩くと、私を苦しめるすべてのものから自分が守られているように錯覚して、吸い寄せられるように私の体はさらに彼にくっついていった。きっと彼は照れくさく感じていたはずだけど、絶対に私の体を押し返したりしなかった。

 電車はすいていた。画像が拡散したと知ってから人混みにいると気持ち悪くなるようになった私にはちょうどよかった。しかも目に見える範囲に高校生くらいの乗客はいない。小さな子どものいる家族連れと単身のお年寄りがそれぞれ数組いるだけ。私の気持ちはさらに落ち着いた。


 駅を降りてすぐ海というわけではなく、二十分歩いてやっと浜辺に出た。砂浜なら裸足で走り回りたいところだけど、砂利浜だから靴を履いたまま和馬君と手をつないで歩いた。

 コートを着てても寒い代わりに、風がなく波も穏やかな日だった。波打ち際に二人で並んで座った。塩の香りが心地よい。

 冬の海も悪くないのに、浜辺にいるのは見渡す限り私たちだけだった。

 緘黙の和馬君はもちろん無言だけど、私もずっと黙っていた。沈黙に耐えかねて無理に何かしゃべらなきゃとか焦るだけ馬鹿らしいと思った。

 でも和馬君と仲良くなる前、私はまさにどうでもいいことに焦る馬鹿だった。クリスマスに恋人がいないのは嫌だとか。

 隣に和馬君がいる。それだけで十分だった。寒さは気にならなかった。いつまでもこうしていたいと思った。

 寄せては返す波を見ているうちに私自身が海になっていた。ずっと狭い部屋の中に閉じこもっていた。私の中からあふれ出る何か。もっと早く来るべきだったのに。

 「抱きしめてほしい」

 「いいよ」

 彼の広い胸に顔を押しつける。私はすべてを忘れ――

 る前に思わず彼の胸から顔を離した。

 「和馬君!」

 突然私に大声を出されて驚いた表情の和馬君。かまわず言葉を続けた。

 「今しゃべった!」

 和馬君も、そういえばとハッとした表情。

 「〈いいよ〉って言った! 確かに言った! 和馬君の話し声、初めて聞いた!」

 彼自身自分の声を久々に聞いたようだ。彼は戸惑い唇がかすかに震えていた。逆に君の顔を私の胸に押しつけて耳元でささやいた。

 「何も怖くない。君は何も間違ってない。君はちょっと前に進めただけだ。君の変化を目撃できて私はうれしい――」

 そんなふうに言い続けているうちに、君の動揺が収まっていくのが分かった。彼の緘黙が急に治ることはないだろう。でもこれが治るきっかけになればと強く願った。


 奈津さんを元気づけようと海に来たのに、僕の方が励まされてしまった


 時間を忘れて抱き合っていた。浜辺に降りてもう三時間が経っていた。

 和馬君はあれ以来言葉を発することはなく、またスケッチブックを使いだした。


 せっかく言葉が出たのにもう出なくなってしまった

 ごめんね


 「謝らなくていいんだ。気にしなくてもいい。気にしないでいるうちに、また話せたりするんだよ、きっと」


 奈津さんにそう言われると、そうなんだっていう気になってきた


 「君は単純だからね」

 自分のことを棚に上げてそう言うと、君はおかしそうに笑った。

 「和馬君、さっき一度話せたことが緘黙が治るきっかけになるといいね。そういえば緘黙といっても生まれつき声が出なかったわけじゃないんだよね。逆に和馬君が緘黙になったきっかけって何か心当たりないかな?」

 和馬君はスケッチブックにあるよと書きつけた。

 「心当たりがあれば君の緘黙の治療にも役立つかなって思った。でも君の場合、両親の夫婦仲もいいし、二人ともいい人で君の緘黙にも理解がある。思い当たることなんて何もないよね」

 和馬君がスケッチブックを私に向けて揺らしてみせた。よく見なよと言ってるかのように。〈あるよ〉と書いてあるのを見逃していた。彼の声を初めて聞いて、たぶん私の方が彼以上に動揺していた。

 少しハスキーな感じの声だった。その声で好きだと言われたいと心から思った。彼は初恋の人である沙羅のことは好きって言ったことがある。私はまだ言われたことがない。気にしちゃいけないのは分かってるけど、ときどきそのことを思い出しては胸がもやもやする。


 心当たりはあるけど、それが本当に緘黙の原因なのかどうかは分からない


 「緘黙のきっかけじゃないかって君が思うくらいなんだから、それはきっと話しづらいことなんだよね?」


 誰にも話したことない

 羽海には話そうかと思ったこともあったけど、死ぬまで僕の胸にしまっておくことにした


 何があったのか聞いていいものだろうか?

 彼には一度、初恋の人が誰かと聞いて拒絶されたことがある。

 当時私は沙羅と沙羅の仲間全員から絶交されて苦しんでいた。沙羅が初恋の人だったと彼が言わなかったのは私への思いやりだった、と今なら分かる。でも、そのときは正直ショックだった。まだ初恋の人に未練があるのかな? ってそんなふうに考えたりもした。

 彼はまた〈私のために〉答えずに拒絶するのではないかと思われた。そして私はまた彼が何を考えてるのか分からず胸を痛める。画像が拡散されて部屋に閉じこもっている現在の私の精神状態では、そのような境遇にはとても耐えられそうになくて、私は彼にかけるべき言葉を失って彼から顔をそらすしかなかった。


 奈津さんに聞いてもらおうと思って、思い当たることがあるって答えたのに、聞きたくないの?


 「そうだったの? ごめん、考えすぎてた。君の話を私が聞きたくないわけないじゃん!」


 君は考えすぎるとすぐにネガティブな方に流れていっちゃうからね

 別れようと言い出したり、僕に無断であの男とまた会おうとしたり


 「ごめんなさい」


 責めてるんじゃない

 僕を信じてほしいだけなんだ

 僕も君を信じるから

 信じてるからこそ君にだけは話してもいいって思えたんだ


 人が人を疑うのは裏切られたときの衝撃を軽くするためなのかもしれないとそのとき思った。そうだとすれば、自分を決して裏切らない相手を疑う道理など何もない。これ以上傷つきたくないと小さな殻に閉じこもっていた私。殻を破って外に出ると、自然に笑みがこぼれた。

 「話してみて。力になれるかどうか分からないけど、私はもう迷わない。何があっても君を信じ抜くと誓うよ」


 ありがとう

 今から僕が話すことはもしかしたら世間ではよくあることで、過ぎたことをいつまでもくよくよ悩んでる愚か者だと人は僕を笑うかもしれない

 でも僕はそのときのことを思い出すと、今でも何日か上手に笑えなくなる

 君と話すようになってからだよ

 あのことを思い出したあとでも僕が笑えるようになったのは


 いつも助けられてばかりだと思いこんでいた。こんな私でも君の役に立てていたと知ってうれしかった。


 羽海は寝つきがいいけど、僕はあまりよくない

 子どものときからそうだった


 なんか話が大きくそれた気がする。

 彼の言うとおり話の中身も実際はたいしたことないんじゃなかろうか?


 僕が小学校に上がってすぐのときだった

 夜、母はいつものように二階で僕と羽海を寝かせていた

 さんざんグズっていた羽海も母の子守歌で眠ってしまった

 ずっと静かにしていた僕はずっと前に眠ってしまったと母は思いこんでいた

 あなたたちにはお姉さんがいたのよ

 母は子守歌を歌うようにそうささやいた

 お父さんと知り合うずっと前のことだった

 お姉さんといっても名前もなかったのだけどね

 心配しなくていいのよ

 生まれてこなかったお姉さんの分まで、お母さんは責任をもってあなたたちを幸せにしてあげるからね

 僕の聞き間違いではなかった

 それからも何度かお姉さんの話を母から聞いた

 僕の緘黙はある日突然始まったわけじゃない

 だんだん話さなくなって気がついたらまったく話さなくなっていた

 完全に話さなくなったのはそれから一年後だった

 もしかすると今の話は僕が緘黙になったことと何の関係もないかもしれない

 でも僕は自分が死んで、代わりにお姉さんが生き返ればいいって、そう思いながらずっと生きてきた

 もちろんそれも、君が僕の前に現れる前の話なんだけどね


 和馬君の話はここで終わった。

 彼がこういうことで嘘をつくとは思えないから事実なんだろうなって思う。

 ただ事実だとしても彼のお母さんを責める気にはなれなかった。

 もしあのとき悠樹が避妊せず私が妊娠していたら、私は悠樹の子を産んだだろうか?

 おそらく産まないことにしたはずだ。

 もし和馬君のお母さんに罪があったとしても、和馬君自身にはなんの罪もない。

 「昔、君のお母さんはしてはいけないことをしたのかもしれないけど、言ったことは正しいと思う。君は生まれてこれなかったお姉さんの分まで幸せにならなければならない。少なくとも君が苦しむのは絶対に間違ってる!」

 泣き出した彼を抱きしめた。しだいに波の音が彼の泣き声をかき消していった。

 優しい君は生まれてこなかったお姉さんを差し置いて自分だけが幸せになることを許せなかったのだろう。世界のすべてが君を苦しめるなら、私だけは君を抱きしめて、それでも君は幸せにならなければいけないと教えてあげたい。

 「今日、君と会う前に私の家族と話し合った。私は遠くにあるお父さんの実家に住むよ」

 すすり泣く声が小さくなった。聞こうとしてくれてるんだなと分かった。

 「もう狭い部屋に閉じこもる生活はやめる。君に幸せになれって言った私がいつまでも不幸でいちゃいけないよね。来年君が大学に受かったら――私には君と同じ大学に入る頭はないけど――そこから近い別の学校に入学して、君と同じ街で暮らしたい。しばらくなかなか会えなくなるけど、私のわがままを許してくれる?」

 君は顔を私の胸から離し、力強くうなずいてみせた。

 「恋人ができたことも話した。今度は誠実な人だって話したけど、今日連れて来なさいって言われた。君が急に言われても困るというなら、会わせるのはもっと先に延ばしてもいいんだけど……」

 和馬君は首を横に振った。先延ばしにしないということは今日これからうちに来るということだ。

 「分かった。今日来るってことをお母さんに伝えるね」


 彼、今日うちに来てくれるって

 先に伝えおくけど彼は緘黙なんだ

 だから話せないけど絶対に彼を傷つけないで!


 そう書いて送信した。

 娘の彼氏が障害者だと知ったら悲しむだろうか?

 別れなさいと口に出しては言わないまでも、心の中ではそう思うかもしれない――

 考えすぎるとすぐにネガティブな方に流されるからよけいなことは考えるなって和馬君に言われたばかりなのに、私はさっそく考えすぎていた。

 ごめんねと心の中でつぶやいた。よっぽど不安な表情に見えたのだろう。彼は何も言わず――言えないのだけど――大丈夫だよと言わんばかりに、私の頭をわしわしとなでてくれた。


 そろそろお昼だったけど、料理作って待ってると返信があったから食べずに帰ることにした。

 行きの電車では知り合いに会ったらどうしようと内心冷や冷やしていたけど、帰りの電車では別にいいやという気分になっていた。近いうちに私を知る人のいない遠くに引っ越そうとしているのに。怖いんだかのん気なんだか自分でもよく分からなかった。

 電車の中で私の両親について和馬君に簡単に教えておいた。共働きでそれぞれどんな仕事をしていて、趣味は何だとか。

 言いながら、そんな表面的なことしか知らなかったんだなって気がついた。私の両親にも和馬君のお母さんみたいな秘密があるのかもしれない。私が知らないだけで。

 ううん、きっと誰もが人に言えない秘密を抱えて何食わぬ顔して生きているんだ。世界から私が消えても僕の心から消すことはできないと和馬君は言ったけど、人が死ねばその人の秘密もいっしょに消える。当たり前といえば当たり前のことだけど、それはとても素敵なことだとそのときの私には思われた。


 マンションの前で雄太と出くわした。雄太は反対側の道からちょうど帰ってきたところだった。見るからに機嫌悪そうに見えるけど、和馬君を見てちょこんと頭を下げた。

 「羽海ちゃんと仲直りできたの?」

 「あんな分からず屋となんで仲直りしないといけないのさ」

 「まさか今までずっとケンカしてたの? 暴力は振るわなかったでしょうね!」

 「ケンカしてたけど暴力は振るってない」

 「どんなケンカしてたの?」

 「おれが姉ちゃんを想う気持ちとあいつが和馬さんを想う気持ちのどっちが強いかを延々と主張しあってた」

 重度のブラコンとシスコン同士なのは知ってたけど、このケンカのやり方は新しい。

 「それでどっちが勝ったの?」

 「もちろんおれさ。〈もういい! あんたの勝ちでいいから!〉って最後はあいつ泣きそうだったよ」

 あの気の強い羽海が泣き言を言い出すなんてよっぽどだ。悪いことしたなと思うけど、ちょっと見てみたかった気もする。

 「雄太、お願いがあるんだけど」

 「なんでも言ってみて。シスコンの名にかけて全力でやり遂げてみせるよ」

 シスコンって褒め言葉だったんだっけ? まあそれはいいや。

 「連れてきなさいって言われたから、これから和馬君をうちに連れてくんだけど、もしその場の雰囲気が悪くなりそうだったら、雄太からもフォローしてあげてほしいんだ」

 今度は和馬君が雄太にちょこんと頭を下げた。

 「OK! それはいいけど、和馬さんがしゃべれないというのは伝えてあるの?」

 「それはLINEで伝えた」

 「会ってから分かるよりいいもんね」

 両親が緘黙の和馬君によくない印象を持つんじゃないかと心配してるのだ。正直言うと、私も同じ心配をしていた。先に緘黙だということだけ伝えておいたのは、和馬君と会ったときに両親の受けるだろう衝撃を和らげるためだ。


 三人で家に入ると、奥からお母さんが飛んできた。

 「いらっしゃい! その人が奈津の彼氏さんなの? ずいぶん背の高い人ねえ!」

 最初から手放しの喜びようだった。歓迎されてはいるようだ。いやまだ分からない。用意された食事が手抜き料理ばかりで、早く帰れと無言の圧力を和馬君にかけてくるかもしれない。

 うまく乗り切れるかどうか和馬君も不安だろうけど、私も不安だった。ダイニングのドアを開けると、テーブルの上には――


 それぞれのお皿の上に大きなステーキがでんと置かれ、その周囲にサラダやスープの器やドリンクのグラスが並ぶ。そうかと思えば出前で取った寿司桶やらデリバリーピザやらがところ狭しとテーブルを埋め尽くしている。かわいいリボンの飾られた白い箱がテーブルの隅にあるけど、あれはケーキだろうか?

 「十人いても食べ切れないな」

 雄太があきれている。

 「彼氏さんの好物が分からなかったから、いろいろ用意しただけ。食べたいものだけ食べてね。無理して食べなくていいからね」

 なんでこんなに大げさなことをするんだろう? 意図が分からず逆に私は不安になった。

 「まあ座ってちょうだい」

 大きな長方形のテーブル。いつも長い辺の前に座るのはお父さんとお母さんだけど、私と和馬君が並んで座る関係で、お母さんが場所を譲ってくれた。

 和馬君はさっそくスケッチブックを太ももの上に置いている。

 「お名前から教えてほしいけど、私たち手話とかできないけどどうすればいいのかしら?」


 本郷和馬です

 よろしくお願いします

 ちなみに手話は僕も知りません


 さっそくスケッチブックが活躍している。お父さんとお母さんがなるほどという顔をしてるけど、全部のやり取りをスケッチブックでやったら時間がかかって仕方ない。

 「私が知ってることは私から答えるよ。私が答えられないことは今の方法で和馬君が答えてくれるから」

 さっそくお父さんが私に聞いてきた。

 「ずいぶん背が高いけど、本郷君も大学生なのか?」

 〈本郷君も〉の〈も〉って何?

 隣に和馬君がいるのに悠樹のことを思い出させないでほしい!

 「高校のクラスメート。学校でも一番背が高いと思う」

 「話せなくても普通高校に通えるのか?」

 「話せないだけだからね」

 今の質問はなんだろう? 障害者だから無条件に特別支援学校にでも行けっていうの? やっぱり歓迎されてないのかと胸がもやもやした。

 「本郷君、気を悪くしないでほしい。奈津から聞いて緘黙について少しは調べたけど、僕らは君のことも君の緘黙がどの程度のものかもまだ全然知らないんだ」


 分かってます

 なんでも聞いてください


 和馬君もいつもどおり。胸がもやもやしてるのは私一人らしい。

 「今日一日で全部聞いてしまったら、これからの楽しみがなくなってしまうから、少しずつ教えてくれればいい」

 お父さんだけお酒を飲んでいる。でもお父さんが悪酔いしたのを今まで一度も見たことがない。

 「つらい思いをした奈津の心が折れないで、なんとかここまで持ちこたえられたのは、君が奈津のそばにいてくれたおかげだったんだな。ありがとう」


 いいえ

 僕の方こそ奈津さんに救われました


 自分がしっかりしてこの顔合わせをなんとか無事に乗り切るんだ、と気を張っていた私の緊張の糸がぷつんと切れた。急に何かが胸の奥からこみ上げてきた。まずいと思うまもなくこらえきれなくなって、私は声を上げて泣いてしまった。


 和馬君が帰ったあとお父さんに呼び止められた。そばにお母さんもいる。雄太は自分の部屋に戻っていた。

 「いい人だったな」

 「うん」

 「お父さんたちは和馬君との交際に反対しない、というか応援する」

 「ありがとう……」

 「別の話がある。本当は今朝話すつもりだった。奈津がこれからデートだというから、ショックを受けてデートに行けなくなったらかわいそうだと思って、そのときは言わなかった」

 彼との交際を応援してくれるというのだから別れろと言われる心配はない。それ以外ならどんなにショックなことでも耐えられる気がした。

 「奈津をひどい目に遭わせたあの男が昨日逮捕された。それだけだ。もう忘れていい」

 よかったと思った。早く顔も思い出せなくなればいい。

 それだけだ。もう忘れよう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る