第八章 覚悟


 始業式の日から、クラスで和馬君と私に絡んでくる者は一人もいなくなった。一回だけ、和馬君にやられた男子の一人が三年生に告げ口して、先輩たちが教室に乗り込んできて和馬君に顔を貸せとか言ってきたけど、和馬君はあっさりと返り討ちにしてしまった。

 もう誰の視線も怖くなかった。私たちは校内でも手をつなぐようになった。でもそれが私たちの絶頂だった。絶頂をすぎればあとは転がり落ちていくしかない。


 一月の三連休直前の金曜日の朝。目覚めたら、LINEにメッセージが届いていた。寝ぼけまなこで和馬君かと思ったら、絶交中の吉田沙羅からだった。胸騒ぎがしてメッセージを読んだ。


 詳しいことは分からないけど、奈津が悠樹さんに撮られた画像が拡散してる

 悠樹さんにどういうことか聞こうとしたけど、まだ連絡がつかない

 今日は学校に行かない方がいいと思う


 悠樹はあの画像を撮るとき、自分で楽しみたいだけだと言った。元日にLINEで話したときも拡散しないと断言していた。でも実際は、拡散とは違うかもしれないけど、行為中の私の画像をそのときすでに友達に見せていた。悠樹の言葉を信用した私が馬鹿だったのだ。

 和馬君が悠樹をやっつけたとき、脅して画像を全部削除させるとかすればよかったのに。悠樹が和馬君に一撃で気絶させられたのを見て胸がすっとしたけど、それで済ました私が馬鹿だったのだ。

 おそらく悠樹は痛い目に遭わないと気がつかない。避妊だって、かつてつきあってた人に子どもをおろさせて大変だったという苦い思いがあるからするようになった。

 画像の拡散だってきっと悪いことしたなんて思ってない。ただ私に、そして私の今の恋人である和馬君に復讐したい、それだけのことだったに違いない。

 沙羅が悠樹に画像を拡散するなと言ってくれて、また画像を削除させたと言ったのを聞いて安心した。今思えば、ただ安心したかっただけだ。

 自分のことなのに全部他人任せにして、それで問題が解決したと勝手に思い込んだ。都合の悪い現実から目をそらし、早く悠樹のことを忘れたいと願い、面倒なことから逃げるだけだった私が馬鹿だったのだ!

 また和馬君に嫌な思いをさせて迷惑をかけるのかと落ち込んだ。これで何度目だろう? 私のそばにいる限り、彼は絶対に幸せになれないのではないだろうか?

 ところで拡散したというけど、いったいどこで拡散してるのだろう? 沙羅の勘違いか狂言ならいいのにと思った。勘違いとは拡散なんてしてないのに拡散してると思い込んでる、ということ。まあ、そんな勘違いあるわけないけど。

 狂言とは沙羅の仲間の隆子が私たちに嫌がらせしようとして失敗した仕返しに、私を苦しませるために拡散してないのに拡散してると嘘をついたということ――

 やっぱり私は馬鹿だと思った。自分に都合のいい非現実的な見通しは全部裏切られたというのに、私はまだ何の根拠もない希望的観測を信じようとしていた。

 沙羅の言ったことは事実だろう。ちょっと考えれば分かることだ。沙羅が私を苦しめたいなら、拡散していても黙っているはずだ。そして知らずに登校して、全校生徒から嘲笑されて泣きながら逃げ帰る私を見て腹を抱えて大笑いするはずだ。


 教えてくれてありがとう

 言われたとおり今日は休むね


 と打って沙羅に返信した。

 次に、沙羅からのメッセージをキャプチャーして和馬君に転送した。今日は登校できませんと一言添えて。

 体調が悪いから今日は学校を欠席するとお母さんに伝えた。お母さんはすぐその内容で学校に欠席連絡を入れてくれた。欠席の本当の理由を知ったらお母さんの心臓止まるかもな。そう思ったらお母さんのそばにいるのがつらくなって、本当に体調が悪くなってきた。

 私は病人らしくベッドに横になり、そのまま嫌なことから逃げ出すように眠ってしまった。


 玄関の方から大きな音が聞こえてきて目を覚ました。音だけでなく誰かが叫び声まで上げている。

 もうすぐ正午。学校は四時間目の授業中。スマホをチェックすると、また沙羅からメッセージが届いていた。


 何人か仲間にそれとなく聞いてみたけど、みんななんのことっていう反応だった

 画像はうちの学校の生徒にはまだ拡散されてないみたい


 うちの学校の生徒にはって……。じゃあ、どこに拡散されてるというの? 拡散が私と和馬君に対する復讐なら、一番に私たちの学校の生徒に拡散するに決まってる。

 やっぱり沙羅の勘違いだったんじゃないの? って少し頭に来た。あんなに自分を責めて不安でたまらなくなったのが馬鹿みたいだ。和馬君にも心配かけてしまったし。

 パジャマから室内着のスウェットに着替えて玄関の方に行ってみた。両親は仕事に行ってるからいない。でも不登校の雄太ならいるはずと思って部屋をのぞいてみたけど、部屋のドアを開けっ放しにしたまま雄太だけそこにいなかった。

 いったい誰が騒いでるの? 玄関のドアを少し開けて、私は言葉を失った。

 雄太がドアの向こうで、うずくまる和馬君を足蹴にしていた。

 「絶対に許さない! 思い知れ!」

 と叫びながら。

 夢じゃないかと思った。

 和馬君はこの時間、学校で授業を受けてるはずなのに。真面目な彼は高校入学以来、一日の欠席・遅刻・早退もない皆勤。こんな時間にこんな場所にいてはいけない人だ。

 それに、どうしてケンカになったか知らないけど、高校生の集団が相手でも負けない和馬君が中二の雄太一人に負けるわけがない。

 「何をしてるの?」

 私に気づいて振り返った雄太の目が死んでいた。

 「とうとう姉ちゃんもおれと同じで不登校か」

 「何の話? 私は今日たまたま体調が悪かっただけで、来週からは普通に登校するよ」

 「馬鹿だな。こんな画像拡散されて学校なんて行けるわけないだろ!」

 雄太が自分のスマホの画面を私の方に向けた。遠目でも分かる。悠樹に撮影された行為中の私の画像だ。

 中学生で、しかも不登校の雄太があの画像を持っている? そんな馬鹿な! 何かの間違いだと思うけど、言葉にならない。

 「おれは不登校だけど、友達がいないわけじゃないんだ。さっきおもしろい画像があると言って中学の友達からこの画像が回ってきた。一目見て姉ちゃんだって分かった。おれに画像を送ってきたやつはこんな写真撮らして馬鹿な女だよなって笑ってただけで、画像の女がおれの姉ちゃんだとはもちろん知らない。でも学校に行ってないおれにまで回ってくるくらいだから、相当拡散されてるのは確かだね」

 私の希望的観測はあっけなく砕け散った。沙羅の勘違いなんかじゃなかった。なぜ私の通う高校ではなく雄太が在籍する中学校で拡散してるのかは分からないけど、沙羅の言うとおり画像が広く拡散してるのは事実だった。

 「もしかして雄太が和馬君に暴力を振るってるのは……」

 「そうさ。この画像を見て頭に血が上ってるときにちょうど、撮影して拡散させた張本人がうちに現れたからぶちのめしてるとこさ。謝れって言っても一言も謝らないし、ふてぶてしいったらありゃしない!」

 和馬君は緘黙だから口で謝りたくても謝れないんだ。そもそも和馬君が謝る必要もない。雄太が勝手に勘違いして暴走してるだけだ。和馬君は雄太が私の弟だからということで反撃せず、理不尽な暴力をおとなしく全部受け入れてくれたのだろう。

 「クリスマスイブの日だっけ? 姉ちゃん、こいつの前でひれ伏すように大泣きしてたよね。あのときこいつを殺しとけばよかった。そしたらこんなことにはならなかった!」

 「和馬君がいなかったら私きっと自殺してたよ」

 それから二人に家に入るように言った。うちはマンション住まい。通路で騒いでて近所の人から通報でもされたら困るしね。

 「こんなやつをうちに上げるのか」

 と雄太に逆上されたけど、リビングで和馬君が〈こんなやつ〉なんかでないことを恥を忍んで全部説明した。

 「つまり、おれの認識は全部間違ってたってことか」

 「私が馬鹿だっていう認識は間違ってないよ」

 「それも間違いであってほしかった」

 雄太は和馬君に頭を下げて、勘違いから暴力を振るったことを謝った。優しい和馬君は両手を振って頭を上げるように促した。

 雄太に殴られたか蹴られたかして、和馬君の口の端が切れていた。こんなところ手当てのしようがない。

 「大丈夫?」

 と聞くと、和馬君は笑い出した。


 それを奈津さんに言われたのは初めてだね

 君からのLINEを読んで心配して来てしまったけど、僕を心配する余裕があるなら大丈夫だね


 そういえばそうだった。今まで〈大丈夫?〉は和馬君がスケッチブックに書いて私に尋ねるだけの言葉だった。

 ところで、私自身は今大丈夫なのだろうか? そう思った瞬間、画像を拡散されたという残酷な現実が私の体に重くのしかかってきた。私はすぐにこらえきれなくなり、目を開けていられなくなった。


 用があると言って雄太が家から出ていった。不登校児のくせに、学校に行く以外平日の昼間にいったい何の用があるというのか?

 おそらく気を利かせて、私たちを二人きりにしてくれたんだ。勘違いして和馬君に暴力を振るってしまったことの罪滅ぼしの意味もあるかもしれない。

 和馬君に私の部屋に来てもらった。学習机に椅子がついているけど、椅子は一つしかないから、ベッドに並んで腰掛けた。

 私の部屋に男の子を入れるのはこれが初めて。でも和馬君がこの部屋に来るのはこれが最初で最後かもしれない。そう思ったらまた涙が出そうになった。でも泣いてる場合じゃない。私は彼に、別れを切り出した。

 「拡散って言うとたいしたことないように聞こえるけど、そうじゃないんだよね。恋人にしか見せちゃいけない自分の裸が知ってる人、知らない人、関係なく大勢の人の目にさらされてるってことだもんね。私も傷ついたけど、一番ショックなのは和馬君だよね。自分の彼女の裸を大勢の人に面白半分に見られたわけだから。短いあいだだったけど楽しかった。もしかしたらこのままずっと幸せでいられるかもって夢見たこともあった。でも夢は所詮夢でしかなかったんだね。私にはもう君の隣にいる資格はないし、誰も私を知らない遠くに行こうって思ってる。君には迷惑のかけ通しで、何もお返しできないままお別れするのは残念だけど、私は遠くから君の幸せを祈ってるよ」


 奈津さんは僕と別れたいの?


 「別れたいわけないじゃん! 和馬君のこと嫌いになって別れたいって思うくらいなら、遠くにいて君の幸せを祈ったりしないよ」


 僕が学校を早退して君に会いに来たのは、あの画像が拡散したことで君がまた短絡的な考えから僕と別れたいって言い出さないか心配だったからだよ

 僕の皆勤が今日で途切れたことなんて気にしなくていいからね

 そんなことより君が無事かどうかの方が僕にとってはずっとだいじだ


 「いつものことだけど、私のことは全部お見通しなんだね」


 君の画像が拡散されるかもということも覚悟してた

 君が写真を撮られて、撮ったのがあの男だというのも君から聞いてたからね

 覚悟した上で君と交際することにしたのに今さら別れようと言われても困る

 あの画像の出回ってるこの街から君が出ていきたいというなら、それはかまわない

 でも僕もあとからついてくからね

 覚悟するんだね


 和馬君は私とつきあうと決めたとき、そこまで覚悟してくれていたのだ。

 一方、画像を拡散された本人である私は、そんな覚悟もなく和馬君に交際を持ちかけて、実際に拡散された今になってどうしようどうしようと慌てふためいている。

 覚悟の足りない私に、君は今からでも覚悟しろよと迫っている。

 つまり、画像の拡散と関係なく、これから何があっても和馬君と別れないという覚悟だ。

 「本当に私はまだ君の隣にいてもいいのかな? もしも世界から私だけ消えたとしても、世界は何も変わらないし、それで君が不幸になるとも思えないけど……」


 世界から君が消えたって、僕の心から君を消すことはできないよ


 「そんなの同じだよ。どんなに遠く離れてたって、私だって君を忘れることなんてできない!」

 君がスケッチブックに書いた言葉を見て、煮えきらない私もようやく覚悟を決めた。

 そのときまた沙羅からメッセージが届いた。


 いろいろ分かったよ

 拡散したのは悠樹さんの中学生の弟

 悠樹さんに画像を見せられて、ほしくなって一枚だけデータで悠樹さんからもらった

 弟はそれを面白半分に何人かの友達に送信したら、彼の知らないところでどんどん拡散していったということみたい

 悠樹さんと連絡が取れたけど、おれが拡散したんじゃないって逆ギレされた

 本郷君にまた仕返しされるのかってそればかり気にしてた

 今回の件で誰が一番傷ついてるかってことまで考えがいかないみたい

 本当にどうしようもないやつだったね


 そんなことはもうどうでもよかった。沙羅からのメッセージを和馬君にも見せた。彼も肩をすくめて見せただけで、特にそれ以上何も言わなかった。

 そのあと君はずっと、泣いている私を抱きしめていてくれた。セックスは必要なかった。ただ抱きしめていてくれるだけでよかったし、何も言わなくても君はそうしてくれた。

 そのあとでいくつかの決めごとをした。


 ・とりあえず三連休明けの火曜日は登校して、そのまま毎日登校できるかどうかを判断する。

 ・うちの高校の生徒にまで画像が拡散していて、もう登校できないと判断したら、事情を両親に話しそれ以降の登校を取りやめる。

 ・その場合、私は三月いっぱいで退学し、四月からほかの学校に転校する。場合によっては学校だけでなく住む場所も変える。

 ・何があっても私たちは別れない。

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