第六章 粉砕
私は深い海の底にいた。
明けない夜はないというけど、海の底はいつだって真っ暗だった。
耳にイヤホンでもしてるみたいに音も何も聞こえない。
見上げれば、はるか上方にかすかな光が見える。
でもそれは砂漠の蜃気楼と同じく決して手の届かない幻。
私は海の底からその幻を見つめている。
喜びどころか悲しみさえ存在しない海の底から――
もう二度と関わりたくなかった。関わることもないと信じていた。
でもそれは何の根拠もない希望的憶測でしかなかった。
思い込みは悪いことではない。
どんなに不幸な境遇でも幸せだと思い込めるならその人は幸せなのだ。
私の場合もそうだ。
和馬君が私を暗闇から明るい場所に引き出してくれた。
そう信じていたのが思い込みだったのだ。
でも所詮思い込みは思い込みでしかない。
本当は不幸なくせに! と誰かに事実を指摘された瞬間、私はまた暗闇に引き戻されるしかない。
私は誰もいない寒く暗い場所で一人震えている。
光は? 希望は? そんなものはどこにもなかった。
悠樹は私から連絡がほしいのだという。
悠樹が私をブロックしたように、私も悠樹をブロックした。
LINEで連絡が取れないから私の家までやってきたのだ。
こっちから連絡しなければまたこの家に来るのだろうか。
どなたですかと父や母に怪しまれたら、私の彼氏だとしれっと答えるだろう。
鈍感で無神経で恥知らず。あの男は、そういう男だ。
悠樹は私と初詣に行きたいと雄太に言ったそうだ。それはつまり、あのイブの日の振る舞いを私に謝罪したくて私と連絡を取ろうとしたわけじゃない、ということだ。
悠樹は私と別れたと思っていない。まだ私を恋人だと思っている。
私から連絡しなければまた悠樹がわが家に来るのだとしたら、こっちから連絡してあなたはもう私の恋人ではないと伝えるしかない。
悠樹はすでに私に対するブロックを解除してるはずだ。私はスマホを手に取り、しばらく無意味な操作を続けてから、目をつぶって悠樹への通話ボタンをタップした。
出るなとも思いながらタップしたのに、思い通りにならない最近の出来事を象徴するかのように、ほんの数秒で電話はつながってしまった。
「奈津! 絶対に電話してくれるって信じてたよ!」
セリフだけ聞いたら、どれだけいい人なの? って勘違いしそうだ。
「悠樹…さん、久しぶり」
ずっと心の中で呼び捨てにしていたけど、さすがに本人を前にして呼び捨てにする度胸はない。
「悪かったよ。本当にごめん! 奈津にひどいことしたって心から反省してるんだ!」
私を好き放題に傷つけたときのような偉そうなオレ様キャラでなかったことに、いきなり私は戸惑った。嫌な態度を取ってくれれば拒絶もしやすいのに……
「おれの言うことをなんでも聞いてくれたのは、奈津がそれだけおれのこと好きだったからだよな。普通に好きだっていうくらいならさせてくれないこと全部やってくれたもんな」
好きだったということは否定しない。確かにそのとき私は悠樹のことが好きで、できる限り彼の希望を叶えたいと思っていた。君はそういう無防備な私の善意につけ込んで、暴虐の限りを尽くした。謝って許されるものではない。
「ダチがみんなおれを責めるんだ。おまえのためならどんなことでもやってくれる女がほかにいるかって。それを簡単に捨てるなんて、おまえ馬鹿じゃねえのってさ。確かに今までいろんな女とヤってきたけど、一枚の写真も撮らしてくれない女ばかりだった。顔は隠すからと言ってもダメだった。奈津はおれにとって特別な女だったんだ、ってダチに言われて初めて気がついた。おれは馬鹿だった! でも二度と奈津を手放したりしねえと約束するよ」
「ちょっと待って! ダチって……。悠樹さんの友達に私とのこと話したの? あの画像も見せたの?」
「大丈夫。見せただけだ。拡散なんかしてねえよ」
まるで私に恩を売るかのように悠樹は能天気に言い放つ。
やっぱりダメだ、こいつ……。
本当に私のことを〈特別な女〉だと思ってるなら、私の裸の写った画像を人に見せるわけがない。さすがに少しは反省したんじゃないかと一瞬でも思ってしまった自分が情けなかった。悠樹はやはり悠樹だった。もう二度と関わってはいけない男なんだ。
友達に私のことをどう話したのか? 見なくても分かる。
〈おれにヤられるまで処女だったくせになんでもやらしてくれる女がいてさ。――ホントだって。この画像見てみろよ。一枚目は射精してる最中に苦労して撮ったんだぜ。こっちの二枚目なんて――〉
その場に居合わせた彼の〈友達〉が何人いたか知らないけど、自分が撮った画像を戦利品のように自慢げに見せびらかしながら、そんなふうにおもしろおかしく言いふらしたに違いない。
さっき悠樹は私のことを〈特別な女〉だと言った。悠樹にとって特別な女とは、特別に都合のいい女でしかないんだとはっきり分かった。
「悠樹さん、ちょっと聞いていい?」
「何を?」
「イブの日に悠樹さんに置いていかれたあと友達から聞いたんだけど、私と知り合う前に別の女の人に暴力を振るったり、子供をおろさせたことあるって本当?」
しばらく返事がなかった。認めるのがいいか、しらを切るのがいいか、決めかねて悩んでいたようだ。結局、しらを切ってもどうせバレるからと認めることにした。
「奈津にはおれの過去でなくおれの現在を見てほしいな。あれは若気の至りってやつさ。おれも反省したから、奈津とシたときもしっかり避妊したし、シてる最中も奈津が痛がらないようにけっこう気を使ったんだぜ」
私は高校生。君は大学生。避妊は当然のこと。当然のことを恩着せがましく言われるのは納得できない。そもそも悠樹が避妊に気を使うのは私のためじゃない。以前、避妊しないでセックスして妊娠させて苦労したという苦い記憶があるからだ。それだって、君は苦労したかもしれないけど、そのとき一番苦労したのは君じゃないんだ。
避妊なら和馬君だってしてくれた。慣れてない和馬君がもし忘れてるようなら私から声をかけようと決めていたけど、優しくて本当に私をだいじに思ってくれている彼はそれを決して忘れなかった。
行為時の痛みは確かに悠樹としているときはほとんどなかった。そういうものかと思ったけど、そのあと和馬君としたときはひたすら痛かった。
でもそんなのは慣れてるか慣れてないかの違いでしかない。
セックスしながらスマホで撮影までできる悠樹にとって、セックスは手軽にできる娯楽の一つにすぎない。
一方、和馬君は一生懸命だった。行為中、私しか見てなかったし、私のことしか考えていなかった。
痛かったけど私は幸せだった。悠樹にされているときは痛くなかったけど、嫌で嫌で仕方なかった。
「とにかくおれはもう奈津以外の女とはセックスしたくないんだ」
「私がおばあちゃんになっても?」
「おばあちゃんって……。奈津の売りは高校生だってことだろ?」
すでに悠樹への怒りはなかった。その代わり、〈なんでこんな男を好きになったんだろう?〉という自己嫌悪で胸がいっぱいだった。
これ以上ダラダラ話しても時間の無駄だと思った。
「悠樹さん、はっきり言うね。あの日LINEにも書いたはずだけど、悠樹さんは身勝手すぎるからもうつきあいたくないです。私はもうほかにつきあってる人がいます。だからもう連絡して来ないでください」
「つきあってる人?」
「うん」
「浮気したのか?」
「悠樹さんとは別れたつもりだから浮気じゃない」
「もしかしてあのときの耳の聞こえない男か?」
耳は聞こえる。口が利けないだけ。あのときもそう教えたはずなのに、所詮悠樹にとってはどうでもいいことだから初めから覚える気がないのだ。
「だったらなんなの?」
「浮気した罰としてお仕置きが必要だな。奈津のお宝画像、あの男に見せてやるよ。心配するな。あの男の愛が本物なら笑って許してくれるさ」
「沙羅に聞いたよ。あの画像、沙羅の目の前で削除させられたんでしょ。私はもう二度と悠樹さんの言いなりにはならないから!」
と言い返したとたんに着信があった。メッセージなしで画像が届いていた。送信者は悠樹。画像は二枚。
私が写ってるのにそれを私が見るのは初めてだった。二枚とも一切加工されてない。どこもぼかされていない。二枚の違いは私を前から責めてるか後ろから責めてるかの違い。どちらにも結合部分と私の顔がはっきりと写っていた。想像していた以上に絶望的にひどい画像だった。
これを和馬君に見られるのかと思った。写真を撮られたことはすでに伝えてある。でもそれは違う。撮ってもいいかと聞かれて了承した以上、撮られたのではなく撮らせたのだ。
画像の中の私は笑ってこそいないが、それほど嫌がってもいない。もっと怒った顔をしてると思っていた。それとも私の怒りが消えた瞬間を狙って撮影したのだろうか?
どちらの画像の私も、今まで隠してきたすべてを愛する男の前にさらけ出し、それを恥じらうのぼせたような表情をしていた。ある意味、裸を見られるより罪深い。自分以外の男の前で私がこんな表情を見せていたと知ったら、和馬君はどんなに嘆き悲しむだろう……?
「おれは奈津や沙羅と違って、誰かに何か言われたくらいで素直に従うようなピュアないい子ちゃんじゃないんだ。こんなお宝画像、とっくにコピーを作ってあるに決まってるだろ」
悠樹は言い返す気力を失った私に勝ち誇るように言い放った。
「これから車で迎えに行くからマンションの前で待ってろ! おれは心が広いから浮気されたことは許す。その代わり二度と浮気しようという気が起こらないように奈津の心も体もおれの痕跡で埋め尽くしてやるよ」
なるほど、それはいい方法だと思った。
私が悠樹に何を言ったって悠樹はあの画像を絶対に消してくれないだろう。逆にあらゆる手段を用いてあの画像を和馬君に見せつけようとするに違いない。私がもう一度悠樹の言いなりになり、決して消せない無数の傷を心と体に再び刻み込まれたら、必然的に和馬君と別れるしかなくなるわけだ。あの画像を和馬君に見られるかも、ともうこれ以上苦しまなくていいんだ――
一言〈ごめんね〉と和馬君にメッセージを送ってから私は部屋から出てマンションの前に立った。
車だからすぐに来るだろうと思ったら、先に来たのは自転車に乗った和馬君の方だった。悠樹はきっと私を部屋に連れ込む前にまた大掃除でもしてるのだろう。
僕を待ってたんじゃないよね?
和馬君の顔が怒っている。彼の怒った顔を見るのは初めてだ。何も答えられなくてうつむいた。
あの男を待ってたの?
何かで脅されて逆らえなくて?
なんでもお見通しなんだなと思った。目を合わせず力なくうなずいた。
「言うことを聞かないと私が撮られた画像を君に見せるって……」
それを僕に見られたらなんだと言うの?
「絶対に嫌われる。私を恋人にしたことを絶対に後悔する。優しい君は後悔してないって言うかもしれないけど、どっちにしてもあんな写真を撮らせる女は君の恋人としてふさわしいわけがないんだ」
見せて
「えっ」
君がそこまで絶望するくらいだから、君もその画像を彼から送られて見せられたんだよね?
今すぐ見せて
見られたくないと言ってるのに、それでも見せろと言う和馬君は鬼だと思った。
でも私のいないところで悠樹に見せられるよりはマシだと思った。
どうせ和馬君と別れるなら、これを見せてすっかり軽蔑されてから別れる方があきらめもつくし。
さっき悠樹から受け取った画像を開いて、スマホごと和馬君に手渡した。
彼は無言でそれを受け取って目を皿のようにして一分以上は見入ってから、スマホを私に返した。
それで?
「それでって?」
見たけど、僕は奈津さんを嫌いになってないし、君を恋人にしたことを後悔してもいないし、それでも君は僕の恋人としてふさわしいと思ってる
それで?
まだほかに何かあるの?
私はやっぱり馬鹿だと思った。
なぜ和馬君を信じてあげられなかったのだろう?
「ごめんなさい。私どうかしてた……」
涙が流れてきてうまく話せなくなった。
君が悪いんじゃない
君の心の弱さにつけ込んで、君を脅して言うことを聞かせようとしたあの男が悪いんだ
「ううん。私が一番悪い。だって私は君を裏切ろうとしていたんだから」
そうだね
君は約束を破った
「約束?」
君に告白されてOKしたとき念押ししたはず
くれぐれもそれが僕のためとか勝手に判断して僕から離れていったらダメだよ
確かにそう伝えた
君が僕の恋人としてふさわしいかどうか
それを決めるのは僕だ
君に勝手に決められるのは迷惑だし大きなお世話だ
「ごめんなさい……」
ようやく悠樹にかけられた悪い魔法から解き放たれた。私はとんでもないことをしようとしていた。申し訳なくて和馬君の顔を見られなかった。ちらっと見ると、私と別れないと言いながら和馬君の顔は怒っていた。
奈津さんのこと嫌いにならなかったけど
逆に好きだから嫉妬してしまったようだ
「嫉妬……?」
あんなとろんとした無防備な表情をほかの男に見せて!
今度僕にも見せてもらうよ
「同じ表情をホテルで君にも見せたと思うよ」
そのときは君の表情を見る余裕なんてなかった
今度じっくり見せてもらうよ
「い、いいよ」
見せてあげようと思った。
悠樹に見せたかどうか関係なく、私のすべての表情を君に。
君はそれをいちいち記憶する必要はないんだ。
だって私はいつでも君のそばにいて、君は見たいとき好きなだけそれを見られるのだから。
そのとき見覚えのある黒いワンボックスがマンションの敷地内に入ってくるのが見えた。悠樹だ。私の隣にいる和馬君の姿に気づいたせいか、ずいぶん乱暴な運転に見えた。
駐車スペースでもないのに車を止めると、悠樹は何やら大声を上げながらこっちに向かってきた。何を言ってるか確認する必要性を感じなかった。私はもう和馬君以外の男の言葉に耳を傾けるつもりはなかった。
和馬君は自分の胸ぐらをつかまれる前に、さわるなとばかりに悠樹の顔面に右の拳をめり込ませた。瞬殺だった。地面に倒れ込んだ悠樹は、それきりぴくりとも動かなかった。
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