第五章 純愛
羽海が盗み聞きした私の過去を和馬君の両親に話さなかったように、雄太も勝手に録音した私との会話を私の両親に聞かせなかった。でも、あくまでそれは今時点での話だ。彼らの気が変わって、あとからそれを実行するかもしれない。和馬君と恋人になれたことはうれしかったけど、不安は私の心の片隅に居ついたまま決していなくなってはくれなかった。
もしも羽海や雄太が私の意に沿わない行動を取ったら、私と和馬君の関係はどうなるのだろう? 無理やり引き裂かれるのだろうか?
羽海が自分の親にそれを話せばそういうことになるだろう。雄太が録音した内容を自分の親に聞かせたら、私をひどい目に遭わせたのは和馬君だという誤解が解けたとしても、彼らの怒りは実際の加害者である悠樹へと向かうだろう。二十二歳の大学生の男が十七歳の女子高生とセックスすることが犯罪になることは私も知っている。それが明らかになれば悠樹が罰せられるのだとしても、私はもうあの男とはとにかく関わりたくなかった。
今年がもうすぐ終わる。悠樹のせいで最悪の一年になるところを、クラスメートなのにただの一度も話したことなかったような和馬君に救われた。今年一年が救われただけじゃない。和馬君はもしかすると今後の私の長い人生の時間ずっと私のそばにいて、私がもう大きな失敗をしないように見守ってくれる、そういう人なんじゃないかと思うようになった。
もちろんそんなこと彼に言えるわけはなく、彼とLINEしながらときどきそんなことを思っては、つい口元が緩んでしまうのだった。
次に和馬君と会うのは大晦日の夜。年越しの瞬間を彼と二人で迎え、そのまま神社に初詣に行くことになっていた。
今年の初詣は沙羅のグループと行った。女ばかり十人で。気の置けない仲間だけで好き放題遊ぶのはそれはそれで楽しかった。
でも今はそのグループ全員からLINEでブロックされている。和馬君がいて本当によかった。今は友達十人より一人の恋人の方がだいじだ。
私にとってもそうだけど、きっと和馬君も同じ気持ちでいるはずだ。和馬君は十人どころかずっと一人の友達もいなかった。私は彼にとって久々の友達であり、初めての恋人。私は二度と彼を孤独な暗闇の海に飛び込ませたくなかった。
大晦日の午後十一時に待ち合わせした。親には去年と同じで沙羅たちと会うと嘘をついた。雄太はそんな私を冷ややかに見ていた。でもこの家に和馬君を連れてくると雄太とケンカになるのは目に見えている。どうすればいいか、さっぱり分からない。
和馬君と会うのは和馬君の家で食事した日以来。彼の志望大学は私たちの高校から過去一人も合格者を出していない難関大学。会いたいのはやまやまだけど、私とデートばかりしていたせいでその大学に入学できなかったとなったら、羽海にも許さないと言われてるし、彼本人にも申し訳ない。だから三日会うのを我慢した。
その神社に初詣に行く人は多く、夕方から露天もたくさん出ている。吐く息が白くなるほどの寒い夜だった。にぎやかな場所はたくさんあるけど、私はどんどんひとけのない方に進んでいく。
待ち合わせ場所は神社のそばを流れている川の少し上流にある大きな桜の木の下。もちろん真冬の桜なんて花も葉もつけてないから誰も近寄らない。なぜそんな寂しい場所を待ち合わせ場所に選んだかというと、もちろん会ってすぐ人目を気にせずキスするためだ。
予想どおりほかには誰もいなかった。私たちは時間も人目も寒さも忘れて、ひたすら唇を合わせていた。接着剤でくっつけたみたいにもう離せないんじゃないかって思ってしまったくらいに。
キスのあと、和馬君にスマホのメモ機能を使って注意された。真夜中で外は真っ暗だからスケッチブックに書いたことが見づらいから、確かにその方が効率はよさそうだ。
奈津さんがなんでこの場所を待ち合わせに選んだのかよく分かった
でも、こんなさびしい場所に君一人で来るなんて何かあったらどうするの?
ただでさえ、祭りと同じで酔っ払いみたいな柄の悪い人たちもたくさん来てるというのに
「ごめん」
と素直に謝ったけど、それがそんなに大切なことなら、キスする前に私に注意しないとまったく説得力に欠けると思う。言わないけどね。
手をつないで川沿いの道を歩いて神社を目指す。後ろから来た集団の誰かが川の中に空き缶を投げ込んだ。確かに柄の悪い人たちもたくさん来てるんだなと思ったら、沙羅たちのグループだった。手元を見ると、みんなでビールを飲んでいるようだ。ただ柄が悪いだけでなく未成年なのにみんな酔っ払っていた。和馬君が、さっき雄太が私を見ていたときのような冷ややかな目で彼女たちを見ている。前回の初詣はこのグループの中に私もいた。とてもそんなことは言えないなと思った。
「奈津じゃん! 見て! 奈津がカンちゃんと手をつないで歩いてる!」
と叫んだのは沙羅の手下みたいな役回りの広河隆子。この子も私と同じクラス。強い者には媚びへつらい、弱い者には情け容赦ない。そんなタイプ。強者か弱者か。隆子から見れば、今の私は典型的な後者だろう。
「よりによってイブの日に男にフラれたってのは聞いてたけど」
「絶対フラれないカンちゃんを次の彼氏に選ぶなんて、奈津って超策士じゃん!」
「カンちゃんがしゃべってるの聞いたことないけど、キスはできるのかな?」
「口が利けないだけだからセックスだってできるんじゃない? あたしはカンちゃんとセックスするのは死んでもやだけどね」
「うん。カンちゃんとやるくらいなら六十のじじいとやる方がマシだよね!」
言いたい放題の沙羅の仲間たち。つい一週間前までみんな私の友達だったはずなのに。
でも今はこの子たちと縁が切れたことに何の後悔もない。逆に、こんな子たちと友達だったことは、自分の体を悠樹の性欲のはけ口に使われたことと同じくらい後悔している。
和馬君から手を離し、沙羅たちの前に進んでいこうとした私の腕を和馬君につかまれた。聞かなくても分かる。〈行っちゃダメだ。言わせておけばいいよ〉と言ってるんだ。
私が来ないのを見て、逆に沙羅が前に出てきた。
「先に行ってて。ちょっと奈津と話があるから」
もっと私をいじりたいのにと不満げな仲間たちを先に行かせて、吉田沙羅はこっちに向かってきた。茶髪に大きなピアス。真冬なのにギャルみたいな露出の多いコーデ。
中学デビューだと聞いているけど、別にグレてるわけじゃない。家でも学校でもおとなしくしている。勉強嫌いで部活もやってない、同じ学年のそんなやる気ない女子を集めてグループを作り、そのリーダー格という役回り。
「奈津だけにちょっと話がある」
「和馬君がいたら話せないこと?」
「そう。絶対話せないこと」
そうまで断言されたら二人で話すしかない。和馬君が心配そうに私を見る。
「ここで待ってて。ここから見える場所で話して、話が終わったらすぐに戻るから」
和馬君がうなずくのを待って、私は沙羅のあとを追った。そのまま歩いて和馬君が見えるか見えないかぎりぎりのところで私は立ち止まった。
「そこで話す? いいよ」
沙羅は私が立ち止まったところまで戻ってきて、いきなり私の脳天に言葉のハンマーを振り下ろした。
「この前、悠樹さんに会ったよ」
「それで?」
「イブの日に彼が奈津に何をしたか全部聞いた。彼がスマホで撮った、裸の奈津を写した画像も見せられた。なんであんな写真撮らせたの? しかも二枚も」
あの画像をよりによって沙羅に見られた? 頭がぼうっとして、足元がふらふらしてきた。ここで私が倒れたら和馬君が飛んでくるだろう。
もしかすると沙羅は悠樹から画像を譲り受けていて、今度はそれを和馬君に見せるつもりではないだろうか? 絶対にあれを彼に見られるわけにいかない、と私は必死に耐えた。
「私が馬鹿だったから……」
「写真撮らせたあと誰にも見せるなって念を押した?」
「自分で見るだけだっていうから……」
「実際、あたしに見せてるじゃん!」
何も言い返せない。悠樹なんかを信用した私が馬鹿なのだ。
「悠樹さんには絶対に拡散するなって言っといた。画像もその場でスマホから削除させた」
「え? あ、ありがとう……」
私と絶交したはずの沙羅が私のために悠樹のスマホからあの画像を全部削除させてくれた? どういう意図なのか分からず私は混乱していた。
「あのね、あたしは自分のことを奈津と同じくらい馬鹿だと思ってるけど、でも奈津が思ってるほどクズじゃないんだよ」
「う、うん……」
「あたしの話はそれだけ。ね、本郷君の前で話せない話だったでしょ? もう話は済んだから早く彼のところに戻ってあげなよ」
仲間のもとに戻ろうとする沙羅を慌てて呼び止めた。
「沙羅」
「何?」
「中学のとき友達だった和馬君に伝えることある?」
「本郷君がバラしたの? なんでバラすかな? なんであんたたちがつきあってるか知らないけど、あんたの彼氏があんたと絶交したあたしに昔ひどい目に遭わされたって聞いたら、あんたが嫌な思いするって本郷君なら分かりそうなものなのに」
「和馬君は沙羅の名前を出さなかったよ」
「どういうこと?」
「そうじゃないかと思って沙羅にカマをかけてみたら沙羅が引っかかっただけ。和馬君の卒アル見て、沙羅が和馬君と同じ中学でクラスも同じだったって知った。しかも仲間はみんな緘黙の和馬君を馬鹿にして〈カンちゃん〉って呼んでたけど、沙羅だけは〈本郷君〉だもんね」
「将来、警察か探偵にでもなれば成功できるかもね」
沙羅が苦笑いしている。
「今度でいいから中学のときの話を聞かせて」
「あたしが彼に何をしたか聞いてるよね。怒ってないの?」
「彼は私が悠樹にフラれたときその場にいたんだ。それが私が彼とつきあうきっかけだった。私が悠樹に何をされたかも知ってる。彼は私の過去に目をつぶってくれたのに、私が彼の過去のことで沙羅に怒るわけにはいかないよね。そもそも彼自身が沙羅を怒っていないのに」
「本郷君が私を怒ってない? そんなことあるわけないじゃん!」
私はスマホを取りだしてLINEを開いて、一枚の画像を沙羅のアカウントに送った。それはスケッチブックから切り取った一枚の画用紙を写した画像。
いつか和馬君が私に教えてくれた彼の初恋の話。中学のとき一度だけ言葉を口から出せたこと。友達だった沙羅のことを聞かれて、「好き」と声を出せたこと。沙羅が自分から離れていって、もう二度と友達ができないんじゃないかとあきらめていたこと……
「今一枚画像を送ったから、一瞬だけでいいからLINEのブロックを解除してその画像を見て。見たらまた私をブロックしていいから」
「分かった」
沙羅は小走りに仲間のもとに戻っていった。あの画用紙に書かれた内容は誰にも見せないと和馬君に言ったのに、約束を破ってしまった。すぐに謝ろうと決めて、沙羅が走っていったのと逆方向に私も走りだした。
和馬君が手を振っている。謝る前にもう一度キスしよう。そう決めたら走るスピードがさらに増した。
近くの寺で除夜の鐘が鳴り始めた。除夜の鐘は百八つもある人間の煩悩を祓うために撞くんだそうだ。そのまま百八回目の鐘が鳴り終わるまでキスしてるのもいいかもしれない。だってこれは煩悩なんかではなく、誰がなんと言おうとも混じりっけなしの純愛なのだから――
和馬君の書いた画用紙の画像を沙羅に送信したことを謝ったら、しょうがないなという感じで許してくれた。
吉田さんとは仲直りできたの?
「それはまだ……」
行為中の私の画像を沙羅が悠樹に見せられたことは言えなかった。
神社で引いたおみくじは和馬君が大吉で、私は凶だった。
初詣からの帰り道、
「君の運を分けてよ」
と冗談っぽく言いながら、私は和馬君をホテルに誘った。和馬君はやはり普通の男の子だった。少し困った顔をしたあと彼はうなずいた。
私たちはようやく結ばれた。恋人同士になってまだ一週間も経ってないけど、私にとっては〈ようやく〉だった。君にとってはどうだったのだろう?
いつのまにか胸の噛み跡も噛まれた痛みももうなくなっていた。
君の体を受け入れている最中、悠樹によって私の心と体に深く刻み込まれた、そのほかの傷も痛みも悲しみも次々に剥がれて消えていくような、そんな気持ちがした。
私たちは何度も何度も求め合い、ホテルを出たときは朝の五時を回っていた。外はまだ真っ暗だった。
部屋にいたときは泣かなかったのに、ホテルから出たとたん涙が出てきた。
大丈夫?
「うん、大丈夫。君がそばにいるから」
また私を抱きしめてくれた。さっき裸で抱き合っていたとき以上に、君を近くに感じた。
和馬君はまだ暗いからと私の家まで送ってくれた。でもそのとき私の心のどこにも暗いところなんてなかったんだ。
帰宅して自分の部屋のベッドに寝転んで、スマホをチェックすると沙羅からLINEのメッセージが届いていた。
奈津はもうあたしらと関わらない方がいい
だからもう話はしない
本郷君のこと知りたいんだろ?
このメッセージであたしの知ってること全部伝えるから
教室の中でも外でもあたしに話しかけるな
あたしも話しかけない
あたしは小学生のとき親に言われて無理やり空手をやらされていた
やらされていただけだから全然上達しなかった
同じ道場に本郷君がいた
あたしが彼を知ったときから彼は何も話せなかった
でも子どものときから大きな体してて、その恵まれた体格を生かして空手は強かった
大会に出ればたいてい優勝してた
あたしがどれだけ手を伸ばしても届かないものを簡単につかめる人
彼はあたしのあこがれだった
あたしが空手をやめてだいぶ経った中三のときはじめて彼と同じクラスになった
彼はずっとあたしのあこがれだったけど、彼は弱いあたしのことなんか覚えてなかった
口の利けない彼はいじめられっ子になっていた
卑怯なあたしはイライラしながら彼がからかわれるのを見ていた
本郷君が本気出したら、あんたらなんか瞬殺なのにってね
夏頃、あたしはとうとう我慢できなくなって彼を助けた
いじめっ子があたしにも向かってきたけど、頭を回し蹴りしたら脳しんとうを起こして、それからあたしの前で本郷君をいじめるやつはいなくなった
あたしと本郷君はそのとき初めて友達になった
うれしくなってどんどん話しかけたけど、優しい彼はいつもあたしの話を最後まで聞いてくれた
もしかしたら彼と恋人になれるかもってひそかに期待していた
でもそのころあたしは悪い先輩たちとかかわるようになっていた
先輩が彼氏を紹介してやるって言ってきた
興味ないんでって言ったんだけど無理やりいかにも悪そうな男を紹介された
先輩の顔をつぶすわけにもいかないから、ちょっとだけその男とつきあうことにした
最初のデートでレイプされた
奈津が悠樹さんにされたことよりもっとひどいことをいっぱいされた
あたしが本郷君から離れたのは、もうあたしには彼のそばにいる資格がないと思ったから
彼があたしのことを「好き」って言ってくれたのはもちろん知ってる
だからなおさら彼から離れた
でも失敗だったよね
あたしと同じくらい馬鹿だった奈津が本郷君と恋人になれるなら、あたしだってなれたかもしれないのに
あたしは彼にひどいことしたっていう自覚はあるけど、それを彼に謝るつもりはないよ
もう違う世界に生きてるんだから関わらない方がいいんだ
あんたも同じ
悠樹さんみたいなクズを奈津に紹介してしまったことはめちゃくちゃ後悔してるけど、それをあんたに謝るつもりもないよ
あんたも本郷君のいる世界でずっと生きてけばいいよ
同じ教室にいたって住んでる世界が違うって不思議な気がするけど、実際その通りなんだから仕方ないよね
あんたたち似合いのカップルだと思うよ
お幸せにね
沙羅
沙羅に返事は書かなかった。どうせまたブロックされてるんだろうから。
目が冴えてるけど、ちょっとでも寝ておこうと思ったら、スマホに電話がかかってきた。
LINEではなく普通に電話の着信。珍しいなと思って相手の電話番号を見たけど、まったく記憶にない番号。ほっといたが、なかなか着信音はやまなかった。これだけ長い時間電話を切らないのだから何かだいじな用があるのでは? ということで思い切って通話ボタンをタップした。
「もしもし」
「お姉さん、遅いよ!」
羽海の声。私と羽海はLINEでつながってない。だから電話をかけてきたのだろう。羽海が一度和馬君のスマホを盗み出したとき、私の電話番号も盗み見たのだ。本当に抜け目のない子だ。
「あたし実は半信半疑だったんだよね」
「何が?」
「アニキとお姉さんの交際。経験豊かなお姉さんが恋愛経験値ゼロのアニキを振り回してるだけじゃないかって。気のある振りして絶対に最後の一線は越えない、みたいな。ラブコメなんかによくあるよね」
何を言ってるのか分からない。そんなことより私は眠い。忙しいから今度ね、と言って電話を切ろうとしたとき、
「あっさり最後の一線を越えちゃったんだね。びっくりしたよ。お姉さんとつきあうまで女の子と手もつないだことなかったあの奥手のアニキが十七歳の誕生日を迎える前にもう童貞でなくなってるなんて!」
絶対にカマをかけてるのだと思った。私が沙羅をひっかけたときみたいに。慎重で口の堅い和馬君が羽海にそれを、しかもこんなに早くバラしてしまうとはとても信じられなかった。
「なんでそう思ったか知らないけど、そんな勘違いされたらこっちは迷惑なんだけど」
「しらを切るの?」
「しらも何も、そんな勘違いされたら和馬君だってきっと怒るよ」
「アニキなら今まで見たことないような、幸せそのものって顔して自分の部屋でぐっすり寝てるよ。今までどんなに眠くても必ず朝五時に起きて勉強を始めてたアニキが、今日初めて朝帰りしてそれからずっと眠ったまんまって、そりゃおかしいって思うよね?」
「勉強しすぎで疲れがたまってたんだよ。いい機会だから休ませてあげてほしいな」
「あくまでしらを切るんだ?」
「だから何を言ってるか分からない」
「じゃあ、読み上げるけどお姉さんが悪いんだから悪く思わないでね」
「読み上げるって、何を?」
全然寝てないのは私も同じ。私だって和馬君みたいに頭を真っ白にして眠りたいんだ。さっさと通話終了ボタンをタップしようとしたけど、その前に何かを読み上げる羽海の声が聞こえてきた。
「〈僕は初めてだからうまくできなくても笑わないで〉」
そのセリフはもちろん覚えている。それはホテルの部屋に入った直後、和馬君がスケッチブックに書いて私に見せたセリフ。
私は絶句した。そんなだいじなスケッチブックを羽海に奪われて、和馬君は何をしてるのか!
そうだった。ぐっすり眠ってるんだった……
「次のページも読んだ方がいい?」
次のページに彼が書いたこともよく覚えている。前のページと次のページのあいだに私たちは初めて結ばれていた。
「私はもう君以外の誰ともセックスしたくない」
私がそう言うと、彼はスケッチブックにこう書いた。
「〈僕だってそうさ たとえ君がおばあさんになったって、君以外の女の人とセックスしないって約束する 君がおじいさんになった僕で満足してくれるか分からないけど〉」
羽海は情け容赦なく読み上げ続ける。そのセリフに対して、私はなんて返事したっけ? あ、思い出した。
「おじいさんになったって君は君だよ」
私がそう答えたら、和馬君はまた私を求めてきたんだった。
そのあとも彼は一晩かけて私を求める気持ちをスケッチブックにこれでもかと書き綴った。
「お姉さん、勘違いしないでね。あたしは別にお姉さんを責めてるわけでも笑ってるわけでもないよ」
羽海がしみじみと言いだした。
「むしろうらやましい。あたしもいつかお姉さんとアニキみたいな素敵な恋をしてみたいなって思った」
「きっとできるよ」
と私は答えた。
「ただ絶対にあせっちゃダメだからね!」
それからもう少し羽海と会話したけど、限界が来て私は暗い海の底にいるような深い眠りに落ちたのだった。
目を覚ますと午後になっていた。パジャマのまま部屋を出ると、廊下で雄太が待っていた。新年早々なのに相変わらず機嫌が悪そうに見えた。
「姉ちゃんが寝てるあいだに男が訪ねてきたよ」
和馬君が? ぐっすり眠ってるんじゃなかったっけ? それになんで私のうちに? 何がなんだか分からず私は戸惑った。
「初詣に誘うつもりで来たんだって。連絡がほしいって言ってた」
初詣なら夜中にいっしょに行ったばかりなのに。ますます分からなくなった。
「黒瀬悠樹っていう人。名前を言えば分かるって言ってた」
眠りから覚めて暗い海の底から這い上がってきたはずなのに、さらに深い海の底に沈められたみたいに私はまた言葉も感情も失っていた。
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