第四章 高望み


 お風呂から上がって特にすることもなかったから、和馬君にメッセージを送ることにした。

 LINEを立ち上げたけど誰からもメッセージが届いてない。LINEの友達なんて百人以上いたはずなのに。みんな沙羅に言われて私をブロックしてしまったのだ。

 つまり友達だと思ってた百人は私の友達ではなく沙羅の友達だった。私の友達なんて実は一人もいなかった。

 愚かな私はなんにも知らなかった。偽物の友達を友達と信じ、偽物の恋人を恋人と信じ、信じて裏切られて傷ついた私は一人で放り出された。


 僕にふさわしい人は、僕が話せないのを承知で僕のそばにいて、僕に話しかけてくれる君だけだよ


 和馬君はスケッチブックにそう書いたけど、それは私にとっても同じことだ。傷ついた私のそばにいてくれたのは君だけだった。

 世の中には和馬君と違って言葉を話せて、そして和馬君より優しくて頭のいい人が大勢いるのかもしれない。

 でもそんなこと何の意味もない。人間なんてそれこそ星の数ほどいるはずだけど、結局私のそばにいて、そして私のために泣いてくれたのは君一人だった。

 優しい君はこんな私の友達に、そして今日は恋人にもなってくれた。君は本物の友達で本物の恋人だった。

 恋人というくらいだから私は君に恋をしている。おそらく君が私を想う気持ちよりずっと強く、私は君を想っている。

 そんなことを言えば、頭のおかしい女だと君は笑うだろうか? そうかもしれない。私は自分でも大丈夫かなと心配になるくらい君に恋してるんだ――


 涙と募る想いが止まらなくなってメッセージが書けなくなってしまった。明日も会いたいと思った。

 でも君には君のすべきことがある。私のせいで時間が取られてそれが疎かになったら申し訳ない。恋は退屈や困難からの逃避であってはいけないと思う。私と恋することで君がさらに高みを目指せるような、そんな恋をしていければいいなと願ってるんだ。


 私がLINEの画面を見つめたままメッセージを書けないでいるうちに、先に和馬君からメッセージが届いた。


 奈津さん、こんばんは

 今日はいろいろあってまだ夢を見てるみたいに頭がぼうっとしてる

 でもつらいばかりだった人生が急に楽しくなった

 君と会えて本当によかった


 先に私から送りたかったのに! 和馬君のメッセージを読み終わるやいなや、私は猛然と文字を入力し始めた。


 和馬君、こちらこそありがとう

 あの日、そばに君がいなかったらと思うと正直ぞっとする

 私は君に救われた

 私には君を救う力はないけど、私がそばにいることで君の人生が少しでも明るくなったならそれ以上の幸せはないよ

 今日は楽しかった

 明日も君と会いたいけど、私と会ってばかりいて君の成績が下がったら君のお母さんに怒られるから我慢するよ


 すぐに返事が届いた。

 一行目で喜んで、二行目で顔が青くなって、三行目でやられたと思った。


 奈津さん、明日会えないかな?

 その僕の母が君に会いたいと言ってるんだ

 僕に彼女ができたって母の前で羽海が口を滑らせたんだ

 そそっかしくて困ったやつだよ


 最後の四行目を読んで、なんて人がいいのだろうと思った。知ってたけど。

 羽海は私と連絡を取るために隙を見て和馬君のスマホを盗み出すような、まだ中二とは思えないほどの抜け目のない少女。

 うっかり口を滑らせるような、そんなキャラじゃない。

 絶対にわざとだ。

 なぜそんなことしたかって?

 それはもちろん外堀を埋める、つまり私が和馬君と別れられなくするためだ。

 悠樹に凌辱されたクリスマスイブの夜、私は自分の両親の顔をまともに見られなかった。今までだいじに育ててもらったのに馬鹿な男の言いなりになって、自分の体を粗末にしてしまったことが申し訳なくて。

 私は和馬君のお母さんの目を見て話すことができるだろうか?

 だいじに育ててきた一人息子をこんな愚かで汚れた女に奪われるかもと知ったら、彼女はどれほど悲しむだろう……?


 返事がないけどどうしたの?

 もし会いたくないというなら、うちに呼ぶのはまだ早いよって断っておくけど


 会いたくないわけじゃないんだ

 私はまだ痛手から立ち直れたとはいえない

 何かの拍子に過去の出来事がフラッシュバックして、君のお母さんの前なのに泣き出してしまうかもしれない

 そうしたらこの子にはいったいどんな過去があったんだろうって疑われる

 私の過去を知っても君のお母さんが気にしないでいてくれると思うほど、私は楽天的な性格じゃない

 私は怖い

 和馬君との仲を引き裂かれることが

 でもこれを書いてるうちに逃げちゃダメだって思えてきた

 私の過去を知らせることはできないけど、私は君のお母さんの目を見て話したい

 君がそばにいるならそれができそうな気がするんだ


 何があっても僕は君を守るよ


 ありがとう

 その言葉を信じる

 明日、君の家に行くよ

 明日も今日みたいにいい一日になるといいな


 その夜、なかなか寝つけなかったけど、いつのまにかぐっすりと眠っていた。

 もちろん不安はあった。でも君と恋人になれたという絶対的な安心感によって、その不安はあっというまに空のかなたへと吹き飛ばされた。


 恋人になった次の日に、恋人の家に行って恋人の家族と会うことになった。

 こんな私でも人並みの幸せまで手を伸ばせば届くところまで来た。

 いや私は幸せだ。

 和馬君の恋人になって幸せじゃない、なんて言ったら彼に失礼だ。

 私は全力で幸せにならなければならない。それは彼のためでもあるんだ。


 今日も出かけるというと、お母さんは渋い顔になった。

 「ちょっと遊びすぎなんじゃないの?」

 「遊びすぎって、昨日もおとといも図書館で勉強してたよ」

 「何年奈津の親やってると思ってるの? あなたが来年高三だというのに嘘ついて遊び回ってるのはお見通しなの。嘘じゃないというなら、冬休みの宿題くらいやってあるんでしょ。見せてみなさい」

 「待ってて」

 冬休みの宿題ならとっくに終わってる。自分の部屋から持ってきて、それをお母さんに見せてあげた。

 それを見て、お母さんが固まっている。

 「確かに終わってるわね……」

 「図書館は今日から休館日だから、今日は友達の家にいるから」

 「分かった。あまり遅くならないようにね」

 急に文句を言わなくなった。わが子を信じてやれなかった自分が恥ずかしい、というところか。

 「お母さん」

 「何?」

 「ごめんなさい」

 「なんで謝るの?」

 「なんとなく……」

 「変な子ね」

 首をかしげるお母さんを置いて家を出ると、今度は雄太に捕まった。なぜかまた怒ってる。急いでるんだけど。思わずため息が漏れた。

 「あの背の高い男に会うの?」

 「だとしたらなんなの?」

 「姉ちゃん、そいつともうセックスもしちゃったみたいだけど、フラれたんじゃなかったっけ? 前にそいつの足元に泣き崩れて大泣きしてたよね」

 「フラれてなんていない。何があっても別れたくない。彼は私にとって一番だいじな人なんだ」

 「それはおれたち家族よりもだいじってこと?」

 しつこい! 少なくともシスコンの弟である雄太よりもずっとだいじだと思って、突き放すような言い方をしてしまった。

 「今言ったとおり! 私は彼に私のすべてを捧げると心に決めたの!」

 雄太は仕方ないなという顔で胸のポケットから何か小さな機械を取り出した。

 「?」

 「これ? ボイスレコーダー? スマホアプリだと録音してもノイズが多くて役に立たないからね。わざわざ買ったんだよ」

 雄太が手際よく操作すると、途端に私の声が聞こえてきた。

 〈私は彼に私のすべてを捧げると心に決めたの!〉

 なるほどクリアな音声だった。などと感心してる場合ではなかった。雄太は無表情のまま言い放った。

 「会いに行きたければ行けばいいよ。その代わり、今録音した内容は父さんと母さんに全部聞かせるから」

 「そ、そんなことして許されると思ってるの?」

 「許されないことをしたのは姉ちゃんの方だろ?」

 脳裏に悠樹の顔が浮かぶ。確かに私は許されないことをした。

 私は言葉を失って、逃げるようにその場から走り去った。


 雄太は本当にさっき録音したものを両親に聞かせるつもりだろうか。それともただの脅しか。さっぱり分からなくて、頭がぐちゃぐちゃになった。

 もしあれを両親に聞かれたら……。怒るだろうか、呆れるだろうか、悲しむだろうか。

 和馬君との待ち合わせ場所に向かう途中ずっと悶々としていた。

 決められた時間直前に着いた。和馬君はもうそこで待っていた。真面目な彼のことだから三十分以上前からここにいたのかもしれない。

 「ごめん。待った?」


 たいして待ってないよ

 それより奈津さんが無理に笑ってるように見える

 緊張してるの?


 いつもながら鋭い。口が利けない分、相手をよく観察しようとして長い時間かけて身につけたスキルなのだろうか?

 「ちょっとうちでいろいろあって……。でも大丈夫。今日は和馬君のうちの人たちと仲良くできるように全力を尽くすよ」


 ありがとう

 でもいつも通りでいいよ

 僕はいつも通りの奈津さんを好きになったんだから


 どうしよう。

 どうしようもなくキスしたくなってしまった。

 待ち合わせ場所は駅前で人通りが多かったから、和馬君の家に向かう途中、人通りがなくなった瞬間、私はさっと和馬君にキスをした。和馬君はなぜ今と言わんばかりに目を丸くしていた。


 私のうちは築五年の分譲マンションの15階だけど、和馬君のうちは築三十年の二階建ての一軒家。和馬君が大人になったら和馬君もお金を出して家を建て直すことになってるそうだ。和馬君がしっかりしてるのはきっとそういう家庭の方針もあるのだろう。

 もし私が緘黙で何も話せなければ、とても今のような普通の生活を送れている自信がない。人と接するのが怖くて不登校になっていたかもしれない。

 和馬君がそうならなかったのは、もちろん本人の意志の力が一番大きいのだろうけど、それも家庭のバックアップがあればこそだ。

 緘黙の和馬君をここまでまっすぐに育ててきたのは彼の家族の愛だ。私は彼の家族に彼の恋人としてふさわしい女性だと認めてもらえるだろうか。考えれば考えるほど自信がなくなった。


 大丈夫


 突然、和馬君がスケッチブックにそう書いて私に見せた。いつも、〈大丈夫〉の下に〈?〉がついてるのに今回はそれがなかった。

 何も言わないのに、彼には私の不安がお見通しだった。すべてを彼にゆだねようと決めた。私が〈大丈夫〉であるためにはそうする以外にないと思われたから。


 昼食をごちそうになることになっている。正午少し前に和馬君の家に着いた。

 古そうだけど立派な家だった。ここまで来て逃げ出すという選択肢はない。和馬君のあとから玄関に入ると、羽海が待っていた。

 「いらっしゃい、お姉さん」

 私のことをお姉さんと呼んでいる。自分で言い出したことでもあるし、約束は守るつもりらしい。

 「でもごめんなさい。あたしがお母さんの前でアニキに彼女ができたって口を滑らせたばかりに、こんなことになっちゃって……」

 羽海は心から済まなそうに言い、私を拝むようなポーズを取った。

 わざとなのか本当に口を滑らせただけなのかきっちり問いただしたいけど、それはまた今度だ。

 「お姉さん、帰るときでいいから、ちょっとだけ二人で話したいんだけど」

 「いいよ。声をかけて」

 言うだけ言って、羽海はすたすたと奥の方に行ってしまった。


 和馬君に連れられてダイニングキッチンに入ると、そこに羽海もいたし、二人の両親もそこにいて、笑顔で出迎えてくれた。

 予想したとおり両親も背が高かった。お母さんと羽海は一七〇センチくらい、お父さんと和馬君は一八五センチはありそうだ。

 お母さんはキッチンに立ち、お父さんはすでに料理がたくさん並べられた四角いテーブルの席についていた。

 「奈津さんでよかったわよね。いらっしゃい。今日は無理言って来てもらってごめんなさいね」

 「いえ。はじめまして、筒井奈津です……」

 今日はお招きいただきありがとうございます。

 ここまで言おうと思ってたのに言葉が出なかった。最初からこれでは先が思いやられるなと心の中で苦笑いした。

 すぐに和馬君のお母さんもテーブルの席に着いた。私と和馬君が並んで座り、その正面にお母さんと羽海が座る。お父さんは私から見て右側の席に腰掛けている。

 私から見て左側には大きな窓があり庭木が目に入った。赤い実をつけている木はピラカンサだろうか。私の好きな木だった。

 料理のメインはいかにも軟らかく高そうな肉を使ったステーキがメイン。私は甘いものが好きでそんなに肉は好きではなかったけど、これならいくらでも食べられるなと思った。

 でも今日はただ食べに来たわけではなく、昔の思い出を語るときのような静かな口調で和馬君のお母さんに話しかけられた。

 「奈津さんは和馬と同じ学校で、しかもクラスメートなんですってね。和馬は奈津さんからどんなふうに見えてるのかしら?」

 その質問を聞いて、まだ半信半疑なんだなって思った。

 つまり、どうして和馬君と恋人になったのかとストレートに聞かなかったのは、

 〈恋人? ただの友達ですよ〉

 などと身も蓋もなく私に否定されることを警戒したからだろう。

 緘黙の和馬君に恋人ができたと聞いてもにわかには信じられないのだ。それは和馬君のお母さんが和馬君の素晴らしさを知らないからじゃない。それだけ緘黙の和馬君が今まで受けてきた差別が過酷だったということだ。

 和馬君だけでなく彼の家族たちも世間の冷たさとずっと闘ってきた。彼と同じくらい彼の家族も愛したいと思った。そして無力な私だけど、私のすべてを賭けて彼の支えになりたいと願った。

 彼の家族がみんな聞いてて恥ずかしいけど、思ってることをオブラートにくるんだりせず、そのまま伝えることにした。

 「愛してるなんて言葉では足りないくらい和馬君を愛してます。もしも世界から私だけ消えたとしても、それで彼が声に出して話せるようになるなら、私はそれで満足です」

 四人ともキョトンとしていた。いくらかの沈黙ののち、初めにその沈黙を破った――声を出したわけじゃないけど――のは和馬君だった。


 奈津さんがいなくなるくらいなら

 僕は死ぬまで話せないままでいい


 優しい君のことだから、きっとそう言ってくれると思った。さっきの私の言葉に嘘偽りはない。私は君を愛してる。

 中学のとき、君は私ではない誰かのことを「好き」と声に出して言った。私はたぶん、私の知らないその彼女に嫉妬している。次に君が口から声を出すときは、私の目の前で同じ言葉をかけてほしい。君と関わるようになってまだ三日しか経っていないのに、私はもうどうしようもないくらい君を好きになっていた。

 一方、和馬君の両親は彼の書いたスケッチブックの文言を読んで、私の発言を聞いたとき以上にショックを受けていた。

 それはそうだ。おそらく彼らは和馬君が話せるようになるように、これまであらゆる努力を試みてきたはずだ。和馬君がその苦労を知らないわけないのに、私という恋人がいなくなるくらいなら一生緘黙のままでいいとまで言い放った。

 親としてはショックだろう。でもこれで、私たちが紛れもなく恋人同士であることを、誰も否定できなくなったことは確かだ。

 「お姉さん、本当に大胆だよね。知ってたけど……」

 私たちのキスを見ていたときのように、羽海が目を丸くしている。そんなに驚かなくていいよ。いつかあなたも今の私と同じくらい熱い恋をきっとするのだから。

 和馬君のお父さんはまだ目を白黒させていたけど、この場でまだ口を利いてない者は和馬君と自分だけだと気づいたように慌てて口を開いた。

 「奈津さん、うちの和馬は口が利けないけど、それは本当に気にならないの?」

 「実は私、友達だと思ってた子たちに今無視されてます。私と口を利こうとしない人たちとはコミュニケーションの取りようがないけど、口が利けないだけならいろんな方法でコミュニケーションは取れるから気になりません」

 和馬君のお父さんは私のその答えを聞いて安心したらしく、その後は質問してこなかった。このあとはもっぱら和馬君のお母さんが私を質問攻めにした。

 「そうは言っても、和馬からは高校に入って友達どころか話しかけてくれる人も一人もいないってずっと聞いてたから、今になって同級生の恋人ができたと言われてもピンと来ないのよね。奈津さんが和馬と交際を始めたのはけっこう最近の話なんじゃないの?」

 〈けっこう最近〉どころか私が和馬君と恋人同士になったのは昨日の話。その前から好きで好きでしょうがなかったのは確かだし、私たちの想いの強さは恋人になってどれだけ時間が経ったかという期間の長さでは測れないと思うけど、お母さんたちがそれを知らないならあえて伝える必要もなさそうだ。

 「和馬君と私は違う中学で今年初めて同じクラスになりました。クラスメートになってからもずっと話しかけたことはなかったです。もっと早く彼のよさを知ってればって心から思ってます」

 そうであるなら私が悠樹と出会い傷つけられることもなかった。それだけはもう悔やんでも悔やみきれない。

 「奈津さん、そうは言うけど初めての恋で舞い上がってるだけじゃないかしら? あなたなら口の利ける普通の男の子と普通につきあうこともできると思うけど……」

 「すいません。和馬君は私の初恋の相手ではないです。ほかにおつきあいしてた男の子もいます」

 悠樹は〈普通〉の男の子ではなかったが、それは言わなかった。

 あれから三日経つのにまだ胸が痛む。心が、という意味だけじゃない。


 またフラッシュバックが始まっていた。二人ともまだ裸のまま。三度目の射精を終えたばかりの悠樹が笑いながら、呆然と座り込む私に言った。

 「もう一滴も出ねえよ。奈津がおれのものになったって印を奈津の体にほかの方法でもつけたいけど、いいか?」

 「ほかの方法って?」

 「キスマークさ」

 あれだけひどい目に遭ったのにそのとき私はまだ悠樹のことが好きだったし、好きだから嫌なことをされても我慢しなきゃとも思っていたし、すでに体を許してしまったあとだから拒絶する気持ちが薄れ歯止めが利かなくなっていた。

 「それくらいならいいよ」

 「言ったな。今から嫌だと言ってももう遅いぜ」

 悠樹はさっきまでさんざん舐め回していた私の胸の膨らみにまたかじりついた。比喩じゃない。文字通り噛みついた。

 「痛い!」

 それはキスじゃないと思ったけど、馬鹿な私はやめてとは言えなかった。何度も痛いと伝えたけど、悠樹は噛み続けた。悠樹はご丁寧にもう片方の乳房も噛んだ。終わってから見ると胸にくっきりと噛み跡が二つ残っていた。しかも内出血を起こして赤くなっていた。

 あれから三日経つのに、噛み跡も痛みもまだ消えていない――


 「奈津さん」

 と和馬君のお母さんに呼びかけられてわれに返った。

 「は、はい……」

 「それはほかの男の子との恋愛がうまくいかなかったから、うちの和馬で妥協したということかしら?」

 「妥協なんてしてないし、したくもないです。私は高望みして和馬君を好きになったんです。先に好きだと伝えたのも私です。和馬君が私を振ることはあっても、私が和馬君を振ることは絶対にないです!」

 「和馬のことそんなに好きになってくれてありがとう」

 私を出迎えてくれたあとずっと厳しかった和馬君のお母さんの顔つきがやっと穏やかになった。でも同時にため息も漏れた。

 「和馬と交際してること、奈津さんのご家族は知ってるの?」

 「まだ言ってないけど反対はされないと思います。両親は前から私の思ったとおりに生きて行けばいいって言ってくれてますから」

 「世の中そんなに簡単じゃないのよ。もしご家族が反対したらご家族の意向を尊重して上げてほしいの。私たちはそれで奈津さんを恨んだりしないから」

 「なんでそんな悲しいことを言うんですか」

 「緘黙の子が緘黙じゃない子とつきあったという話は過去にいくらでもあったのよ。でも相手の家族に反対されてあきらめたケースがほとんどで、もちろん相手の親を説得して渋々了承させておつきあいが続いたケースもあるにはあったけど、そういうケースも結局最後には別れることになった。それが現実なの」

 私の家族は違うとは言い切れなかった。でも違えばいいなとは心から思う。

 今になって、和馬君のお母さんが吹っ切れたように大きな声を出した。

 「でもよかったわ。昨日和馬に恋人ができたと聞いてからずっと疑ってたから」

 「何をですか?」

 「うぶな和馬を騙して変な宗教に勧誘したり高い壷を買わせたりしようとしてるんじゃないかって。そうじゃなければ、和馬よりずっと重い障害を持ってる相手なんじゃないかって。それが心配で、一刻も早く奈津さんに会って確かめたくなったというわけ。ごめんなさいね」

 緘黙の子を持ち今まで障害者差別と闘ってきたはずの和馬の母が、わが子の恋人がわが子より重い障害持ちだったら困ると言うのを聞いて、世の中の不条理というものを改めて思い知らされたような気がした。


 和馬君の家族との食事のあと二階にある和馬君の部屋にお邪魔した。六畳間の小さな和室。

 男の子の部屋に来るのは二回目。前回はクリスマスイブの日に行った悠樹の部屋。不自然なくらい何もないさっぱりした部屋だった。おそらく私を連れ込むために直前に大掃除でもやったのだろう。

 悠樹の部屋はフローリングで和馬君の部屋は畳の和室という違いはあるけど、何もなくてさっぱりしているという点では同じだった。

 一瞬胸が苦しくなったけど、フラッシュバックは起こらなかった。悠樹は部屋に入るなり私にキスして服を脱がせていった。和馬君は座布団を出してくれて、何を飲みたいか聞いただけ。根本的に違う人種なのに、悠樹のときと同じようなことをされるのかと少しでも疑った自分が恥ずかしくなった。

 「和馬君、私、今日うまく話せたかな?」


 大丈夫

 三人とも奈津さんを気に入ったみたいだよ

 泣き出しそうに見えたときもあったけど、本当によく頑張ったと思うよ


 「頑張ったっていうなら頭をなでてほしいな」

 言われたとおり和馬君は私の頭を優しくなでてくれた。こんなにぜいたくなご褒美はないと思った。頭をなでてもらいながら、話を続ける。


 「そう言ってもらえて安心した。なんか勢いで変なこといっぱい言っちゃった気がしたから」


 変なこと?

 聞いててうれしいことばかりだったよ

 ただ一つだけ

 僕が奈津さんを振ることはあっても逆は絶対にないって言ってたけど、僕が君を振ることも絶対にないからね


 思わずふうっと息をついた。

 和馬君はときどき女たらししか言わないようなセリフを無意識に言う。女たらしが女たらしなことを言うのは普通だけど、彼のような真面目な人からキャラに合わない口説き文句が出てくると、私はたまらなくなる。

 抱きしめてもいいですか? ううん、何も言わずに抱きしめさせてください!

 突然私に抱きしめられても、彼は私を拒絶しなかった。私がそうしたように私の背中に腕を回して抱きしめてくれた。恋人の特権だ。友達のままならこんなことできない。でもすぐに私は彼から離れた。

 古い家の和室だから廊下との仕切りはふすま一枚。狭い部屋で私たちのいる場所が部屋の入口付近だから手を伸ばしただけで簡単に開けられそうだなと思ったら、いつのまにかそのふすまが開けられていて、困った顔をしている和馬君のお母さんと目が合ったからだ。

 「ごめんなさい。奈津さんがパンケーキが好きだって和馬から聞いてたから焼いてきたんだけど……」

 「ありがとうございます。いただきます」

 お母さんはおいしそうなパンケーキが二つ載った大きなお皿を畳の上に置いてふすまを閉めて、そそくさと階段を下りていった。

 彼のお母さんがいなくなってから、ふすまを開けたり閉めたりしてみた。ほとんど音がしない。もちろんふすまだから鍵もかけられない。彼の家族は私たちが恋人同士だと知ってるわけだし、キスやハグくらいならまだ見られてもいいけど、この部屋で和馬君とそれ以上のことをするのは危険だと知った。

 「和馬君の昔の写真見たいな」

 パンケーキを食べながらそう言うと、立ち上がって本棚から大きなアルバムを持ってきてくれた。私が和馬君を知ったのは同じクラスになった今年の四月。アルバムの中には私の知らない和馬君がたくさん収められていた。今と同じで話せなかったはずなのに、どの写真の表情も輝いて見えた。

 私の親も私をかわいがってくれたけど、和馬君も大切に育てられたのだなと実感できるアルバムだった。ただ写真が多いからそう思ったわけじゃない。

 たとえば彼はかつて空手を習っていたようで、大会でいい成績を残して表彰される場面の写真も多かったけど、負けて悔しがってる場面の写真も何枚か収められていた。子どもの成長という点では負けて悔しがってる姿だって勝って笑ってる姿と同じくらい価値がある、と写真を撮った彼の両親は知っているのだ。

 「和馬君、背が高くて立派な体格してると思ったら、空手で鍛えてたんだね。まだ続けてるの?」

 和馬君は照れたようにうなずいた。

 「イブの日、私をひどい目に遭わせたあいつは君にもさんざんひどいこと言ってたよね。あのときやっつけちゃえばよかったのに」


 ケンカはしないことにしてる

 中学のとき僕をからかってくる人を空手で倒したことがある

 そうしたら彼は親の敵みたいに僕を憎むようになった

 誰かに憎まれるくらいなら、馬鹿にされてからかわれる方がマシだと思った


 「君が馬鹿にされてからかわれるのを見るのは嫌だ!」


 これからは嫌なことされたら嫌だと伝えるよ

 ケンカはなるべくしたくないけどね


 やっぱり好きだと思った。ふすまが閉まってることを確認して、和馬君にキスをした。今までで一番長いキスをした。

 「そばに君の家族がいる今は無理だけど、もし君が私を求めるなら――つまりセックスしたいというなら私は拒まないからね」

 でも、という表情。セックスしたせいで君は苦しんでるんじゃないの? 目でそう訴えている。

 「私が苦しんだのは優しさや思いやりのかけらもないセックスをされたから。まだ誰にもさわらせたことのなかった私の体を性欲解消のおもちゃとして使われただけだったから。あのとき受けた傷は一生消えないと思う。消すことができないならせめて君との幸せな記憶でその悲しい記憶の全部を塗りつぶしてほしいんだ。私は君に求められても断らないとさっき言ったけど、それは違うかもしれない。本当は私の方が君を求めてるんだ」

 今度は和馬君の方からキスしてきた。そして何かを私に求めるような表情をした。よく分からないまま私がうなずくと、キスしながら服の上から胸の辺りをさわられた。偶然かと思ったけど、何度もさわられたから故意だろう。さっきの表情は〈さわってもいい?〉という問いかけだったんだなと気づいた。ほかの男の子なら口に出して言うところだけど、緘黙の彼にはそれができない。

 羽海に言われるまでもなく和馬君は普通の男の子だ。けがれを知らない天使なんかではないし、私がそんなものを彼に求めているわけでもない。

 私がつらいときそばにいてくれて、ときどきはこんな私でも彼の力になれる。一方通行ではないそういう対等の関係を彼と築きたかった。

 ただ、さわられるだけならいいけど彼の息がだんだん荒くなってきてさすがに不安になった。口だけ離して釘を刺した。

 「君にならいくらさわられてもいいけど、今はさわるだけで満足できなくなったらダメだよ。いくらふすまが閉まってたって、もしふすまの向こうに誰かいたら全部聞かれちゃうんだからね!」

 本当は違う。君とイチャイチャしてるのを君の家族に聞かれたら困る、なんてのは全然たいした問題じゃない。

 まだ私の両方の胸の膨らみには悠樹がつけた噛み跡が生々しく残っている。君が私を求める気持ちは正直とてもうれしいけど、あの噛み跡だけはどうしても君に見られるわけにはいかなかった。私が何も言わなくても、君はその噛み跡が誰にどうやってつけられたものか瞬時に理解するだろう。

 毎日着替えやお風呂のたびに嫌でもそれは私の目に入る。そのたびに私は消えてしまいたいくらい惨めな気持ちになる。自分のものになった印をつけたいという理由で悠樹は私の胸を噛んだけど、本当はそれだけじゃなかったんじゃないか? 私を惨めな気持ちにさせること自体が一番の目的だったのかもしれない。もうあれから何日も経つのに毎日何度も目にしてる私がいまだに惨めな気持ちにさせられている。もしこれを和馬君が見てしまったら? 彼は私に心配かけまいときっと表情には出さない。でも私以上にショックを受けるのは間違いない。もしかしたらそのせいで緘黙が悪化してしまうんじゃないかと思えるくらいに――

 噛まれた跡がどれだけ痛くたって、それはいいんだ。でも胸の噛み跡は私が悠樹のものになった印だとあの男は言った。あのイブの日に私が悠樹にされたことや言われたことは、その日のうちに和馬君に愚痴として全部話してある。おれのものになった印だと言って私の胸に二つの醜い歯形をつけられたことも、君はすでに知っている。優しい君は聞いていたそれを実際目にしたとしても、〈大丈夫?〉ときっと私を気遣ってくれるだろう。

 でもそんな状況は私が耐えられない。私が悠樹に三枚目の画像の撮影を許可していたら、三枚目は真っ白な膨らみに刻まれたばかりの赤い噛み跡と苦痛に歪む私の顔が同時に収まるアングルで撮られていたんじゃないだろうか? 確かにそれは先に撮られた二枚とは違い悠樹との行為の最中の姿を写したものじゃない。でもそれが撮影されていたら、私が悠樹に服従する象徴とも言える一枚になっていたのは間違いない。(もちろん撮られた二枚なら君に見られてもいいと言ってるわけじゃない。念のため)

 写真でも嫌なのに噛み跡の実物を見られる? かつて私がほかの男――それもサディスティックで最低なヤリモク男――の所有物であった証を愛する君に見られてしまうなんて! 恥ずかしくて申し訳なくてそれから先、私は君の目を見て話すことができるだろうか?

 君が私の裸を見たいなら見たいだけ見せてあげたいと思う。でも胸の傷がなくなるまで待ってほしい。別れたあとまでこんな惨めな気持ちにさせられるなんて……。改めて悠樹に対する憎しみが込み上げてきた。

 同時に、だいじな体をあんな男に差し出してしまったという自己嫌悪と取り返しのつかないことをしてしまったという後悔で胸がいっぱいになった。この二つの気持ちはきっとこれからも何かにつけて私を苦しめ続けるに違いない。それとも、生きてればいつかその二つの気持ちが私の中から消えるときが来るのだろうか?

 私を求める和馬君の気持ちにブレーキをかけるために、さりげなく手を伸ばして実際にふすまを開けてみた――


 ら、しゃがんで聞き耳を立てている羽海がいた。さっきの和馬君のおかあさんみたいにばつの悪い顔をして。彼の手は私の首の後ろと、もう片方の手はまだ私の胸の上にあった。


 羽海を部屋に入れた。ふすまは開けたままにしておいた。閉めても丸聞こえならむしろ開け放しておいた方が安全だ。

 「盗み聞きするつもりはなかったんだけど……」

 羽海は言い訳したけど、そんなことより羽海はいつからそこにいたのだろう? そのことばかり気になっていた。

 「さっきお姉さんにあとで二人で話したいってお願いしたけど、とりあえずそれはもう必要なくなったからいいです」

 「何か聞きたいことあったんじゃないの?」

 「アニキのほかにおつきあいしてた人がいたのか聞きたかった。それはさっきお母さんが聞いてたからもう済んだ。それで、もしほかにおつきあいしてた人がいたなら、その人とはどこまでの関係だったのか知りたかった。もしセックスまでしてたら嫌だなって思って。アニキはまだなんだからさ」

 悠樹とのことを聞かれてしまったんだなと思った。あんたなんてアニキにふさわしくない、と責められるのかと思ったら違った。

 「お姉さん今までいろいろあったみたいだけど、アニキ本人がそれを承知でつきあってるなら、妹のあたしがなんか言うのはおかしいよね。さっき聞いたことはあたしの胸にしまっとくよ。お母さんたちにも言わない。お姉さんが浮気したとか、恋愛したせいでアニキが行きたい大学に行けなくなったとか、そんなことになったら許さないけどね。まあ、いろいろあると思うけど仲良くやってください。それにしても――」

 羽海の矛先はここから兄の和馬君に移った。

 「いつふすまを開けられるか分からないのに、閉めてたって音は丸聞こえなのに、そんな状況で女の子の胸をさわりまくってたんだよね? 一生童貞かもって心配してたアニキが実はただのむっつりスケベだったなんて思わなかった」

「和馬君は口が利けないだけであとは普通の男の子なんだよ」

 昨日、羽海に言われたセリフをそのまま返した。羽海は苦笑いして、

 「ごゆっくり」

 と声をかけて部屋から出て行った。


 羽海がいなくなってから、中学の卒業アルバムも持ってきてもらった。

 和馬君のクラスの個人顔写真のページを開く。でもその子が和馬君と同じクラスだったのは三年生のときじゃないかもしれない。とりあえず三年生の和馬君のクラスの個人顔写真の中に沙羅の顔があって嫌な気分になった。

 「君の初恋の人ってこの卒アルのどこかにいるんだよね? 教えて」


 和馬君は少し考えてから、スケッチブックを手に持った。


 教えられない

 ごめんなさい


 「そうなんだ。君のだいじな思い出だもんね。デリカシーないお願いしちゃってごめんね」

 作り笑いして謝ったけど、本当はショックだった。和馬君の初恋の人を知ることができなかったことがショックだったわけじゃない。私の願いを和馬君に拒絶されたことがショックだった。彼に拒絶されたのは間違いなくこれが初めてだった。

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