第三章 好き


 その日の夜は悪夢を見なかった。いい夢を見たわけでもない。何かの夢を見てたのは確かだけど、目を覚ましたら忘れてしまった。

 私は着実に回復している。前に進めている。口が利けなくても頑張ってる本郷君を見ていたら、立ち止まってなんていられないと思った。

 早起きできたから久々に料理なんて作ってみた。料理といってもただのサンドイッチ。手が込んでない方が本郷君に食べてもらいやすいかなって考えて。

 お母さんがキッチンに入ってきた。

 「あら。私たちの朝ごはん?」

 「違うよ。自分の昼ごはん。夕方まで図書館で勉強しようと思って」

 「奈津が勉強? だから朝から土砂降りなのね」

 土砂降り? それは気がつかなかった。本郷君といっしょに昨日の公園で食べようと思ったけど、雨じゃ無理か……?


 開館時間に合わせて図書館に入った。それから十分後に本郷君は自習室に入ってきた。


 早いね


 「カンちゃんに会いたくて」


 えっ


 「君といっしょにいると勉強がはかどる、という意味だから。勘違いしないでね」


 そうだよね

 でもちょっとがっかりした


 がっかりしたと言うけど、実際に私が告白でもしようものなら、うれしいけどそれは困るな、という感じで途端に距離を置かれてしまうだろう。

 勘違いしてはいけない! 私は心の中で何度も自分に言い聞かせた。

 「今日もお昼はコンビニで買うの?」


 うん


 「雨降ってるけど食べる場所あるの?」


 二階に飲食可の休憩所がある


 「自分のお昼ごはんにサンドイッチを作ってきたのだけど、作りすぎちゃったから、もしよかったらいっしょに食べてくれないかな?」


 いいの?

 喜んで

 それを楽しみに勉強がんばるよ


 「たいしたもんじゃないからそんなに期待しないで……」


 高校で使ってる教科書しか持ってこなかった昨日と違って、今日はまともな勉強道具を持ってきた。赤本じゃないけど、英語・国語・数学、それぞれ受験対策にも使える入試レベルの問題集。勉強しない私を見かねて去年親が買ってきて、当然のように今までほったらかしになっていた三冊。


 その問題集、僕も持ってる

 いい問題集だよね


 「そうだよね。私も気に入ってるんだ」

 中身なんて知らないくせに嘘をついてしまった。なんで今さら本郷君相手に見栄を張りたくなるのかと考えて、やっぱり彼のことが好きだからなんだろうなという結論になった。

 この前大失敗したばかりなのに懲りないな、私は……。恋愛なんて私には早すぎたと反省してからまだ三日も経ってない。

 今度こそ反省して、私は勉強に集中した。ときどき隣に座る本郷君のことが気になったけど、もう当分恋なんてしないと自分に言い聞かせて、なんとか邪念を振り払い続けているうちにお昼になってお腹がすいてきた。

 「なんかお腹がすいてきた」


 そういえば僕もお腹すいた


 連れ立って自習室から出るとき振り返ると、広い部屋にいるのは私たち以外六人だけだった。男の子五人と女の子一人。

 ほかに誰がいるか今まで全然気にならなかったということは、それなりに集中して勉強できたということだろう。隣に座る本郷君の横顔をちらちらのぞいてしまったことはなかったことにしてる調子のいい私だった。


 自習室に窓がなかったから気づかなかったけど、外の雨はもうやんでいた。

 外で食べたいなって思ったけど、なんで? と聞かれてうまく説明できる自信がなかった。

 自習室は三階、休憩所は二階。本郷君のあとについて階段を降りていく。この階段があと百階分あればいいのにと思った。どこまでも君のあとをついていきたかったから。

 休憩所といっても部屋ではなく、オープンスペースだった。二十人ほど座れる椅子とテーブルが配置してあったけど、自習室と違ってこちらは食事する人たちでいっぱいで、空いてる椅子は一つもなかった。


 外で食べようか?


 本郷君の申し出を私はもちろん快く了承した。

 雨はやんだばかりらしい。昨日は何組かの親子連れがいたけど、今日は誰一人いなかった。そしてベンチは雨に濡れてびしょ濡れだった。


 僕はいいけど筒井さんが濡れちゃうね


 「私だって別にいいよ」

 私がさっさと座ると、本郷君は少し驚いた顔をして隣に座った。すぐにスカートが濡れて私の太ももの裏の辺りを冷たくさせた。でもそこに座ったことに少しも後悔しなかった。

 大きなタッパーのフタを開けると、ミニトマトの赤、玉子の黄色、キューリの緑……、色とりどりの食材の色が飛び込んできた。実際は量だけ三人前くらいあるけど、結局は玉子サンドと野菜サンドとツナサンドの三種類しかない手抜き料理。

 本郷君とはただの友達。手の込んだ食事を作ってきて、私が本郷君と恋人になりたがってると誤解させるわけにはいかない。

 いや誤解ではないな。つまり、気づかせるわけにはいかない、ということ――

 本郷君はゆっくりと、でもいかにもおいしそうに食べてくれた。


 おいしい


 「そう言ってもらえると、作って来たかいがあったよ」


 本当においしい


 いつのまにか私は自分が食べるのを忘れて、彼が食べるのをただ見つめていた。


 どうしたの?


 「ううん。君があんまりおいしそうに食べるから、つい……。私はそんなに食欲ないから全部食べてもいいよ」


 まだ落ち込んでるんだね


 「そういうわけじゃなくて、今はただ自分が食べるより君が食べるのを見てる方が元気な気持ちになれるだけなんだ」


 それで君が元気になれるならいくらでも食べてみせるよ


 そういえば昨日も私の分のおにぎりを彼に食べさせたのだった。私はよっぽど彼の食べる姿を見るのが好きらしい。

 「カンちゃんが私を元気にしたいというなら、一つお願いがあるのだけど」


 言ってみて


 「私は、みんなに知られたらとても生きていられないような秘密を全部君に話してしまったよね。君と話すとき私ばかり恥ずかしい気持ちになるのは不公平だと思う。だから君も私に人に話せないような恥ずかしい秘密を教えてほしい」

 どう考えても無茶振りだけど、優しい本郷君は私の無茶振りをかわそうとするのでなく、正面から応えてくれた。


 中学のときの話だけどいい?


 「いいよ。書いてみて」


 本郷君はいつもスケッチブックに書くときに使ってるマジックをペンに持ち換えて何やら長々と書き始めた。書き終わるまで五分ほどかかった。こんな余計な面倒をかけて悪いことしたなと思った。渡されたスケッチブックの細かい字面は彼らしく几帳面さを感じさせると思ったけど、よく見ると全体的に丸っこい字が多く微笑ましい気分になった。


 筒井さんは僕と違う中学だったから知らないだろうけど、僕は一度だけ学校で言葉を話せたことがあったんだ。

 君は僕が高校に入って初めてできた友達だけど、実は中学でも一人だけ友達がいた。でも分からない。僕がそう思ってるだけで彼女はそう思ってなかったかもしれない。

 彼女は今の筒井さんみたいに毎日明るく僕に話しかけてきてくれた。また、僕がクラスメートにからまれてるのを見れば必ず止めてくれた。

 ある日、いつも僕をからかってくる男子たちがまた近寄ってきた。

 「カンちゃん、おまえいつも女に助けられて恥ずかしくならねえの? おまえ、あいつのことどう思ってるんだよ」

 何を思ったってどうせ声になることはない。僕は安心して思ったことを心の中で言葉にした。

 「好き」

 なぜかそのときに限って、僕の思いは言葉になって声となって口から出てしまった。

 「おい、今、カンちゃんが〈好き〉って言ったぜ」

 「確かに言った!」

 「おいみんな! カンちゃんがしゃべったぞ!」

 教室中が大騒ぎになった。

 「おれは聞いてないからもう一度しゃべれ!」

 って大勢に責められた。

 僕がしゃべった言葉を彼女に伝えに行く人もいた。

 その一件のせいか、彼女は二度と僕に話しかけてこなかった。

 そうなってから気づいたけど、僕はたぶん彼女に恋してたんだと思う。

 それから僕が言葉を話せたことは一度もない。もう誰も僕と友達になってくれないんじゃないか。君と会うまでそんなふうにすっかりあきらめていた。

 誰にも話したことない僕の初恋の話でした。

 少しは君を元気にすることができたかな?


 「すごく元気になった。それは君の話が恥ずかしい話だったからじゃない。君がしたような美しい恋をいつか私もしてみたいと思ったからだよ」

 違う! と思った。

 本当は、そんな美しい失恋をした君に愛されたいと思ったからだ。もちろん無理だと分かってる。分かってるから口にはしないけど、そのとき私は溢れる感情を抑えきれなくて身悶えするほど狂おしかった。

 「スケッチブックのこのページ、もらってもいいかな」

 本郷君は首を横に振った。

 「お願い! もちろん誰にも見せない。心が弱ってるときそれを見ると、そのときどんなにつらくても立ち直れそうな気がするんだ。だから――」

 君は仕方ないなという表情になってガリガリとそのページを切り離して、ほらっという感じで私に手渡した。

 「ありがとう」

 君はうなずきもせず首を振りもせず、ただ照れ隠しのようにまたサンドイッチを食べ始めた。

 君が私を好きになることはないだろうけど、何があっても私は友達として絶対に君を見捨てたりしない! 君から受け取った紙で流れる涙を隠しながら、私は心に固く誓った。

 君のことを考えることに夢中で、私たちの方に近づいてくる人がいることに全然気づかなかった。

 背後から迫る人の気配に気づいたとき弟の雄太だと思った。重症のシスコンだから、私といっしょにいる本郷君に怒ってるはずだ。面倒なことになったと動揺した。

 でも振り向くとそこにいたのは雄太ではなかった。私たちと同年代の女の子。背は私より高い。ツインテールの髪型がかわいらしい印象を与えるけど、頬を膨らませてなぜかめちゃくちゃ怒ってるから、かわいらしい感じが台無しになっている。怒れる美少女。そういうキャラが好きな男子も意外といるのかもしれない。

 まさか本郷君の初恋の女の子? 話を聞いたばかりで話に出てきた人物が現れるなんて、そんな偶然がありえるのだろうか?

 女の子がベンチの前に立ち止まる。機嫌悪そうに腕組みして爪先で地面を蹴った。危険を感じて思わず立ち上がる。

 「あんた誰?」

 彼女は本郷君ではなく明らかに私に質問した。初対面のあなたに〈あんた〉呼ばわりされる筋合いはないと思うんですけど。

 本郷君がまた何か書き出した。


 態度が悪くてごめん

 妹の羽海なんだ


 さっき心の中で思ったことを口にしなくてよかったと胸をなで下ろした。それにしても、妹さんは雄太と同じ中二だと聞いている。それなのに私より背が高い。だから同い年なのかなって勘違いした。兄である本郷君もクラスで一番背が高いくらいだからきっと遺伝なのだろう。

 「羽海さん、こんにちは。お兄さんにはいつも世話になってます」

 「で、あんた。アニキのなんなの?」

 この反応はシスコンの雄太と同じ匂いがするな。つまり羽海は重症のブラコンなんじゃないか。大好きな兄をどこの馬の骨かも分からない私に取られそうだと思い込んで、怒り狂っている。そうとしか考えられない。

 「たぶん、羽海さんは誤解してると思う。私はカンちゃんの恋人なんかじゃなくて、ただの友達だから」

 「友達?」

 羽海さんが笑い出した。

 「あんたのどこがアニキの友達なんだよ? さっさといなくなって、二度とアニキの前に顔を出すな!」

 さすがに腹が立った。ちょっと普通じゃない子相手に怒るのは大人げないと思って接してたけど、本郷君と友達になったことを否定されるのはどうしても嫌だった。

 「友達は友達だよ。それともカンちゃんに友達がいたらダメだとでも言うの?」

 「そうだよ。アニキに友達なんていない方がいいんだよ。中学のときも一人そういう子がいたよね。いろいろ世話してくれたみたいだけど、それは対等の友達だからというより、しゃべらないアニキを助ける自分自身がかわいかっただけでさ。そのうちその子に彼氏ができて興味がそっちばっかになったら、アニキに近づいてもこなくなった。そのときのアニキの落ち込みようと言ったら……。成績が落ちて、高校受験も第一志望の学校をあきらめて、ランクを落としたくらいだった。もうあんな思いをアニキにしてほしくないんだ。あんたもその子と同じ人種に見える。ただ図書館に勉強しに行くだけにしては、最近のアニキはずいぶん浮かれて見えた。中学時代友達ごっこしてた頃と同じくらいにね。だからもしかしてって胸騒ぎしてあとをつけてみたんだ。案の定、また前の子とは別の自称お友達がアニキにくっついてた。アニキのこと全然分かってないくせにアニキに近づくな! 分かったらさっさとどっかに行ってくれない?」

 なるほど。羽海はただのブラコンだったわけでなく、彼女なりに本郷君のことを真剣に考えて本郷君のそばから私を排除しようとしていたのだった。

 「羽海さんは誤解してる。確かに私も、カンちゃんが困ってたら助けたいって思ってる。でもそれは困ってる人を助ける私はいい人だって思いたいからじゃなくて、今まで助けてもらうばかりだったから、友達としてちょっとはお返しできたらいいなって思ってるからなんだ」

 「だからなんにも分かってない人にそばにいられても迷惑なんだ。どうせいなくなるなら、今いなくなってくれないかな?」

 「確かに私はカンちゃんのことほとんど知らない。でも私がカンちゃんのこと知らないように、あなたも私のこと何も知らないよね。どうせいなくなる、とか決めつけられたくないんだけど」

 「悪い人ではないみたいだけど、あんたが鈍感で無神経な人間ってのは分かるよ。鈍感で無神経な人間は相手のこと考えず、いつか自分の都合でいなくなる。中学のときのお友達と同じようにね」

 「私のどこが鈍感で無神経だというの!?」

 脳裏に悠樹の顔が浮かんだ。私が嫌がってるのに無視して、私をさんざんはずかしめ傷つけた鈍感で無神経な男。私があの男と同類のクズだとでも言うのか?

 羽海が声を出さずに笑った。その表情にも覚えがある。私を好き放題にいたぶっているときに悠樹が浮かべていた笑みとよく似た、私の尊厳を認めない、人を見くだしきったような笑み――

 「あんた、アニキのことさっきからカンちゃんって呼んでるけどどうして?」

 「男子たちがそう呼んでたから」

 「アニキの名前は和馬。カンちゃんってのはアニキのカンモクを面白がってつけた呼び名だって知らないの?」

 カンモクと言われてもなんのことか分からなかった。急いでスマホを取り出して調べてみたら、それらしいものがすぐに見つかった。


 緘黙(かんもく)とは、言語能力があるにもかかわらず話せなくなってしまうことを指す。


 ほかにもいくつかのサイトで調べてみた。緘黙は病気より障害というくくりで分類されることが多いようだ。

 ということは知らなかったとはいえ、私は本郷君の障害をからかうような呼び名でずっと彼を呼んでいたことになる。

 悪気はなかった。でも私は羽海の言うとおりの人間だった。鈍感で無神経。ある意味、悠樹に負けていない。

 「どうして教えてくれなかったの?」


 病気のことを知れば君が離れていくと思って言えなかった


 「離れないよ。君が緘黙だから何だって言うの? 私は君が宇宙から来た危険なエイリアンだったって聞かされても、友達をやめる気はないよ。そんなことより、君が緘黙だと知らずに君の障害をからかうような呼び名で呼んで、ずっと君を傷つけていたことが何よりつらい」


 大丈夫

 そう呼ばれるのは慣れてるから傷ついてない


 本郷君本人に許されたけど、よかったとは思えなかった。むしろ傷ついたって責めてほしかった。私が二度と君に対して鈍感で無神経な言動をしないように。

 「アニキが許してくれたからって、アニキの優しさに甘えないでよね」

 「分かってる。私が全部間違ってた。ごめんなさい」

 「謝るようなことをしたって自覚があるなら今すぐ立ち去って、もう二度とアニキの前に姿を見せないで! 鈍感で無神経で人の心の痛みが分からないやつにアニキのそばにいる資格なんてないんだからね!」

 すうっと気が遠くなり立っていられなくなって、ベンチの上に座り込んだ。また過呼吸の発作が始まっていた。でもこの前ほど苦しくなかった。過呼吸になって苦しむ私の肉体を、少し離れた場所から私の魂が他人事のようにぼんやり眺めている。そんな感じ。

 「なんでこれくらい言われただけで過呼吸になるの? もしかしてこの人メンヘラ?」

 羽海がそう言う声を聞いた気がしたけど、いつのまにかいなくなっていた。本郷君が私の背中をずっとさすってくれている。

 羽海の言うとおり、私も本郷君のもとからいなくなった方がいいのだろうか? それは嫌だ。

 君も私も一人ぼっち。一人ぼっち同士、傷をなめあって生きていきたいわけじゃない。私が君に救われたように、私がそばにいることで少しでも君の心が強くなってくれれば。

 私の望みは、そのことだけだ。


 スケッチブックの最後のページに、


 鈍感で無神経で人の心の痛みが分からないやつとは羽海のことだ!


 と書いてあって、羽海がいなくなった理由が分かった。

 過呼吸が収まって、本郷君には先に自習室に戻ってもらった。


 大丈夫?


 彼にそう心配されるのは何回目だろう?

 「大丈夫。あとで行くよ」

 一人で調べたいことがあった。もちろん緘黙について。

 ここは図書館。調べ物するにはちょうどよかった。

 緘黙の本は何冊もあった。

 当事者の体験談が一番心を打った。


 話したいのに話せない。

 甘えてると言われるけど、そうじゃない。

 話せないからといって、無視しないでほしい――


 きっと本郷君にも叫びたいけど叫べないことがたくさんあるはずだ。

 私はその叫びを受け止め続けることができるだろうか。

 いや受け止めなければならない。

 無力な私にできることはそれしかないのだから。


 比較的まれな病気で有病者は二百人に一人程度。

 原因は気質、環境、またはその両方。

 あらゆる場面で言葉を発しない場合と、特定の場面でのみ言葉を発しない場合がある。

 通常五歳未満に発症するが、成長にともなって症状が見られなくなることが多い。


 緘黙についてまとめればこんな感じ。例外もあるのだろうが、緘黙は死ぬまで続くものでもないようだ。

 本郷君は中学のときたった一度だけど学校で言葉を発した。今思えば、それはチャンスだったんじゃないか。つまり彼が緘黙の状態から脱するための。

 そのとき周囲が適切な対応をできていれば、それをきっかけに彼の緘黙の症状は収束に向かっていったのではなかったか?

 実際は周囲が寄ってたかってしゃべれしゃべれと彼を責め立てて、せっかく開きかけた彼の心の扉はまた固く閉じられることになってしまった。

 私には彼の緘黙を収束させる力などない。でも少なくとも羽海が恐れていた事態、つまり彼の緘黙をさらに悪化させることだけは防がなければならない――


 自習室のドアを開けるとすぐに本郷君と目が合って、静かに駆け寄ってきた。話がしたいみたいだからそのまま廊下に移動した。


 大丈夫?


 「大丈夫。羽海さんにもう怒らないであげて。というか、君の呼び名のこと教えてくれてありがとうって帰ったら伝えてくれないかな」


 分かった

 あんなにひどいこと言われたのに、筒井さんは優しいね


 友達だからといってあまり褒めないでほしい。もしかしたら私のこと少しは好きなのかなって誤解してしまうから。むしろけなしてほしい。本郷君が私を罵倒する姿はとても想像できないけれど。

 「今まで一階の図書館で緘黙のこと調べてた。成長に伴ってだんだん症状が見られなくなるって本に書いてあった。もちろん個人差があるからいつまでたっても改善しない人もいるとも書いてあった。私は君が話す姿を見てみたい。もしいつまでたっても君が話せるようになれないとしても、私は友達として君のそばにいたい。君が迷惑に思わない限りずっと」


 迷惑だなんて思わない

 僕は君のことが好きだから


 彼の言う〈好き〉は私に恋をしているという意味でなく、友達として好きという意味だ。分かってる。自分に都合のいい解釈なんて絶対にしない。

 でも私は疲れてしまった。こんなふうに彼の何気ない言動のたびに、私に気があるんじゃないかと期待してしまうことに。

 この際二度と期待を持たなくて済むようにしておいた方がいいんじゃないかと考えた。

 「本郷君、十分だけ時間をくれないかな。ここじゃ話しにくいことを打ち明けたいんだ。さっきの公園で」

 彼は素直にうなずいてくれたけど、私の心は重圧に押しつぶされそうになった。


 雨がやんでだいぶ経つけど、まだ公園には誰もいなかった。いくつかあるうちの一番目立たない場所にあるベンチに並んで腰掛けた。そのベンチも雨で濡れたはずだけどもうほとんど乾いていた。

 ここに来るまでどういう順番で話そうかと考えて、結局まとまらなかった。だから結論から話すことにした。

 「本郷君、これから私は君に告白するから、君はすぐに断ってほしい。悪い男に引っかかって好き放題された軽はずみな私が君の恋人としてふさわしくないのは分かってる。さっき君が私のことを好きだと言ったのは友達としてだということも分かってる。でも君のそばにいるとどうしても期待してしまうんだ。いつか君と恋人同士になれるんじゃないかって。けして叶わない期待を持ち続けるほど空しいことはないよね。だから私が今告白するから、君は即座に私を振ってほしい。振られたら私は二度とそんな期待を持たないと約束する。そしていつまでも君の友だちとして君のそばにいるよ。一応言っとくけど、振られたら私がかわいそうだから、なんて理由でOKしたらダメだからね。いい?」

 緊張した面持ちでうなずく本郷君。

 口の中が乾いて仕方ない。告白するのを遅らせれば遅らせるほど告白するのがつらくなる。心の中で、えいっと気合を入れて、私は口を開いた。

 「今まで助けてもらってばかり。私にできて本郷君にできないことは口で話すことくらい。いつか君がそれをできるようになると私が君に勝ってる点が一つもなくなるけど、それでも私は君が話せるようになればいいなって願ってる。そんなダメな私と恋人になっても後悔するだけだと思う。それでもよければ恋人になってください」

 横を向かずただ前を向いて、殺風景な公園の景色だけを見ながら言い切った。言い切って恐る恐る本郷君の顔をチラッと見たら笑っていた。チラッと見ただけだけど確かに笑っていた。

 身の程知らずな私を呆れて笑ってるんだ。これでやっと楽になれる、これでもう無用な期待に胸を膨らませずに済むってホッとしたのに――


 いいよ

 恋人になろう

 今まで人を好きになったことはあるけど

 恋人になれたのは君が初めて

 分からないことだらけだけど

 よろしくお願いします


 「はあっ!? OKしたらダメだって言ったじゃん! 私はお断りされる心の準備ならバッチリしてあったけど、OKされる心の準備なんてこれっぽっちもしてなかったんだからね!」


 筒井さんが言ってたのは同情してOKするのはダメだっていうことだよね

 さっき言ったはずだよ

 僕は君のことが好きなんだ

 それにしても、つきあってほしいと言われてOKして怒られるとは思わなかった

 僕は恋人どころか友達も今までに一人しかいなかったから全然分かってないんだろうね

 人づきあいって奥が深いね

 

 「怒ってない。怒ってるわけない。ちょっとびっくりしただけ。むしろめちゃくちゃうれしい。でも本当にいいの? 頑張り屋の君にふさわしい人はほかにいくらでもいると思うよ。この程度の女で妥協したら、さっきも言ったけどあとで絶対後悔するよ」


 僕にふさわしい人は、僕が話せないのを承知で僕のそばにいて、僕に話しかけてくれる君だけだよ

 正直将来のことは分からないから後悔しないとは言い切れない

 でも君を拒絶して後悔するくらいなら、むしろ君を受け入れて後悔したい


 「死ぬほど後悔させてあげるから覚悟してね」


 後悔なんてしないよ

 友達もいなかった僕にこんな素敵な恋人ができた

 君と恋人になったことを後悔する日が来ないように僕は全力を尽くすよ

 どんな困難があっても二人で力を合わせて乗り越えていこう

 だからくれぐれも、それが僕のためとか勝手に判断して僕から離れていったらダメだよ

 

 「う、うん。分かった。こちらこそよろしくね……」


 こうして私たちは恋人同士になった。

 頭が真っ白になって言葉が出なくなっていた。一瞬私まで緘黙になったのかと焦った。いやもしそれで君が話せるようになるなら、私は喜んでこの声を神様に差し出すと誓うよ。


 君ともっと仲良くなりたいけど、僕は今まで女の子と交際したことがないから、勝手に交際を進めようとしたら、また君を傷つけることになるかもしれない

 だから恋人として今、君が何をしたいかを教えてほしい


 本郷君は悠樹とは全然違う。本郷君のペースに私が合わせなければならないとしても、それで私が傷つくことにはならないはずだ。

 異性との交際が初めてでおそらく彼はどうしていいか分からないのだ。でも、どうしていいか分からないって正直に言うと私にがっかりされるかもとか、そんなどうでもいいことを心配してるのだな、とかすかに不安そうな本郷君の表情を見て気がついた。

 男の子としての彼のプライドを傷つけないように、私は何も気づいてない振りをした。

 「私が君としたいことを言えばいいんだね。今の時点で三つあるかな。これからは名前で呼び合いたい。それと今日じゃないけどデートしたい。最後にこれは今ここでしてほしいことだけど、君とキスしたい」

 本郷君はすぐに三つ目の願いを叶えてくれた。相変わらず公園にいるのは私たちだけだったから、二人ベンチに腰掛けたまま彼は私の方に顔を近づけてきた。それは決して上手なキスではなかった。一瞬すぎたし、触れた場所も少しずれた。

 でも本郷君と初めてしたそのキスを私は一生忘れないだろう。


 和馬君への告白は十分以内で済ませるはずが、結局三十分以上かかってしまった。

 これ以上勉強を邪魔したら悪いと思って、自習室に戻ってからは一切和馬君の勉強の邪魔をしなかった。私のせいで成績が落ちたとなれば、今度こそ和馬君の妹である羽海が黙ってないだろう。

 これからはおたがい名前で呼び合うことにした。私は〈和馬君〉と、彼には私を呼び捨てで呼んでほしかったけど、まだ無理と言われて私は〈奈津さん〉と呼ばれることになった。呼ばれると言っても、彼の場合紙にそう書くだけなんだけどね。

 先に和馬君に中学時代のエピソードを書き記したスケッチブックの画用紙を一枚もらってあったけど、追加でもう一枚もらった。私の告白を受け入れてくれたときの一枚ではなく、そのあとの彼の覚悟が一番よく分かる一枚をもらった。


 僕にふさわしい人は、僕が話せないのを承知で僕のそばにいて、僕に話しかけてくれる君だけだよ

 正直将来のことは分からないから後悔しないとは言い切れない

 でも君を拒絶して後悔するくらいなら、むしろ君と交際して後悔したい


 〈僕にふさわしい人〉か。

 正直、私が和馬君にふさわしい人になれているとはとても思えないけど、いつかそうなれるようにと私も午後は勉強に集中した。

 図書館――もちろん自習室も――は明日から年末年始の休館日。この日、私たちは閉館時間ギリギリまで粘った。

 図書館から出るとき、和馬君は浮かない表情に見えた。今になって私と交際することにしたのを後悔してるとか……。まさか……。そんなわけないと思いながら、きゅうっと胸が苦しくなった。

 「なんか浮かない様子に見えるけど……」


 奈津さん、心配かけてごめん

 実はケータイが見つからなくて


 「そうなんだ。いつから見当たらないの?」


 それがはっきり覚えてないんだ

 もしかしたらうちに置きっぱなしかもしれない

 それならいいんだけど


 「一応、図書館に電話してスマホの忘れ物がなかったかどうか電話してあげるよ」


 ありがとう


 スマホを取り出して図書館に電話をかけようとしたら、ちょうどLINEのメッセージが届いた。


 友達から?


 「ううん、和馬君から」

 和馬君の目が点になっている。それは確かに和馬君のアカウントから送信されたメッセージだった。つまりこのメッセージを送った人物が今、和馬のスマホを持っているということだ。


 筒井奈津さん、あなたに話があります

 今すぐ駅前のカフェに一人で来てください

 本郷羽海


 それで僕のケータイを持ってる犯人は誰だったの?


 「羽海さんだった」

 おそらく和馬はスマホをバッグにしまってあって、公園で私が過呼吸の発作を起こしたどさくさに、羽海は和馬のバッグからスマホを抜き取ったのだろう。私と連絡を取るために――

 「和馬君抜きで私と話したいんだって」


 羽海のやつ、昼にさんざん奈津さんにひどいこと言っておいて、今さら君と何を話したいというのだろう?

 奈津さん、相手にしなくていい

 羽海には僕からよく叱っとく


 「羽海さんが私と何を話したいか、君には分からないかな? 私には分かる。彼女はたぶん昼みたいに、ただ君の前からいなくなれって私に言いたいんじゃないと思う。私は会うよ。君はカフェの外の私たちから見えない場所で待ってて」

 和馬君は心を落ち着かせるように大きく息を吐いて、それから小さくうなずいた。


 羽海は全面ガラス張りのカフェの窓際のテーブル席に座り、私が来るのを待ち構えていた。ここのカフェはチェーン店ではないが、ケーキがおいしいと評判でいつも女性客でにぎわっている。今日もそう。入口で待ってる人も何組かいるのに、羽海は四人が座れるテーブル席を独り占めして平気な顔をしていた。

 「そこ座って。逃げないで来てくれたことは褒めてあげる」

 言われたとおり羽海の向かいに座った。店員が寄ってきたから、タピオカココナッツミルクを注文した。

 「アニキは相当あなたを好きになってるみたいね。あなたにいなくなれって言ったら、おまえこそいなくなれって怒られた。最後には、鈍感で無神経なのはあたしだって罵られた。あの虫も殺さない温厚なアニキにさ」

 私に対して〈あんた〉と呼んでいたのが〈あなた〉に変わったのは、兄である和馬君が信頼する私をぞんざいに扱うことはできないと思い直したからのようだ。そういえば、さっきのLINEのメッセージでは私をさん付けして、敬語まで使っていた。彼女なりに私に敬意を払ってくれていることが素直にうれしかった。

 ブラコンというのとは違うかもしれないけど、羽海は本当に和馬君のことが好きなんだなと思った。お兄さん思いの彼女と仲良くなりたいと心から思った。

 「アニキが聞いてたら言えないことをこれから言うけど、これから言うことをアニキに伝えたら許さないからね」

 「分かった。言ってみて」

 「あなたはアニキと友達になったと言った。アニキの反応見てたら嘘でないのは分かる。ただね、アニキは緘黙というだけであとは普通の男の子なんだよ」

 「分かってるよ」

 「あなたが男の子ならよかった。いつもそばに女の子がいたら、もしかしたら恋人になれるかもって期待するもんなんだよ、男の子という生き物は。中学のときもそうだった。あの友達に彼氏ができてアニキから離れていったときのアニキの落ち込みようと言ったら……。もちろんああいう人だから落ち込んでるのを悟らせないように普通に過ごしてた。学校も休まなかったしね。でもずっと妹としてそばにいたから分かる」

 羽海はしゃべりすぎてのどが渇いたとばかりにコーヒーをゴクゴクと飲んだ。コーヒーを飲む中二。さすが和馬君の妹。大人だなと思った。私なんてカフェに来たって頼むのはいまだに甘いものばかりだ。

 ちょうど店員が私が注文したタピオカココナッツミルクを持ってきた。私はまだ手をつけなかった。

 「友達に恋愛感情を持ってるから気持ち悪いとか絶対に思わないでね。だいじなことだからもう一度言うけど、男の子ってそういうもので、アニキも口が利けないだけであとはそういう普通の男の子なんだから。あたしは異性同士は純粋な友達にはなれないって思ってる。だからあなたがアニキと友達だって言い張るなら、もう別れろとは言わないからさ、友達以上の関係にはなれないってあなたの口からはっきりアニキに伝えてほしいんだ。そうすればアニキもあきらめがつくからさ。アニキに隠れてあなたにこんなことを頼んだって知られたら、あたし絶対にアニキに嫌われてしまうけど、それでも私は言わずにはいられなかったんだ」

 「羽海さん、いい人だね。でもそういうことならもう大丈夫」

 「大丈夫って何が?」

 「私は和馬君と恋人になったから。恋愛感情? どんどん持って、いくらでもウエルカムって感じ」

 「人が真面目に話してるのにふざけないで!」

 「信じないの? 私と和馬君が本当に恋人同士になってたらどうするの?」

 「そんなことあるわけないけど、それが本当ならあたしはあなたの言いなりになると誓うよ。何を頼まれても断らない。あなたのことはお姉さんって呼ぶし、あなたはあたしのことを羽海って呼び捨てにしていいから」

 「言ったね。外を見ててね」

 私は荷物を持って立ち上がり、すたすた歩いて、そのまま店を出た。和馬君は入口のドアの脇に隠れるように立っていた。

 大丈夫? と顔に書いてある。

 「大丈夫。羽海さんと仲良くなれそうだよ。君と私が恋人同士になったって証拠を見せたら、もう一切私たちに口出ししないって。来て」

 証拠ってどうすればと思案顔の和馬君を全面ガラス張りの店の真ん前に連れ出した。店の中が丸見えだ。向こうからもこちらが丸見えなんだろうけど。

 兄妹の目が合った。照れ屋の和馬君は目をそらした。

 「キスしたい」

 ここで? と目で訴えている。

 「もちろん。羽海さんに見てもらうためなんだから」

 和馬君は観念したように姿勢を低くした。背の高さが全然違うからそうしてくれないとキスできない。

 「私からするね」

 和馬君の両方の頬に両手を添えて口づけた。少し首を動かすと、目を丸くして私たちに釘づけになっている羽海の顔が視界の端に見えた。でも店内のほかのお客さんたちまでびっくりさせてしまったのは失敗だったかもしれない。

 私はもう何も考えず、目を閉じて和馬君とのキスに集中した。

 私たちの体が離れたのはそれから二分後か三分後か、よく分からない。

 「すごくよかった。公園で君の方からしてくれた初めてのキスには負けるけどね。あのとき君としたキスを、私は一生忘れない」

 和馬君は何も言わず――言えないのだけど――じっと私を見つめている。

 「タピオカココナッツミルクを頼んだんだけど口つけてないから、和馬君が代わりに飲んで。私は一人で帰るから、あとは兄妹で話せばいいよ。今日はありがとう。あとでLINEするからスマホ返してもらってね」

 和馬君はただ熱にうかされたような表情で、手を振る私を見送ってくれた。

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