第二章 友達
「遅れてごめんなさい!」
夕食に間に合わないから先に食べててほしいとLINEで連絡してあったのに、一時間遅れでダイニングに駆け込むと、すっかり冷めたごちそうは手つかずのまま、ピリピリした雰囲気を漂わせて三人はテーブルの前のそれぞれの席に腰掛けていた。
そうだろうなと思った。私が門限に間に合わなかったときはいつもそう。私を待って自分たちも食事をしないことで、約束を破った私に罪悪感を持たせようというわけだ。
最初に口を開いたのはお父さんだった。
「お母さんがこのごちそうを作るためにどれだけ時間と労力を費やしたか分かるか?」
分かるよ。クリスマス定番のローストチキンやケーキ、色とりどりのサラダ、手作りのミネストローネ。一つとして市販のお惣菜はない。全部手作り。毎年そう。
「分かってる……」
「分かってるなら、どうして一時間も遅くなったんだ?」
本当の理由は言えない。私は今日沙羅と遊んでることになってる。両親は過保護といえるくらい私を溺愛している。
今日生まれて初めてセックスして、その相手の男の子とケンカ別れしたゴタゴタで遅くなったなんて言ったら、二人とも心臓が止まってしまうかもしれない。
「いろいろあって……」
「奈津、人と話すときは相手の目を見てとつねづね言ってるよな」
私があなたたちの目を見られないのは、今まであなたたちにだいじにされてきたこの体を粗末に扱ってしまった罪悪感からだ。夕食の時間に遅れたことに対しての罪悪感なんてないけど、その一点で私の心は確かにそのとき罪悪感でいっぱいだった。
「今日は本当にごめんなさい。これから気をつけます」
過保護で過干渉なのは嫌だけど、私はこの人たちのことは嫌いじゃない。今まで育ててくれたことに感謝もしている。両親から暴力を振るわれたこともない。最近よくニュースになる児童虐待も私にとっては都市伝説のように現実感のない話でしかない。
私が素直に謝ると、ようやく両親の表情から厳しさが消えた。
でも、なぜか弟の雄太の表情が暗い。というか怖い。一言もしゃべらないけど、めちゃくちゃ怒ってるのが分かる。雄太を怒らせるようなこと、私何かやったっけ?
それにしても、雄太と悠樹って発音が似てるな。雄太の顔を見るたびに悠樹さんを思い出すようになるのだけは困る。雄太にはなんの罪もないのだけれど。
どの料理も冷めてはいたけど、おいしかった。家には優しい両親がいて、学校に行けばたくさんの友達がいる。それで十分幸せだったのに、なんで恋人なんてほしがってしまったのだろう?
馬鹿だなって思った。悠樹さんのことはもう忘れてしまおう。悠樹さんにされたことはいちいち腹が立つことばかりだったけど、あんな男のせいでこれ以上苦しめられるのはそれよりずっと悔しいことだと思えた。だから忘れるしかない。
自分の部屋に戻り、最初にしたことはLINEを開き、
悠樹さん、自分勝手なあなたとこれ以上つきあうのは無理です
さよなら
そう書いて、悠樹さんに送信したことだった。
その直後、ノックもせずに雄太が部屋に入ってきた。相変わらず怖い顔をしている。
雄太は中学二年生。といっても不登校で学校に通っていない。ただ、引きこもりではないから、学校には行ってないけど、フリースクールや図書館には一人でよく出かけている。
私も両親も彼の不登校を責めたことはない。ただ、何をこじらせてそうなったのか重度のシスコンだから、不登校はともかくシスコンはさっさと治してほしいと私は心から願っている。
「さっきからなんで怒ってるの? 私、雄太になんかしたっけ?」
「帰って来るのが遅かったから、心配して外に出てみたんだ」
「もしかして見たの?」
「見たよ。姉ちゃんが自分を振った男の足元で両手を突いて泣きじゃくってるのを」
別に私は本郷君にフラれて泣いてたわけじゃないけど、知らない人が見れば確かにそう受け取るほかない状況ではあるなって思った。
「それで怒ってるの?」
「姉ちゃんがほかの男とつきあうのは気に入らないけど、フラれるのはもっと許せない!」
「そんなに怒ってるのによく彼に突っかかっていかなかったね」
悠樹さんの前につきあってた男の子と手をつないで街を歩いていたとき、雄太に見つかって、雄太はその男の子に殴りかかっていったことがある。
「あの背の高い男にはフラれたんだよな? フラれたならもう会うことはないだろうからね。でも、今度あの男が姉ちゃんといっしょにいるのを見かけたら、あいつ急に道路に飛び出して車に轢かれたり、電車が来てるのに駅のプラットホームから転落するかもしれないよ」
ただの脅しではなく雄太なら本当にやるだろう。雄太は私のことになると病的になる。
「あれだけ泣いてたってことはあいつとセックスもしちゃったんだよね?」
「だとしたらなんなの?」
「馬鹿だなって思って。どうせ軽い気持ちでしちゃったんだろ? あとであんなにボロボロに泣く羽目になるなんて知らないで」
私の相手が本郷君だと思いこんでるのは濡れ衣だけど、それ以外は全部図星だったから私は何も言い返せなかった。
今年のクリスマスイブは恋人を失って、友達が一人増えた、そんな一日だった。でもこの二つの重さは対等ではなく、私がその夜に見た夢は悪夢だった。
夢なのにそれはその日に実際にあった出来事を正確になぞっていた。
私は夢の中でまた悠樹さんのアパートにいた。最初のセックスが終わった直後のようだ。悠樹さんは身勝手だけど避妊だけはしっかりやってくれた。使用済みのコンドームを処理すると、こんな提案を始めた。
「してるところを動画に撮りたいんだけど」
「やだよ。勝手なこと言わないで」
「了解取ろうとしてるんだから勝手じゃないだろ」
馬鹿な私はなるほどと思った。
「じゃあ動画はやめる。写真だけでいい。そばに奈津がいないとき奈津がいない寂しさをその写真で癒やしたいだけなんだ」
「でも……」
「おれがこんなに頭を下げてるのに、奈津は拒絶してばかりだな。興ざめした。今日のデートは終わりにして家に帰る?」
それは嫌だ! 初めて悠樹さんと結ばれた大切な一日なのに、そんなひどい終わり方はありえない!
「何枚撮りたいの?」
「できれば十枚くらい」
「一枚だけなら……」
「じゃあ二枚!」
めんどくさくなって、いいよと返事した。
すぐに二回目のセックスが始まった。左手で私の片足を抱えながら、右手で器用にスマホを操作している。
相変わらず「気持ちいい!」を連発する悠樹さん。私、何してるんだろう? ってちょっと思った。
パシャッとシャッター音がするのと悠樹さんが射精したのはほぼ同時だった――
悪夢を見た。いやただの悪夢ならよかったのに、それは紛れもない現実だった。
目覚めるとまだ夜中の三時だった。スマホを開いたけど、悠樹さんから返信は届いてない。というか既読にもなってなかった。どうやらブロックされたらしい。
私が彼を嫌ってる以上に、どうやら彼の方が私を嫌ってるようだ。私は彼に対して完全に冷めてしまった。
悠樹さんとケンカして別れた
優しい人だと思ってたけど今日いきなり豹変してびっくりした
沙羅はどこまで彼のこと知ってたの?
私は詳しいことは書かず、彼を紹介した沙羅にLINEで抗議した。
驚いたことにこんな時間なのにすぐに返信があった。
今、彼とホテル
彼はシャワー浴びてる
悠樹さんならずっと前から知ってるよ
彼、前につきあった人に暴力を振るったり中絶させたりしてトラブルになったことがあって、そういう苦労を乗り越えてきたから、ずいぶん大人になったなって思ったよ
もう別れたの?
今日別れたばかりなら、きっとまだやり直せるよ
私があいだに入って仲直りさせてあげてもいいけど
正直めまいがした。DV? 中絶? ほかは全部ダメだけど避妊だけはしっかりやってくれるなって感心してたけど、前に女の子を妊娠させて中絶させたからか。
雄太と話してから、悠樹さん(いやもう〈さん〉づけで呼ぶのも嫌だ)への怒りは消えて、なんて私は馬鹿なんだろうっていう後悔の気持ちばかりが胸に渦巻いてたけど、また心の底からふつふつと怒りが込み上げてきた。
悠樹がそんな男だってなんで先に教えてくれなかったの?
というか、DVしたり中絶させる男を恋人にするなんてありえない!
なんでそんなクズを私に紹介したの?
返事はすぐに来た。
でもその返事はまるで私の望んだ内容ではなかった。
奈津さあ、今までつきあった二人が子供っぽかったからもっと大人の彼氏がほしいって言ったのはあんただよ
あんた、なんか勘違いしてるんじゃないの?
自分だってちっとも大人じゃないくせに、子供っぽいってわがまま言って、私の紹介した男の子を二人も振って、私の顔に泥を塗ってさ
あんたなんて悠樹さんくらいがお似合いだよ
むしろもったいないくらいだと思うよ
いやもうどうでもいい
めっちゃムカついたからあんたとはもう絶交する
あとでどんだけ後悔したってもう遅いからね
これから何が起きるか、冬休みが終わるまでせいぜい胃の痛い日々を過ごせばいいよ
逆ギレ?
被害者はこっちなんだけど!
私のそのメッセージが既読になることはなかった。悠樹に続いて、沙羅にもブロックされてしまったようだ。
いいもんね。私は本郷君にメッセージを送ることにした。
昨夜、別れ際にLINEの友達登録をさせてもらった。さりげなく画面をチェックして、本郷君のLINEに友達として登録されてるのは二人だけだと確認した。お母さん、そして雄太と同じ中二の妹さん。妹の名前は羽海と書いて〈うみ〉と読むことも知った。
「いい名前だね」
って褒めたら、スケッチブックに一言、
名前はね
という返事。私も雄太に懐かれすぎて困ってるけど、本郷君は本郷君で兄妹間に何らかのトラブルがあるのかもしれない。
今、何してるの?
そう書いて送信したけど、一向に既読にならない。時間はもうすぐ午前四時になるところ。
寝てるよね……
自分が救いようのない馬鹿だと再確認して、スマホを枕元に放り出して私はまた目を閉じた。じきに眠りに落ちたけどもう夢は見なかった。
悪夢を見たせいで眠りが浅かったのと途中で目を覚ましたせいで、次に目を覚ましたのは午前十時すぎ。いくら冬休みだからといってだらけすぎ。ダメ人間というのは私のためにある言葉だなとため息をついた。
スマホにメッセージの着信があった。本郷君からだった。悠樹でも沙羅でもない。私が二人に送ったメッセージは未読のまま。やはりブロックされてるんだなって確信した。
寝てたよ
今日はこれから図書館の自習室で受験勉強する予定
図書館といっても学校のじゃなくて市の図書館
授業のない日まで学校に行きたくないから
筒井さんは今日何するの?
あとでいいので教えてください
私の名前は筒井奈津。私を名字で呼ぶのは学校の先生くらいのものだから、〈筒井さん〉って呼ばれたのがなんだか新鮮だった。
本郷君は学校が嫌いなんだなって思った。からかってくる男子もいるから嫌いになっても当然かもしれない。
私は返事しないことにした。本郷君は既読スルーされて腹を立てるかもしれない。
黙って図書館に行って、突然目の前に現れて驚かしてやろうというわけ。女の子同士でよくやる、いわゆるサプライズというやつ。
本郷君の驚く顔が見たい。子どもに戻ったみたいに胸が躍った。
学校の図書館も入学した直後の新入生オリエンテーションのときに一回入ったきりだけど、市立図書館なんて一度も入ったことがない。だから自習室がどこにあるかも知らない。入口にあった館内案内図によれば三階にある。
午前十一時半。見つからないように自習室のドアをそっと開けた。自習室は思ったより広かったけど、それでも入口付近から全体を見回せるほどの広さでしかない。
本郷君の姿はどこにもない。既読スルーした私に腹を立てて図書館に来るのをやめたのだろうか? 悠樹や沙羅にLINEをブロックされてしまったけど、まさか本郷君にまで……?
昨日悠樹につけられたばかりの心の傷がまだ全然癒えてないこともあって、私の思考はひたすらネガティブな方に突き進んでいった。
突然、誰かに肩をたたかれて、体がビクッとした。もしかしてと思ったら、やっぱり本郷君だった。
「驚かせようと思って黙って来たのだけど、逆に驚かされちゃったね。どこに行ってたの?」
トイレ
トイレでちょっといなかっただけなのに、本郷君まで私を嫌いになったのかってさっきまでくよくよ思い悩んでいた私は、自分が思うよりずっと心が弱ってしまっているのかもしれない。
「私も勉強したくなって来たんだ。邪魔にならないようにするから、本郷君の隣にいてもいいかな?」
本郷君は笑顔でうなずいてくれた。勉強の邪魔だからと拒絶されるかもって内心ヒヤヒヤしてたから素直にうれしかった。
それにしても、本郷君の笑顔はいいなって思った。悠樹もその前の二人もイケメン、というか見た目はよかった。いや、よくなるように努力していた。三人とも床屋でなく美容院に通い、メンズファッション誌を購読し、もちろん高い服もたくさん買った。モテるようになるための努力を惜しまなかった。
でもそれはほかはダメなのに見た目だけよくしようという不自然さまでは隠せなかった。
本郷君はそういう努力をいっさいしていないようだった。というよりそういう努力を放棄してる感じ。さっき見せた笑顔などは、さながら内面からにじみ出るような笑顔。そう思われて、彼が喜ぶかどうかは知らない。
でも少なくとも今の私には悠樹のような作られた美しさよりも本郷君のようなにじみ出る美しさの方が好感を持てた。
なんの勉強をしてるのかと思ったら受験勉強だった。本郷君はいくつかの大学の赤本(入試過去問)をひたすら解いていく。赤本の大学名を見たら私なんてお呼びでないような学校ばかり。
私たちはもうすぐ高校三年生。受験生になる。私はそういう現実からずっと逃げてきた。自分と同類の仲間たちと楽しいことばかりやってきた。その結果、DV男に性欲解消のおもちゃにされて、今も取り返しのつかないことをしてしまったという後悔に苛まれている。
本郷君は口から言葉を発することはできないけど、実は勉強はめちゃくちゃできるようだ。私は本郷君を見くびっていたのかもしれない。
私が自習用に持ってきたのは高校で使ってる教科書。本郷君と比べられたら意識と能力の違いが一目瞭然で、私はやっちゃったかもと頭を抱えた。
でもよく考えたら、昨日悠樹にされた恥ずかしいこと――いわば裸を見られるよりよっぽど恥ずかしい話――を一つ残らず本郷君に知られてしまっている。つまり私が本郷君に対して守るべきプライドなどすでに皆無だった。
開き直って、教科書を開いた。授業中ぼうっとしてるだけだから、どのページも知らないことばかりだった。昨日のようなことがなくたって私は高校生として失格だったんだなと再認識した。
一時間ほど勉強して、
「お昼はどうするの?」
と聞いたら、
コンビニで適当に買って近くの公園で食べる
ということだった。
「いっしょに食べよう」
と提案したら、本郷君はまた笑顔になった。いいねと顔に書いてあるように感じるさわやかな笑顔だった。
クリスマスイブが終わったからクリスマスが終わったように錯覚してたけど、今日がクリスマスの本番だった。
天気がいいせいか昨日より暖かく感じる。暖かく感じるのはいっしょにいる相手が冷血漢でDV男の悠樹でなく優しい本郷君だから、というのもあるかもしれない。
本郷君がおにぎりにしたから私もおにぎりにした。本当はパンの方が好きなのだけど。なんとなく彼に合わせてみたい気持ちになっていた。
ベンチに腰掛けている。隣には優しいけど一言も言葉を発しない本郷君。
公園には私たち以外に数人の小さな子どもとその母親たち。子どもたちは子ども同士で遊び、母親たちは母親同士で井戸端会議。
のどかだなって思った。ここにいると嫌なこと全部忘れられそうだ。そうはいっても、私がこの最低なトラウマから抜け出すまでもう少し時間がかかるだろう。こういうのどかな場所にいると回復が早まるんじゃないか。そんな気がした。
本郷君がベーコンチーズのおにぎりをおいしそうに食べている。私は買ったのはいいけど食欲が湧かなくて、全部本郷君にあげてしまった。
いいの?
「自分が食べるより、君の男の子らしい豪快な食べっぷり見てる方が心が癒やされるから、私のためと思ってあげた分も豪快に食べて」
豪快に食べてほしいという私のリクエストに応えて、本郷君は今までよりもっと豪快に食べてくれた。本郷君は相変わらず優しい。優しすぎてそばにいるだけでまた泣けてきそうだ。
昨日、さんざんグチを聞いてもらったばかりだけど、彼に聞いてほしくて気がつくとまた語りだしていた。
「昨日ケンカした彼にLINEをブロックされちゃった。完全にお別れになっちゃったけど、よかったって思ってる。このままつきあい続けたら、私もっともっと傷つくことになったはずだから。本当は昨日より前に別れることができればよかったのだけど」
本郷君は食べるのをやめて、真剣に話を聞いてくれていた。
「彼を私に紹介したのは同じクラスの吉田沙羅。沙羅は私にとって一番の友達だったけど、なんで私にあんなひどい男を紹介したのって責めたら逆ギレされて絶交だって宣言された。沙羅は私たちのグループのリーダー的な存在だから、これからグループの中でうまくやってけるかちょっと不安……」
大げさにため息をついてみせると、本郷君まで泣きそうな顔になっていた。
とそのとき、砂場で女の子が転んで四つんばいになった。たったそれだけのことなのに、またフラッシュバックが始まった。おにぎりを食べなくてよかった。食べていたら絶対吐いていたに違いない。
二回目のセックスのあと、悠樹は私に四つんばいになるように命じた。そのとおりにすると、彼は後ろから私の中に入ってきた。いつもの「気持ちいい!」が始まった。
そのうち彼は自分のものを私から引き抜いた。やっと終わったと喜んだけどそうじゃなかった。彼はコンドームをはずしてそれを私に見せた。
「つけずにやるからな」
「避妊して!」
「避妊はする」
彼はまた後ろから私に侵入してきたけど……
「そこ違う」
驚いて振り返ったときパシャッとシャッター音がした。
「違くない。こっちなら妊娠するわけないからな」
そりゃそうだけど……
二度目のセックスも悪夢として夢に見るほどの嫌な出来事だったけど、三度目のセックスはそれ以上に最悪な出来事となった。それはまったく私の望まない、想定外の行為だった。
私の体の奥深くに秘められた腸壁が、耳に聞こえぬ悲鳴を上げている。私はそのとき逃げ出すべきだったのに、いつか終わるからと自分に言い聞かせて耐えた。実際はたいして長い時間じゃなかったかもしれないけど、気が遠くなるくらい長い時間に思えた。
悠樹の体の動きが止まった。同時に未知の毒を撒き散らすように彼の精液は私の中でほとばしった――
大丈夫?
本郷君がスケッチブックを掲げて心配そうに私を見守っていた。大丈夫と答えたいけど、残念ながら全然大丈夫ではなかった。
しかも彼は今回のフラッシュバックの内容――つまり私がノーマルでないセックスまで経験させられたこと――も知っている。優しいから見捨てないでいてくれるけど、内心はきっとひどく軽蔑してることだろう。
「つらくなったから今日はこれで帰る。ごめんね、めんどくさいやつで。明日元気になってまた来るよ」
無理しないで
「私は本郷君に会いたいんだよ。そういえば、本郷君って言い方、なんか友達っぽくないね。本郷君、カンちゃんとも呼ばれてるよね。私もそう呼んでいい?」
少し考えてから本郷君はうなずいた。
「ありがとう。カンちゃん、また明日ね」
私は手を振って逃げ出すようにその場をあとにした。
家に帰って、過去は消せないんだなって今さらながら気がついた。ちょっとしたことで忘れたい過去で胸がいっぱいになる。過去は消せないけど、絶望はしていない。嫌な過去を消せないなら、幸せな未来で塗りつぶしてしまえばいい。というかそれしかない。
私の不幸な過去を忘れさせてくれるのは誰か? やはり未来の恋人だろう。
すぐに本郷君の顔が脳裏に浮かんだ。でもそれだけはない。私から見て口の利けない恋人がありえないというのもあるけど、本郷君から見て恋人として私はアリなのか? クズみたいな男にアブノーマルな行為や行為中の写真を撮らせることまで許し、性欲解消のおもちゃ扱いされた挙げ句あっさりと捨てられた女なんて、私が男なら、結婚して子どものいる人と同じくらい問題外だ。
本郷君はいつも一人ぼっちだったから、私に話しかけられてうれしいだけだ。彼は優しいから困ってる私を放っておけないだけだ。絶対に勘違いしてはいけない。
私の恋人になる人は私の過去を知らない人だけだ。私は悠樹との忌まわしい過去をその人にもいつか生まれてくる私の子どもにも伝えることなく、胸の中にすべてを封印したまま生きて、そして死ぬ。
誰にも言えない秘密を抱えた苦しみから解放されるのは私が死ぬときだ。言い換えれば、私は自分が死ぬまでの気が遠くなるほどの長い時間を、誰にも言えない秘密を抱えて苦しみながら生きなければならない、ということだ。
そう思うと、本当に気が遠くなる思いがした。いつか私に恋人ができてその人と結婚することになっても、その人は私をこの苦しみから救う人にはなれない。
無性に誰かとつながっていたくなって、LINEを起ち上げた。私にはLINEでつながってる友達が百人以上いる。今までなら毎日いろんな子たちから何十とメッセージが届くのに今日に限って一通のメッセージもなかった。沙羅が奈津をシカトしようとみんなに呼びかけて、みんなもそれに従ったのだろう。
私は悲しかった。大勢の友達をいっぺんに失ったからじゃない。沙羅に言われて言われたとおり絶交してくるような、そんな友達しか私にいなかったことが何より悲しかった。
ちょっと早く大人になりたかっただけなのに。なんでこんなことになってしまったのだろう?
私が馬鹿だったから。どれだけ考えても答えはそれしかなかった。
受験勉強に集中してるはずの本郷君にメッセージを送った。
勉強がんばって!
体調よくなってきたから、私もがんばる
忙しいだろうから、返信は気にしなくていいよ
そう書いた以上私も勉強しないわけにはいかなくなったと思って、とりあえず英国数の三教科分ある冬休みの宿題に取り掛かった。いい方法だなって思った。やると宣言したら宣言した以上やるしかない。今度からもこの作戦を使うとしよう。
いつもならダラダラといつまでも終わらないのに、きっちり三時間で冬休みの宿題をやり終えた。まあ、冬休みの宿題なんて本郷君ならきっと受け取ったその日に、つまり冬休みに入る前にもう終わらしてるんだろうけどね。
宿題が終わってすぐ、本郷君から返事が来た。
筒井さんのおかげで僕も今日いつもよりも頑張れた
明日も来るの?
迷惑じゃなければいっしょに勉強しよ!
全然迷惑じゃない
自習室で待ってるよ
こんな私を待ってくれる人がいる。
そんな小さなことがそのときの私には何よりうれしかった。傷ついた私の心を回復させるものがあるとすれば、こういう小さな経験の積み重ね以外にはない。心からそう思えた。
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