第一章 後悔


 今まで三人の人とつきあった。つきあったといっても、初めの二人はキスまでで別れてしまった。別れた理由? なんだか子どもっぽくて運命の人だと思えなかったから。

 親友の吉田沙羅にあきれられてしまった。

 「運命の人って、自分がおとぎ話のお姫様かなんかだと思ってるの? 相手の男の子たち、二人とも奈津のこと気に入ってたから残念がってるよ。勘弁してよね。二人ともあたしが奈津に紹介したんだから」

 沙羅の顔に泥を塗ったつもりはなかった。

 「もうすぐクリスマスだけど、奈津はぼっちでイブを迎えるつもり?」

 「それはいや!」

 ということで三人目の彼氏も沙羅に紹介してもらった。今までの二人と同じように沙羅の友達つながり。ただ、今までの二人は他校の高校の三年生だったけど、今度の人は五つ年上の大学四年生。今までの二人は子供っぽいという理由で振られてるから、沙羅が気を利かせてずいぶん年上の人にしてくれたようだ。

 三人目の彼氏――黒瀬悠樹は確かに今までの二人とは違っていた。

 悠樹さんは鼻が高くて目がくっきり二重。肌がきれい。一つ一つのパーツだけじゃなく顔全体のバランスが取れている。つまり分かりやすいイケメン。

 それでいて、髪は金髪、あごひげを生やして耳には大きなピアス。ちょっと悪そうに見えるところもいい。

 大人の悠樹さんとのデートはいつも彼の車でドライブ。助手席に座って彼の横顔を見ていると、まだ十七歳で高校二年生の自分まで大人になったような気分になれた。いやそんなことより――

 今までの二人は自分の部活とか自分が好きなこととか、要は自分のことばかり話してた。

 でも、悠樹さんは自分のことは私に聞かれたときしか話さず、なるべく私に話させようとしていた。私がふだん接してるのは高校生ばかりで、大人なんて家族と先生くらいしか知らなかったから、悠樹さんのそういう余裕や落ち着きは新鮮だったし、素直に好感を持つことができた。

 悠樹さんとは今年の十二月につきあい始めて、三度目のデートがクリスマスイブ。一人ぼっちのクリスマスをなんとか回避できて、正直ホッとしていたし、ホッとした気持ちがいつものデートよりも積極的な気分にさせたというか、私の警戒感を薄れさせていた。

 もう冬休みに入っていて学校がなかったから、今日は朝から悠樹さんと会っていた。夜は家で家族とクリスマスのごちそうを食べることになっていたから、急いで帰れば夕食の時間にギリギリ間に合う夕方五時まで悠樹さんと過ごすことになっていた。

 ちなみに今日は沙羅たちと遊ぶことになってると親には言ってある。沙羅は沙羅で私とカラオケに行くと親に言って恋人とデート中。一度だけ沙羅の恋人と会ったことがある。二十歳の社会人。住宅リフォーム会社の営業さん。スーツの似合う素敵な人だった。

 楽しい時間はあっという間にすぎて、もう夕方の四時。あと一時間。最後に軽く食事しようということになって、私たちは駅前のおいしいと評判のパンケーキ屋の行列に並んだ。

 残念ながら雪は降らずホワイトクリスマスにはならなかったけど、今日はとても寒い一日だった。今日はほとんど悠樹さんの車の中か建物の中にいたから、行列に並ぶまで今日が手がかじかむほど寒いということを忘れていた。でも右手だけは冷たくない。悠樹さんがずっと手をつないでいてくれるから。正直パンケーキなんてどうでもよかった。このまま時間が止まればいいのにって私は祈っていた。

 街ゆく人もカップルばかり。自分が今幸せだから、私の目に映るすべての人が幸せに見える。実際はそんなことあるわけないんだけどね。

 「今夜は帰りたくないな」

 「じゃあ、これからこれからまたおれんちに戻る?」

 家族との夕食のために帰らなければならない私に、悠樹さんはけして意地悪でそう言ったわけじゃない。彼なりの親切心でそう言ったのだと私は信じた。

 「なんかうらやましくなっちゃって。ここにいる人たちはきっとみんな今夜二人で過ごすんだろうなって思ったら」

 「そうでもないみたいだぞ」

 どういう意味だろうと思って、振り返って悠樹さんが目で示した方を見ると、行列の私たちの真後ろに背の高い男の子が一人で行列に並んでいた。

 その男の子には見覚えがあった。もとは真っ白だったはずの黄ばんだパーカーによれよれのカーゴパンツ。そして大きなリュックサックを背負っている。おしゃれなパンケーキ屋に入るにはそぐわない格好。

 見慣れた制服姿ではないけど、彼はクラスメートの本郷君だ。間違いない。

 本郷君の下の名前は知らないけど、みんなによく〈カンちゃん〉って呼ばれてるのは知ってる。今まで彼と何の接点もなかったから、私がそう呼んだことは一度もない。

 本郷君はバスケやったらすごいんだろうなと思えるくらい背が高い。初めて見たとき巨人かと思った。体が大きいといっても肥満体ではなく、何かのスポーツを極めた人みたいに体が引き締まっている。

 でも実際は友達のいないいじめられっ子。言っちゃなんだけど、スクールカーストの底辺の人だ。

 そういう人だから外見にも無頓着で、眉毛はボサボサでいつもブレザーのボタンを全部留めている。着崩して少しでもカッコよく見せたいという発想はないようだ。素材はいいのにもったいないと思わずにはいられない。

 でも彼の一番の特徴は今説明した中にはなくて――

 「奈津の知り合い?」

 「うん。クラスメートの本郷君」

 「マジで? 友達いないやつなの?」

 そういうネガティブな話はせめてもうちょっと小さな声ですればいいのに。これじゃ今までの二人と変わらないな。悠樹さんに聞かれないようにそっとため息をついた。

 私は別に彼に友達がいなくても馬鹿にしたりしない。いい人ぶってそう言ってるわけじゃない。ただ私とは違う世界に生きてる人なんだなって思うだけ。興味ない。それだけ。

 「友達はいなさそうだけど、まあいいじゃん。今は私たち二人のことだけ考えようよ」

 「でもおもしれーじゃん。クリスマスイブに男が一人でパンケーキ屋の行列に並んでるんだぜ」

 確かに変かもしれないけど、そのセリフのどこにも犯罪的な要素はない。ほっとけばいいのに。

 「こいつ、絶対童貞だぜ」

 そういうことも言ってほしくなかった。悠樹さんが私の初めての相手だということは何度も伝えてある。私だって昨日まで未経験だった。いっさい人と話さない(話せない?)本郷君は悠樹さんの言うとおり未経験なんだろうけど、その点をもって本郷君を馬鹿にするのは私を馬鹿にしてるのと同じことだ。

 さっき悠樹さんのことを今までの二人と変わらないなって言ったけど、少なくともあの二人なら私の前ではカッコつけようとして誰かの悪口を言ったりしなかったはず。

 悠樹さんが今までの二人以下の子どもだったのか、それとも一度抱いた女相手にカッコつけるというか、気を使う必要性を感じないのか? 前者も嫌だけど、後者だったらもっと嫌だなって思った。私も自分をそんなにデリカシーある人間だとは思ってないけど、私に最低限の気遣いもしない恋人はさすがに嫌だ。

 今までの二人には頑として許さなかったことを悠樹さんとはしてしまった。それも今日初めて。失敗だったかという思いがよぎったけど、してしまった以上今となってはそんな簡単に別れるわけにもいかない。

 「さっきからこいつ全然しゃべらないけど、聞こえてないの?」

 「聞こえてる。しゃべらないだけなんだって」

 「しゃべれるのに、しゃべらないってこと? なめてるのか、おまえ?」

 突然、悠樹さんが私から手を離し、本郷君の胸元をつかみ上げる。といっても本郷君の方が背が高いから横から見ると子どもが大人にケンカを売ってるみたいでなんだか滑稽に見える。

 本郷君は胸元をつかまれても何も話さない。目の前の悠樹さんではなく、首を曲げてなぜかじっと私の顔を見ている。

 おそらく〈なんとかしてくれよ〉って無言で私に訴えてるんだろうけど、そんなわけないのに〈こんなのがおまえの彼氏?〉って馬鹿にされてるような気がして、思わず目をそらしてしまった。

 「おまえ、なに人の彼女を凝視してんの? 奈津は目をそらしちゃったよ。おまえに見られんのがキモいってさ」

 そんなこと思ってない! どちらかといえば、いきなり見ず知らずの人にネチネチ絡みだす君の方がキモい。

 でも、初めて体を重ねた相手とその日に別れるなんて嫌だ。ありえない男を初めての相手に選んでしまったとなれば、取り返しのつかない一生の汚点だ。

 それに、悠樹さんもクリスマスイブの特別な雰囲気に飲まれて、気持ちが昂ぶってちょっと冷静さを失ってるだけかもしれないし。もしそうでなくてそういうサディスティックな面がもともと彼にあるのだとしても、私は恋人としてどれだけ時間をかけても彼のそういうところが改善するまで粘り強く力になる覚悟だった。

 「悠樹さん、やめなよ。今日だけは楽しいことだけ考えよ。ね?」

 でも悠樹さんの悪意の刃は本郷君だけでなく私の方にも向かってきた。

 「奈津、なんで彼氏のおれを差し置いて、その男をかばうの? まさか奈津がおれとつきあう前につきあってた男って――!」

 「そんなわけないじゃん! 本郷君とは話したことさえ一度もないよ。馬鹿じゃないの?」

 「馬鹿だと!」

 悠樹さんが本郷君を力任せに突き飛ばした。

 「ふざけやがって! もう奈津とは終わりだ!」

 悠樹さんが真っ赤な顔になって、車を駐めた駐車場の方に一人で向かおうとする。

 「待って! 怒ったなら謝る」

 「謝るくらいなら最初から怒らせるな!」

 追いすがろうとして私まで突き飛ばされた。そのまま悠樹さんは行ってしまった。

 行列に並ぶカップルたちがみんな気の毒そうに私を見ているのを背中で感じたけど、私はいろんなことにショックを受けて立ち上がる気力も湧かなかった。

 五分後、まだ尻もちをついたまま呆然と歩道に座り込む私の前を悠樹さんの黒いワンボックスが猛スピードで駆けすぎていった――


 気がついたら私は膝の上に顔を伏せて泣いてしまっていたようだ。涙が止まりわれに返って顔を上げると、しゃがみ込む男の子の顔が目の前にあった。

 「悠樹さ……」

 言いかけて、しまったと思った。だって、てっきり冷静さを取り戻した悠樹さんが罪悪感に駆られて戻ってきたんだって普通思うよね?

 でも違った。戻ってきてほしいという思いが強すぎて、悠樹さんの顔に見えただけだった。

 目の前にしゃがんでいたのは本郷君だった。

 「ずっとここにいたの?」

 本郷君は小さくうなずいた。

 「私が泣いてるのをずっと見ていたの?」

 また小さくうなずいた。

 「ざまあみろって思った?」

 今度は首を横に振った。

 一切口から言葉を発しない本郷君はときどき心ない男子たちに馬鹿にされていた。

 「おい、カンちゃん。あって言ってみろよ」

 「弁当食うときは口が動くんだな」

 こんなふうに。

 私は高校生になってまでいじめみたいなことをするそういう男子たちが小さな子どもにしか見えなくて、彼らの輪に加わったことはない。

 でもいつだって本郷君へのからかいに対して見て見ぬ振りをしてたから、彼らを非難する資格など私にはないし、本郷君にはざまあみろと私に言う資格があるように思われた。

 「じゃあなんでずっと私のそばにいたの?」

 本郷君は何かを話したそうにしていたけど、しばらくして胸の前で両手を合わせて拝むようなポーズを作った。

 「謝りたかったってこと? もしかして、私と悠樹さんがケンカになったのは自分のせいだって思って?」

 本郷君は拝むポーズのまま軽くうなずいた。

 「い、いいよ。本郷君がなんにも悪くないのは分かってるし。むしろ悪かったのは私たちで……」

 謝罪なんていらないからどこかに行ってほしかった。数時間前に初めて結ばれたばかりの彼氏と最悪な別れ方をしてしまった。ほっといてほしかった。少なくとも今は冷静に誰かと話せるような心境ではない。一人になりたかった。

 本郷君はまた何かを伝えたいと思ったらしい。身振り手振りで私に何かを伝えようとした。でも無理だったようで、次は背負ってたリュックからA3サイズのスケッチブックを取り出して、油性マジックで殴りつけるように何かを書いて見せてくれた。スケッチブックはこういうときのためにいつも持ち歩いてるらしい。


 君は彼を止めようとしてた

 君は悪くない


 「君はいい人だね」

 おせじでもなんでもなく正直な感想だった。心がつらいとき、人の優しさに触れると泣きたくなるって言うけど本当だ。急に胸に熱いものが込み上げてきて、私はまた膝の上に顔を置いて声を上げて泣いた。


 大丈夫?


 本郷君はスケッチブックの新しいページにそう書きつけた。

 「さっきのは違うけど、私が今泣いてるのは君のせいだ」

 本郷君は何のことか分からず困ったような顔をしていた。

 そういえば、行列の面々は私たちが並んでいたときとすっかり変わっている。もう少しで店内に入れるところで行列から離れてしまった。今から元いた場所に戻りたいって言ってもダメなんだろうな。私はもうパンケーキ屋に用がなくなったからいいけど、私たちのゴタゴタに巻き込まれて行列を離れた本郷君にはパンケーキを食べてほしかった。

 「本郷君には悪いことしたね。パンケーキ食べたかったんだよね。君だけでも行列の前の方に入れるように私から頼んで見るよ」

 本郷君は首を横に振った。

 「今さら恥ずかしがらなくていいよ。私は別に男の子が一人でパンケーキ食べたって笑わないから」

 また首を横に振って、スケッチブックに何かを書きつけた。


 妹に頼まれた

 買って帰りたいだけ


 そうだったんだ。事情も知らず笑い者にしていた悠樹さんはやっぱり馬鹿だと思った。

 「テイクアウト? それならこの店、テイクアウト専用の窓口があるよ」

 知らなかったらしい。悠樹さんに胸倉をつかまれてもそれほど驚いたように見えなかった本郷君が初めて意表を突かれた顔になった。

 本郷君と店内に入り、テイクアウト客用のカウンターに案内した。本郷君は妹さんが書いたと思われるメモをそのまま店員のお姉さんに渡した。ついでに私もテイクアウトで食べやすそうなのを二つ注文した。私たちのパンケーキはほぼ同時にできあがった。

 店を出て、箱から出して一つを本郷君に差し出した。怪訝な顔をする本郷君。

 「お詫びというか……」

 手を振って拒絶された。

 本郷君ならお詫びなんて必要ないと言うと思った。そう言われるのは想定内だったのに、悠樹さんとケンカ別れして精神が不安定になっていたせいか、またボロボロと涙がこぼれてきた。

 本郷君はまた困った顔になってパンケーキを受け取った。そのまま一口にパンケーキを食べてくれた。体が大きいから口も大きいのか、本当に一口で平らげてしまった。


 おいしい


 まっさらなページにたった一言そう書いてあって、なんだかおかしくて私は泣きながら笑ってしまった。


 大丈夫?


 さっきもそう書いたはずなのに、本郷君は同じセリフをまっさらなページにまた書いて見せてきた。それもなんだかおかしくて、笑いが止まらなくなった。

 本郷君は私がさっきからなんで笑ってるか分からなかったみたいだけど、私が笑ってるのを見て安心したみたいだった。

 でも、私はあんまり大丈夫ではなかった。私の脳裏に数時間前の悠樹さんの住むアパートの部屋での出来事がフラッシュバックしていた。


 裸の私の上に裸の悠樹さんが乗っていた。行為の最中ずっと悠樹さんは「最高!」だの「あったけえ!」だの「気持ちいい!」だのと叫んでいた。

 私は君を気持ちよくするための道具じゃない! 私のこの気持ちは悠樹さんに届くことはなく、彼は私の両足を抱えたままひたすら叫び続け、そしてニヤリと笑って私の中で射精した――


 私はまた立てなくなって、持っていたバッグとパンケーキの入った箱を放り出して、歩道に座り込んだ。

 中学の頃、何度か過呼吸の発作を起こしたことがある。高校に入ってから一度もなかったけど、久々に発作が始まってパニックになった。あせればあせるほど苦しくなった。

 誰かが私の体を持ち上げる。軽々とどこかへ運んでいるようだ。救急隊? 私はどこかに寝かせられた。それからほどなく過呼吸は収まった。

 私は公園のベンチの上で横になっていた。毛布のような何かが体にかぶせてある。目の前には心配そうな顔をした本郷君。ここまで一人で私を運んできたのだろうか? 過呼吸くらいで救急車を呼ばれても困るけど、大勢の人たちの行き交う中で放置されるのはもっと困る。とりあえずひとけのない公園に運んでもらえて本当によかった。

 「ありがとう」

 本郷君は手を振った。別にいいよと言ってるようだ。

 本郷君はなぜか薄手の青い長袖Tシャツ姿。白いパーカーはどうしたんだろうと思ったら、私の体の上に掛けられてる、毛布のようだと思ったものが本郷君のパーカーだった。彼は背が高いからパーカーも大きくて、それは私の上半身をすっぽりと覆っていた。

 スマホで時間を確認したら夜の六時を回っていた。もう家で夕食を食べる時間を過ぎていた。ついでにLINEを開いてみたけど、悠樹さんからメッセージは届いてなかった。思わずため息が漏れた。

 パーカーを本郷君に返して、代わりに預かっててもらってた私の荷物を受け取った。

 「君には世話になりっぱなしだね……」

 今度きっと何かで埋め合わせするよ。

 と言いたかったけど、言えなかった。だって、埋め合わせする方法が思いつかなかったから。

 また手を振られた。今日何度めかの〈別にいいよ〉。

 「本当に今日はごめんなさい、というかありがとう。ここからは一人で帰るよ」


 大丈夫?


 今日三度目の〈大丈夫?〉。すでに二度同じセリフを書いてるのに、本郷君はまた新たにその数文字をスケッチブックのまっさらなページに書きつけた。

 「うん、大丈夫。それに、友達でもない人にこれ以上迷惑かけられないよ」

 私がそう言うと、かすかに悲しそうな表情になった。

 いい人なのは間違いない。比べる相手が悠樹さんだからなおさら、言うなれば聖人君子レベルのいい人に見える。

 何も話さない(話せない?)人と恋人同士になるというのは想像できないけど、友達ならアリだろう。

 でも、迷惑かな? 担任の先生の話では話せないんじゃなくて、話せるけど話さないだけということだったから、成り行きで困ってる私を助けただけで、本当は誰ともかかわりたくないのかもしれない。

 聞くだけ聞いてみることにした。何も話さない本郷君を見てると、気軽に声をかけられるというのは私たちリア充の特権なんだなって気がついた。

 「もし迷惑じゃなければ、私と友達になってくれないかな? 本当言うと今一人になるのがキツいんだ。友達に思い切りグチを言いたい気分。君が私の友達になって私のグチを聞いてくれると助かる」


 僕と友達?

 君は僕と違う世界に生きてる人だと思ってた


 生きてる世界が違う? 確かに君は誰とも話さないし、友達はいなさそうだし、ときどきクラスの男子たちに馬鹿にされてるから、少なくともリア充ではなさそうだ。でも、リア充と非リア充が友達になったっておかしくないと思うんだ。君のことを非リア充とか、失礼すぎるから、そんなこと口に出しては言えないけどね。

 「今まで一度も関わったことなかったくらいだから生きてる世界が違うというのはそうなんだろうけど、今、私は君と友達になりたいと思ったんだ。君は誰とも関わりたくない人なんだろうなって思ってた。君さえ迷惑じゃなければ」


 迷惑じゃない

 ずっと友達なんていなかった

 君と友達になれるなら僕もうれしい


 本郷君は次のページにさらにこう書き記した。


 僕は話しかけられても何も返事できないけど

 誰にも話しかけられないのはとてもさびしい


 友達になりたいと思ったのはグチを聞いてほしかったから。われながら身勝手だなって思ったけど、そういうことならあまり気にしなくてもよさそうだ。

 私はグチを聞いてほしい。

 彼は話しかけてほしい。

 二人の願いがいっぺんに叶う。こういうのをウィンウィンの関係と言うのだろう。

 優しい彼は私の家の近所までついてきてくれた。途中、私は悠樹さんにされた身勝手な振る舞いを、そして悠樹さんがどれだけ不実な人であったかを全部ぶちまけた。

 彼に何をどれだけグチったところで、口も利けず友達もいない彼から秘密が洩れることはない。

 今日、生まれて初めてセックスしたこと。セックスしたら途端に悠樹さんの態度が優しくなくなったこと。そのあとのセックスは最初のセックス以上に乱暴で身勝手だったこと。行為の最中の写真まで撮られたこと――

 われに返って思えば裸を見られるより恥ずかしいそんな話を本郷君はいっさい口出ししないで(できないのだけど)最後まで全部聞いてくれた。

 家のそばまで来て本郷君と別れる頃になって、ようやく冷静さを取り戻した私は消えてしまいたいくらい恥ずかしくなっていたのと同時に、余計なことを言いすぎてしまったことを激しく後悔していた。そして、悠樹さんとはもう別れようと心に決めた。

 パンケーキ屋の前で彼とケンカ別れするまで、私は最高の恋人と楽しい時間を過ごしているんだと信じていた。今思えば、そう思い込もうとしていただけだった。そう思い込まなければきっと私の心が壊れていたから。

 私は彼の部屋にいるあいだ恋人として愛されたのでなく、ひたすら性的玩具として彼の欲望を満たすために利用されただけだった。確かに何一つ強制されていない。私が断固として嫌だと言えばすべてを拒むこともできた。でもそのとき私はまだ彼を愛していたし、彼は私が初めて体を許した相手、拒絶して彼に嫌われたくなかった。狡猾で、しかも私と違い経験豊富で手慣れた彼が私の心の未熟さと彼への無条件の信頼を見逃すはずがなかった――

 「私、馬鹿だから、言っちゃいけないことをいっぱい言っちゃった。今、言ったことは全部忘れて!」

 本郷君はうなずいてくれなかった。というか微動だにしない。

 「うなずかないってことはいつまでも覚えてるってこと? まさか今の話を誰かに面白おかしく伝えてやろうとか思ってるの?」

 そのとき私は彼の目から光るものが流れ落ちていくのを見た。

 「本郷君、なんで泣いてるの?」


 友達がひどい目に遭わされたから


 それを見て、私はまた立っていられなくなった。地面に手を突いた途端、声を上げて泣いた。さっき昼間の出来事がフラッシュバックして過呼吸を起こしたときよりも、始末に負えないと思った。悠樹さんに対する怒りはもうなかった。取り返しのつかないことをしてしまった自分自身に対する怒りと絶望だけが、容赦なくいつまでも私の胸を突き上げていた。

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