II.

「……食材のチェックするんじゃないの?」

「あとでいい」


 曲がり気味の背を追いながら、リエリーは店のキッチンを通り過ぎていく。こぢんまりした業務用キッチンは年月を感じさせる汚れをまといながらも、隅々まで掃除が行き届いていてステンレスの光沢を反射していた。

 台に積まれた肉や野菜、調味料などの前を通過し、店の裏口へとレイモンドが出て行く。

 そこは大通りを外れた裏道に面していて、道路を挟んだ向かいの公園では雨だというのに数人の子どもたちがバスケに興じていた。鋭敏な狼耳にそのプレーの歓声を聞きながら、リエリーは立ち止まったレイモンドへ「なに。店じゃ、アタシを叱れないって?」と膨れた声を掛ける。


「お偉方が厄介になっているそうだな」

「……知ってたの。早い老耳ロウジじゃん」


 叩いた憎まれ口に、レイモンドが白毛の目立つ眉をひそめる。


「物騒な連中を見たと、アランがな。あんなもん《シルバー・バレット》を見せびらかして、連中はいったい何のつもりだ? お前さんたちに何の用だ?」

「何日かカシーゴに留まるんだってさ。んで、その間、護衛してほしいんだって」

「だったら向こうのレンジャーに頼めば良かろう? なぜわざわざ郊外にやってくる」

「さあね。アタシ、同行しなくていいってマロカに言われたから、それ以上は訊かなかったけど」

「ふん。公式の仕事じゃないんだろう。お抱えのレンジャーを使わんで、雇いレンジャーに依頼するやり方といい、ウィスブのやりそうなことだ」

「……ロカたちが危ないってこと?」

「お前さんの親父を誰だと思うとる? あいつが敵わんような事態なら、エースが何人いようと同じだ」


 張り出した狼鼻ロッビを鳴らし、レイモンドがマロカの腕を讃える。その自信にリエリーも同意するところだが、それだけではモヤモヤした胸の内は晴れていかない。


「あいつら、インピュアスを撃ったんだ。警告もなしにいきなり。そんなの、許せないっ」


 当時の状況が思い浮かんでリエリーはギリッと歯を嚙みしめる。

 危険な場面だったことは間違いない。事実、リエリーの命はシルバー・バレットに救われたようなものだ。負傷者も一命を取り留めたと、リエリーはルヴリエイトから聞いている。

 が、激しい怒りは変わらない。

 殺す必要はなかった。急所を外せばいくらでも足止めできたはずだ。

 それを思う度、鉄仮面の――バルガリと名乗った女の言葉が頭をよぎる。


 ――優先順位が肝要だ。それを見誤れば、救える命も救えない。


 負傷者を医療センターへ送り届け、駐機場へ帰還したリエリーたちを待っていたバルガリの言葉だ。


「くそっ……! なにが優先順位だ! 人の命を奪っておいて、平気な顔して……っ!」

「親父は何と言っていたんだ?」

「ロカは黙って聞いてたよ。なんにも言い返さないでね」

「何故だと思う?」

「正論だからだろッ? アタシが先走らなければ、あんなことにはならなかった。そんなこと、わかってる……っ。けど!」

「――で、お前さんは言ってやったのか? そのウィスブのもんに、『出しゃばるな』と」

「それは……」


 レイモンドにそう問われ、初めてリエリーは言葉に詰まった。思い返せば自分はバルガリに突っ掛かるだけで、冷静に抗議した覚えがない。まるで駄駄をこねる子どもだ。


「お前さんたちはレンジャーなんだろう? 染まっちまったもんと怪我人を救うプロだ。現場のお前の判断が最優先されると、法にも決められておる。それをはっきり言わんでどうする? ウィスブが相手でもだ。違うか?」


 白眉の下から覗く少し濁ったレイモンドの碧眼が、真っ直ぐリエリーに向けられていた。直視することができず、リエリーは庇を滴る雨に目をやった。

 いつしかバスケの音は消え、厚い雲の下で絶え間ない雨音と、くぐもった都市の喧噪だけが伝わってくる。

 どこか、気後れしていたのかもしれない。

 相手の圧倒的な態度と、命を奪うことに対する欠けらもない躊躇。

 多くの死を見てきたリエリーでさえ、今日のように呆気なく命が奪われる様を目にするのは初めてだった。怖れを抱く以前に、震えが止まらない悪寒だけがあった。

 そこには一片の慈悲もなく、ただという狂った理論しか存在しない。


「――そんなの、アタシは認めない」


 拳を強く握りしめ、リエリーは決意を言葉にした。

 自分は命を救うためにレンジャーになった。

 目の前で失われる命を、ただ黙って見てはいられない。

 ましてや、他者によって奪われる命など、決してあってはならなかった。


「レイじい、ごめん。アタシ、行かなきゃ。今度、埋め合わせするから」

「ふん。終わったら、店の大掃除を手伝え」


 エプロンのポケットから何やら取り出し、レイモンドがリエリーへ放る。宙でキャッチしたリエリーが確かめると、古びた革のキーホルダーが付いた鍵だった。


「これって……」

「体力は温存しておけ。くれぐれもわしの愛機を壊すんじゃないぞ」

「じいちゃんなら直せるでしょ!」


 言い残し、リエリーは裏口横のガレージへ駆け出す。中には年代物の大型バイクが鎮座し、時を経て滲み出る貫禄が醸し出していた。

 手入れに行き届いた革シートにまたがり、キーを差し入れてイグニッションを入れる。たちまち、エンジンの咆哮がリエリーの体を突き抜け、空気を震わした。


「じゃ、行ってくる!」

「用心を怠るな。相手はウィスブだ。お前さんの行動がチームの今後を左右するかもしれん。しっかり考えて動け」

「うん、わかった。サンキュ、レイじいちゃん!」


 レイモンドの言葉を背に受け、リエリーは握ったアクセルを吹かす。


「待ってろよ~、ガリガリ!」


 夕暮れの雨の中を、重低音を響かせてバイクが疾走していく。

 その向かう先には、雲を突く摩天楼の群れが悠然とそびえ立っていた。

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