III.
“風のように”走るのは、気持ちいい。
秋のひんやりした空気が自分の風の層と混じって、駆けて火照った頬には心地よかった。
自宅兼救助艇の〈ハレーラ〉は、街の外れの空き地に駐めてある。
そこから目当ての店までは、徒歩で20分ほど。ユニーカをかっ飛ばせば、その半分で着く。
今、古い住宅街を抜け、朝陽を顔に受けてリエリーはアークビーの大通りに出たところだ。大通り、と言っても、自動車が二台行き交えるだけの小さい規模だが。
「――あ、コービー」
物覚えがついたときから見慣れたモーテル街を駆けていくリエリーの目に、馴染みのある背格好が映り込んでくる。
それは片杖をついて横断歩道を渡るリュックサック姿で、ぽちゃっとした彼の周りを数人が取り巻き、やいのやいのと揶揄う耳障りな声が届いてくる。
「あいつら……っ!」
気づけばリエリーは体が動いていて、リュックサック姿――コービーと、取り巻きの間に強引に割って入っていた。
「よっ! コービー。登校か? 相変わらず、律儀だな」
「うわっ! エ、エリーちゃん!? ど、どうしたの、こんなとこで」
「これからレイモンドんとこ。アンタも寄ってく? あのボロモーテル、またアンテナ壊れたみたいでさ。アタシ、そこんとこ疎いじゃん? 得意なアンタが来てくれりゃ、アタシとしちゃ、大助かりなんだけど」
「い、いまはダメだよ……。ウチはエリーちゃんのところと違って、ホームスクーリングじゃないし……。学校おわったら寄るから……」
「――おい、チビレン! オレ様を無視するとは度胸があるじゃねぇか。
わざと無視していた取り巻きの一人が、リエリーにそう言葉を吹っ掛けてくる。ティアドロップをわずかにズラし、目だけ向けてやると、色違いに狼耳の毛を染めた男子の細い目が睨み返してきた。
「そっ。サンキュ、コービー。終わったら電話して」
「だからシカトしてんじゃねぇ!」
ついに短い堪忍袋の緒が切れたらしい細目――コービーのクラスメイトのジョアンが、リエリーの腕をつかんだ。袖越しにざらついた肉球の感触が伝わる。
若者に流行りらしい、肉球硬化メイクだそうだが、リエリーは嫌いな質だった。肉球は、柔らかくぷにぷにしたものに限る。
「……離しな、カチコチボール。そんな硬てぇ手で女の子の腕をつかむなよ」
「女の子だって? ぷはは!」
下品に笑い出しすジョアンにつられ、他の取り巻きまで下卑た笑いが伝染する。今すぐにでもまとめて反省させたいところだが、そうすると矛先が向かうのはコービーだ。
「いいから、エリーちゃん行こう」と必死な彼は、短いリエリーの在学期間で気の合った数少ない友人だ。
リエリーと真反対で徹底的に諍いを嫌う。だからこうして、学校カーストの最下位が定位置になるわけだが。
ふと、信号の点滅を視界の端に捉え、リエリーは自分の理性を奮い立たせる。
遠く、交差点の向こうからは数台の車が近づいてきており、リエリーの鋭い狼耳が正確にその音をキャッチしていた。
言われっぱなしは癪だが、いずれ機会もあるだろう。なければ作ればいいだけのこと。
そう自分に言い聞かせ、ジョアンの手を振り払おうとしたときだった。
――違うのっ! わたしがやったンジャ……。
乾いた発砲音に続き、怖れで濁った声がリエリーの耳を衝く。
同じく銃声を聞いたらしいジョアンは「なんだっ?!」と、パステルカラーの三角耳を伏せるが、続く声は聞こえていない。
「こいつは……。〈
交差点の商店、ガラス張りのショーウィンドウを突き破って人影が道路へ飛びだしてくる。オフホワイトのコート姿がゆらりと立ち上がり、その手から筒状のもの――拳銃が転がり落ちた。
「――――」
そうしてコートを突き破り、人影の変異が開始される。
数秒足らずで二倍近い身長へ膨れ上がった黒い体躯は間違いなく
「おまえらは逃げろ! コービー、666番通報たのんだ!」
「わ、わかった!」
「マジかよ……。真っ昼間から黒狼なんか出てくるとか……」
「昼も夜も関係ねぇよ! おまえ、漢のなかの漢なんだろ。 避難誘導できるな?」
「あ、当たり前だ! オレ様を誰だと思って……」
「よし、コービーをつれてここから離れろ。近づくなって、周りに言うんだ。いいな?」
指示をジョアンが取り巻きへ伝えるのを確かめ、リエリーはギアの通信をオンにする。
「ルー! 〈ガーフィー商店〉でインピュアス発生! カテゴリは〈テーラ〉だ!」
『了解。すぐ向かうわ。着くまでアプローチしないこと。いいわね?』
「まだユニーカが発現してない! いまなら一人でやれる!」
『待ってエリーちゃん!』
変異したばかりの黒狼は、咆哮したあと地面に蹲っていた。大概、黒狼化したては混乱していて、動きが鈍い。そのときに無力化できれば、ダメージは最小限で済む。
リエリーの耳が聞き取った声の感情は〈恐怖〉。
その感情から黒狼化した者――テーラは、時間が経つごとに深く染まっていく傾向を持つ。さらには追い詰められるほど、狂暴性を増すという厄介な性質まで併せ持つ。
いまなら、周囲の人数は少なく、障害物もない。
「今なら……。うっ……!」
ユニーカ〈激情固定〉を発動しかけ、たちまち頭を貫いた鋭い痛みにリエリーは膝を突いた。昨晩の行使から時間が経っていないせいか、うまく集中できない。
「……だったら!」
手首のユニフォーム起動ダイヤルを回し、腰のポシェットの〈HN〉を確かめる。マロカの特大サイズに比べれば
そう決意し、足に力を入れかけたときだった。
「――だれか! 夫が撃たれたの! 助けて」
悲痛な叫びは、黒狼が飛びだしてきた商店からのもの。ギアの望遠機能を通してリエリーが目を向けると、そこでは血を流し、倒れている男性の傍で狼狽える妻らしき姿があった。
――負傷者だって恐ろしい目に遭っているんだ。それに怪我もしている。強く当たるのは、筋違いだと思わないか?
「――っ」
ふいに、昨晩言われた言葉が記憶をよぎり、リエリーは強く歯ぎしりした。
マロカの言葉は理解できるが、リエリーの中ではいつだって黒狼に心揺すぶられる。今だって、間違いなく負傷者を優先すべきなのに、リエリーの本心は立ち上がろうとする黒狼に向いていた。
「代謝解析。カウントスタート。……70秒か」
ギアに内蔵された生体解析機能を呼び出し、弾き出された数字の少なさにリエリーは逡巡する。
おおよその値とはいえ、その残り時間は命のタイムリミットに他ならない。黒狼化による激しい代謝が限界に達したとき、黒狼は餓死する。
それまでに『直心穿刺』し、鎮静させなければならなかった。
「こっちは……。くっそっ!」
秒を置かず、今度は負傷者のほうへと視線を移す。
ギア越しに伝わる負傷者のバイタルが、急激な悪化を示していた。マロカの到着までにはまだ時間がかかるだろうし、念のためコービーに頼んだ応援要請もすぐには来ない。
逡巡は刹那のことだった。
救うべき命を前に、迷いは禁物だ。
「――〈風陣来仁〉!」
もう一つのユニーカを強引にトリガーし、リエリーの体を渦巻く風の層が包む。ユニフォームの筋力アシストの助けを借り、リエリーは負傷者のいる店内まで一気に跳躍した。
「撃たれたのはどこ?」
「レンジャーキッド?! えっと、ふ、腹部よ! 血が止まらないの!」
「わかった、止血する。あと、ウチのチーム名はチョコレートライトニングだっ!」
目の前へ、瞬時に現れたリエリーの姿に負傷者の妻が驚く気配が伝わった。続けてこぼれた言葉はリエリーのあだ名で、街ではよくそう呼ばれている。いつまでも子ども扱いしてほしくないリエリーにとって好きな呼称ではなく、ついチーム名を咆え返してしまった。
自分への舌打ちを堪え、リエリーは腰ポシェットの止血キットを取り出し、手早く処置を行っていく。ギアには血管や内臓、その他必要な手順がオーバーレイ表示され、リエリーの処置をガイドした。
「弾は貫通してるよ。大きい血管も腸も外してる」
「よかった……!」と、傍で安堵の吐息が漏れ、何やら言葉を掛けてくる気配があった。
が、それは身の毛もよだつ、獣の咆哮に搔き消され――。
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