II.

『エリーちゃん、大丈夫かしら……』


 ため息のようなぼやきをこぼし、ルヴリエイトがテーブルへ腕を伸ばす。

 コンパクトだが使い勝手の良いキッチンに筐体ごと振り返り、備えつけのエスプレッソマシンに手馴れた様子でマニピュレータが大ぶりのマグカップをセット。たちまち立ち上った芳醇なコーヒーの香りが部屋を包んだ。

「サンキュー」と、ルヴリエイトからマグカップを受け取って啜り、マロカが続ける。


「あいつは強い。俺たちが手を焼くほどにな」

『そういうことじゃないわ。わかってるでしょ? あの子は……』

、だろう?」


 引き取って言ったマロカに、ルヴリエイトは肯定の意を示すパターンを筐体に浮かび上がらせる。

 リエリーが痛覚を持たない無痛症だと知ったのは、彼女が9歳の頃だ。救助現場にこっそり紛れ込んでいたリエリーを黒狼が襲い、ユニーカを開花させたリエリーが撃退。

 そのとき、軽傷を負いながら涙ひとつ浮かべなかったリエリーの姿をルヴリエイトはよく覚えている。

 あのときはまるで、自分の意識が引き裂かれるような感覚がした。AIであるルヴリエイトには本来、感じ得ないはずの痛みだった。

 痛覚がないということは、自分が怪我をしているか判断できないということ。

 それはつまり、マロカの言う通り、他者の痛みもわからないということであり――。


『でも、インピュアスの痛みはわかるのよね、あの子』


 そこがルヴリエイトを悩ます最大の問題だった。

 無痛症であるリエリーだが、黒狼化した相手の痛みは知覚できる。それはひとえに彼女のユニーカが原因だと、かかりつけホームドクターは言う。

 だからルヴリエイトは、リエリーにレンジャーなどなって欲しくなく、そのことではずいぶん、マロカとも激しくやり合った。


「リエリーは覚悟の上で現場に出ている。よくやってるよ、彼女は。喧嘩っ早いのは玉に瑕だがな」

『ねぇ、マロカ。ほんとうにこのまま、あの子にレンジャーを続けさせるつもり? あの子はまだ14歳なのよ? この頃、出動も増えているし、何かあってからじゃ遅いわ』

「それがリエリーの望みなんだ。だったら俺たち親としちゃ、望みを叶えてやるのが務めってもんだろう」

『――たとえそれが、間違っていても?』


 鋭く問い質した正十二面体に、マロカはマグカップをカウンターにコツンと置いて答える。


「間違っちゃいないさ。リエリーが黒狼を助けたいって思いも、君があの子を心配する気持ちも。それに、リエリーが闘う術を身につけるのは、あの子のためでもある。なんせ俺は――」


 狼耳の真下、茶黒い体毛に覆われた額をマロカが指さす。正確には、そこに嵌められた銀の円環を。


『――やめて。その話はしないって、約束したでしょ』

「ああ、すまん。だが、だからこそリエリーがレンジャーになるのを俺は認めた。ルー、君の反対を押し切ってでもだ」

『いまの言葉、リエリーに聞かれたら怒るわよ?』

「だからあの子には言わないさ。間違うのは、俺だけでいい」


 濃いめのブラックコーヒーを一口に呷り、マロカが背を向ける。

 山のようなその上背が背負ってきた重荷を知るルヴリエイトには、彼の言葉を肯定してやることも、否定することもできない。ただ傍にいてやることしかできない自分が、AIとしてもヒトとしても中途半端に感じられてならなかった。

 そうしてキッチンの片付けをテキパキとこなす巨躯の姿を見つめていたルヴリエイトの受信箱に、一通のメッセージが届く。


『……マロカ。黒狼救済機関ウィスブのシーカインって人、知ってる?』

「シーカイン? 知らんな。俺がいた頃の顔見知りなんて、もうほとんどいないぞ」

『そうよね。……ねえ、ちょっとギア、見て』


 メッセージを転送したルヴリエイトに促され、布巾を動かしていたマロカの手が止まる。怪訝な顔をしつつも、後頭部へ回しているグラシスギアを装着すると、「護衛依頼だって?」と驚いた声が上がった。


『しかも、ご指名よ』


 ギアを外したマロカの青い瞳が、不思議そうに瞬いていた。

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