IV.
「――見つけたッ!」
分厚いコンクリートの床材を砕いて、茶黒のパーカーをまとったリエリーが、パニックルームから見て天井にあたるリビングの床をぶち抜いて落下する。
大きい破片がそのまま黒狼の頭を打ち、突進の威力を削ぐ。が、黒狼化の作用で硬化した頑丈な躯体に大したダメージは入らず、頭を強打されてなお黒い巨体は、その求めるものへと不格好に伸長した腕を伸ばす。
「慌てんな、よなッ!」
愉しげに咆えて、前転から着地したリエリーが黒狼へと茶色い指ぬきグローブの手掌を突き出す。
同時に、「
普段、鳶色のリエリーの瞳が金色の輝きを増していき、その体はユニーカ行使に伴う得も言われぬ高揚感に包まれていた。
それは、対象の感情を――昂ぶった激情を一時的に固定する能力で、リエリーの
感情の昂ぶりをトリガーに発現するとされる、
リエリーのユニーカ〈激情固定〉は、その異常に高まった激情を短時間だけ、
「グァッ……」
激情を固定された黒狼は、まるでエンストしたように不自然に動きを止め、何もない足元がつんのめった。
さじ加減が難しく、今のリエリーでは数秒程度が限度の能力。――が、その数秒があれば事足りた。
「ロカァッ!」
パニックルームの天井に穿たれた大穴。
黒狼さえも易々と通れそうなその大穴を、茶黒い巨躯が残像を残して降下する。そうして、再び動きだそうとした黒狼の背後へ、ピタリと張りついた。
そして――。
「――
マロカの豪腕に装備された、大口径の銃身。その銃口から、銀色の極細の針が射出される。鋼よりも強固な黒狼の毛皮と筋繊維、その双方を容易く貫通するよう設計された、対黒狼専用威療装備〈
リエリーの腕よりも長いその〈HN〉が、マロカの剛力と速度に後押しされ、長くレンジャーを務めた経験に裏打ちされ、寸分違わず黒狼の――マイケル・ロイスの心臓へと突き立てられた。
「鎮静剤、投与開始」
間を置かず、〈HN〉に内包された専用薬剤が針を伝いダイレクトに心臓を満たし、怒張した血管を経由して全身へ行きわたる。
「――――」
と、あれほど暴れ狂っていた黒狼が一瞬で膝を折り、倒れ伏せた。
が、その一拍前にはマロカの太い腕が差しこまれていて、意識を失った黒狼は粉塵にまみれた冷たい床ではなく、茶黒い剛毛と確かな体温のある腕へと抱きかかえられていた。
「ナイス、ロカ!」
「……リエリー隊員。まずは負傷者を」
咳払いしたマロカに窘められ、サムズアップしていたリエリーが「あっ」と小さく首をすくめる。
あっという間の出来事をただ呆然と床で眺めていたサリーの元へ、リエリーが小走りに駆け寄る。
「大丈夫、サリサリ? いま手当てするから」
「サ、リサリ……?」
手際よく止血をこなしていく、見慣れない小柄なポニーテイルの少女。その口から発せられた単語の意味を理解し損ね、サリーは力なく眉をひそめた。
眼前、作業する少女の腕には、蒼い蓮をあしらったエンブレムがホログラムとなって回転している。そのシンボルは世界共通。この星に住む者なら、知らない者はいないだろう威療士の証〈ブルー・ロータス〉だ。
「リエリー、負傷者をあだ名で呼ぶのはよせって、いつも言ってるだろう?」
咎める声音は、マイケルを無力化した巨躯の持ち主だ。巨躯の低く迫力のある声量と、ひどく黒狼に似た濃色の毛皮をまとい、その上にリエリーと同じユニフォームを羽織っている。
「だってそのほうが楽しいじゃん」
「あのなー。レンジャーの仕事は遊びじゃないんだぞ。俺たちの仕事はな……」
「――命を救うこと。染まった人も、そうじゃない人も、みーんなアタシたちがまとめて救うんだ、でしょ?」
『――二人とも! 救助活動中よ』
サリーには聞こえない通信機からの鋭いルヴリエイトの声に、リエリーとマロカが揃って首を縮める。
が、サリーは巨躯の容姿から目が離せないでいた。
大きく突き出した顔貌に、今しがたの恐怖が脳裏を過って思わず「ひっ……!」と悲鳴が漏れる。
そんなサリーの反応を目敏く見て取った少女――リエリーが、露骨に機嫌を悪くさせる。
「……なに。ロカが怖いの?」
「い、いや……ただ……」
「じゃあなに、染まってるって言いたいわけ? 言っとくけどな、ロカは世界最高のレン――」
「――そこまでだ。リエリー隊員、担架の用意を。それと、もう1名の負傷者の様子を見てきてくれ。こちらは2名とすぐに行く」
有無を言わせない覇気のある声に、リエリーが押し黙る。少し手荒に止血作業を済ませると、そのまま積み重なった瓦礫伝いに上階へ昇り、姿を消した。
「……失礼した。あなたがサリー・ダンバースさんだな? アレシア・ダンバースさんのパートナーの」
巨躯に問われ、ようやくサリーはハッと我に返った。「アレシアは?!」と急き込んで身体を起こしかけ、襲った激痛に息が詰まる。
「じっとしてください。彼女は無事だ。上で手当てしている。これから3人を医療センターへ搬送する」
落ちついた声音で言いつつ、巨躯はもう一度「失礼」と断ってからサリーの傷に目を通す。バスローブをつまむ動作は優しく、触れた巨大な肉球はじんわりと温かい。
「よかった……。あの子、娘さん? わたし、怒らせちゃったようね」
「ええ、まあ。気が強いやつで……。申し訳ない。よく言っておく」
「いいのよ。助けてくれたんだもの。わたしのほうこそごめんなさい。その、取り乱して」
「気にしないでくれ。よくあることだ」
サリーの傷をチェックし、今度はぐったりしたマイケルを片腕で抱えたまま、巨躯のもう一方の太い腕が腰に並んだ三角の装置へ伸びる。
薄暗い照明の下でも鈍い光沢を返すカギ爪を生やした手が、装置をマイケルの背へと宛がった。たちまち半透明の膜が展開し、みるみるうちにマイケルの身体を包みこんでいく。
「あの、マイケルの容態は……?」
「鎮静剤の効果で深く眠っている。これで代謝を落として、急性餓死を防ぐ」
半透明の膜に包まれているマイケルの姿は相変わらず、サリーを襲ったときの恐ろしい黒狼の姿のままだ。が、まぶたを閉じた表情は心なしか穏やかに見えた。
「そう。いつ目覚めるの?」
「なんとも言えない。大方、数日か長くてもひと月ほどで覚醒する。だが一部は――」
「――一生、眠ったままかもね」
すとんと、天井の大穴から小柄が飛び降り、皮肉を隠しもせずにそう言い放つ。「リエリー!」と巨躯が叱咤すると、
「なに? 事実を言っただけ。アタシたちが救った人たちの半分は、まだ眠ってるよ。最近、目覚めない人が増えてるって、ロカも言ってるじゃん」
顔を上げずにそう言い、リエリーは手に持った弧状のパイプのようなものを振り下ろす。パイプは床に当たる寸前で浮かび上がり、独りでに二つのパーツへ分離してホバリングした。
「そんな……っ。何か手はないの? これだけテクノロジーが進んでいるんだから、きっと方法が――」
「――それが
サリーの傍へ歩み寄り、リエリーが自分の肩へ手を回すよう促す。言われた通りにすると、背中と膝の裏へ腕が通され、サリーの身体が軽々と持ちあげられた。
宙に浮かんだ二つの三日月型担架パーツの狭間に薄い光のヴェールが張り、リエリーの手を借りたサリーの身体を受け止める。
そうして浮遊担架に乗せられたサリーはリエリーと、眠るマイケルを肩に担いだマロカがそれぞれ、パニックルームの天井から一階のリビングへと身軽に跳躍する。
「サリー!」
すぐに聞き慣れた声がサリーの耳を打ち、導かれるように視線を彷徨わせると、リビングの片隅、同じく宙に浮いた担架に横たわるアレシアの姿があった。
駆け寄りたい一心を抑え、サリーは彼女の名を呼んで腕を伸ばす。
「アレシア、ごめん。わたしが不用心だったばかりに、あなたまで辛い目に遭わせてしまった」
「ううん。サリーが無事でよかった。もう会えないかと心配で……」
二台の担架を横に並べ、それぞれから送信されるバイタルをリエリーは腕時計から浮かび上がるホログラムで確かめる。
幸い、二人とも急所を外した傷で、命に別状はない。数日ほど入院すれば日常生活に戻れると、豊富なリエリーの経験が告げていた。
「ターゲットおよび負傷者2名を確保。〈ハレーラ〉を回してくれ、ルヴリエイト」
街を一望できる窓辺に立ち、マロカが救助艇の到着を待っている。その逞しい肩に担がれたターゲットに目を移したリエリーは、知らず拳を握りしめていた。
そこへ、「あっちにやってっ! 黒狼なんか見たくない!」と擦れた悲鳴が漏れ伝わってきて。
「アレシア大丈夫よ。マイケルは、このレンジャーたちが倒してくれたから」
「あれはマイケルじゃないわよ! あんなの、化け物よ!」
マロカの肩に担がれた黒い巨体を指さし、アレシアがヒステリックに叫ぶ。
彼女の言葉は至極、まともだ。
黒狼化した者は凶暴になり、見境なく人を襲う。その姿はもはやヒトではなく、ケダモノだ。そんなケダモノに襲われたとあっては、強い恐怖を抱いても不思議ではない。
――が、そういう反応は、リエリーの怒りのブレーキを外させて。
「――化け物じゃないッ!」
ヒステリックな負傷者よりも大きく声を荒げたリエリーに、アレシアはビクッと肩を震わせ、庇うようにサリーが眉をひそめた。
リエリーは強く握った拳をいっそう握りしめ、コーブ照明が照らす下、顔を真っ赤にして怒った。
「あの人たちも人間なんだ! ちょっと怒りっぽくて、牙と爪を剥き出して、荒っぽいけど、それでも人間だ!」
「荒っぽいですって? 私たち、あれに切られたのよ! あやうく死ぬところだったわ! あなた、レンジャーなのに黒狼の肩を持つわけ?」
「人間は人間だッ! 化け物なんて言うな! アタシはレンジャーなんだ……っ!」
泣きだしそうな表情で駄駄をこねるリエリーのその主張は、もはや理屈ではなく感情だ。見かねて「言いたいことはわかるけれど」と、サリーが声を落として続ける。
「人間だからって、人を傷つけていいことにはならない。インピュアスも同じ。免罪符にはならない」
正論を突きつけられ、リエリーは二の句が継げなくなる。
そんなことはわかっている。わかっているが、染まってしまった彼らを『化け物』と、そう簡単に割り切ることがリエリーにはできない。
気まずい空気になってしまったそこへ、割って入ったのはマロカだった。
「じき船が着く。二人は、リエリー隊員と先に医療センターへ」
「ロカはどうすんの?」
「あとから行く」
言い切ったマロカに、リエリーは抗弁の口を開きかける。が、深海色の双眸がそれ以上の言葉を制していた。
突き出た鼻面の上の、深い海色の瞳。
どんなときでも揺らぐことのないその双眸が、いつだってリエリーの追いかける目標だった。
だからリエリーはぐっと言葉を呑みこんで、トレードマークのティアドロップを掛けなおす。窓の外から、高周波のエンジン音が響いてきていた。
「そういえば、まだあなた方の所属を訊いてなかった」
名前を教えてほしいと、二台の担架を押すリエリーへ、サリーが訊く。つい、「請求書で見て」と言いそうになった口を抑え、リエリーは誇らしげに肩のエンブレムを拳で叩いた。
「〈
「ずいぶんスイートな雷光じゃないか」
「な、なんだよ。変だって言いたいのか!」
またしても突っ掛かるリエリーに「いや、すまない」と謝罪を口にしたサリーは、テラスから頭上に見える星空を見上げて続けた。
「ありがとう。チョコレートライトニングの小さなレンジャー君」
「お、おう! レンジャーとして仕事をしただけだ。しっかり宣伝しといてくれよな」
「床を破壊してくれなければ、考えるところだったが」
痛いところを突かれ、言葉が詰まるリエリー。そんな様子を見たサリーが思わず吹き出して、傷の痛みに呻き声を漏らす。心配したアレシアが慌てふためき、救助艇の後部ハッチから筐体を覗かせたルヴリエイトが、リエリーを叱る声が通信越しに伝わってくる。
「……
床に大穴を空けたリビングに一人残り、昏睡状態のターゲットのバイタルを確かめながらマロカがそう独りごちる。
「危険な家業だな、こいつは」
極めて黒狼に似た外見を持ちながらも、その深海色の瞳はどこまでも思慮深い。自嘲気味に鼻を鳴らし、飛び去っていく飛行艇を見送る。
もう一度ターゲットの様子を確認して、静かに巨躯が立ち上がった。背へ固定したターゲットの感触を最終チェックし、深く息を吸いこんだ。
そうして静かに腰を屈め、クラウチングスタートの姿勢を取った。周囲にバチバチと、まるで静電気のような弾ける音が満ちていく。
「――漆黒迅雷」
刹那、見えない号砲が鳴らされ、茶黒の巨躯が駆け出した。向かう先は夜の摩天楼を望む、ガラス張りのテラス。腰ほどの高さの手すりを一歩で飛び越え、黒い巨体を背負ったユニフォーム姿が宵闇の中へと身を躍らせる。
終わらない夜の大都街を、一条の紫電が駆け抜けていく。
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