III.

 ベンチャーキャピタリストという職業は、実に多額の金銭を扱う。それが投資の仕事なのだが、長く優良投資家エンジェルインベスターとして地道に実績を積んできたサリー・ダンバース自身でさえ、ポートフォリオに並んだ桁を冷静に眺めていると、ときどき金銭感覚がおかしくなりそうなときがある。

 一つ確かなのは、その金額をサリーが所有しているのではないということ。

 あくまで、サリーは保有しているのであって、それは流動的だ。すぐに財布から出せる現金とは訳が違う。

 それでも、自分が一般的に裕福と呼ばれるカテゴリに入るのだという自覚はサリーにはあった。

 だからといって贅の限りを尽くすような生活はしてこなかった。禁欲主義という訳ではなかったが、稼いだ金銭は何か特別なことに使いたいと、サリーは常々考えていた。

 婚約者となるアレシアとの出会いは、まさに異なる意味で特別だった。

 自分たち二人は、宇宙が生まれたときから出会う運命にあったのだと確信する相手だった。

 それを祝して何か特別なことをしたい。

 アレシアは、二人でいれば何もいらないと言ってくれたが、感極まっていたサリーは落ちついていられなかった。

 古い友人でビジネスパートナーの不動産屋に相談したサリーは、とあるペントハウスを勧められた。

 改装中だったそこは、偶然にもアレシアと初めて出会った場所にほど近く、二人のオフィスからもそう離れていなかった。

 アレシアと二人、家具から飾る絵画まで念入りに品定めし、念願のマイホームが完成した。

 素晴らしい出来映えだった。この家でなら、ゆくゆくオフィスを移動してきて仕事場にしてもいい。二人でそう話もした。

 ――が、サリーがその話をしたのは、愛するアレシアだけではなかった。


「――マイケル……どうして、こんなこと……」


 ペントハウスの地下、いわゆるパニックルーム――緊急時の避難用の小部屋の壁にもたれたサリーが、絶え絶えの息で言葉をこぼす。腹部を押さえる手から赤い染みが、純白のバスローブをじわじわ染めていた。

 元々、収納場所として使う予定だったここに、サリーが投げこまれたのは1時間ほど前だろうか。出血のせいで意識が朦朧とし始め、記憶が途切れ途切れになってくる。

 それでも覚えているのは、週末である今日、アレシアと休日の予定を話し合っていたときに鳴らされた、来客を報せるベルの音。

 玄関のモニターに映っていたのは見慣れた顔で、奇妙に思いながらもドアを開けた。

 そこに立っていたのは――。


「――アンタノ、セイデ……ボクハ、シゴトナクス」


 サリーの斜向かいにうずくまる、黒い影。膝を抱えているせいで小さく見えるが、その姿勢ですでにサリーの座高よりも高い。

 全身を漆黒の獣毛に包まれた影の頭には切れ目の入った、狼耳ロッジがピンと立つ。黒狼化によって異様に長く伸びた腕が抱く膝に半分、隠れた顔から漏れるヒビ割れた聞き取りづらい嗄れ声が、密室に言いようのない張り詰めた空気を満たしていた。


「だから違うの! オフィスを引き払うって決めたわけじゃいわ。あなたをクビにしようなんて、一言も……」


 痛みを堪え、何度となく繰り返した説明をサリーが再度、黒い影――黒狼化した自分の秘書であるマイケル・ロイスへ、試みる。

 サリーたちの週末の夜を襲ったのは、他でもない信頼できる友人で部下のはずの彼だった。

 ペントハウスへ押しかけてきたマイケルは、ひどく酔っていた。

 10年来の付き合いになるサリーはこんなに泥酔した彼を見たことがなかった。要領を得ないマイケルの主張をサリーが聞いてやっているうち、だんだんと意味がはっきりしてきた。


「センゲツモ、ハナシテタダロウ! ヒッコス、ト!」


 長く黒い腕を床に打ち付け、マイケルが割れたガラスで引っ搔くような耳障りな声を吐きだす。記憶と現実の境を往復していたサリーは巨体の動きにビクリと、身体を震わせた。その蒼白な額から汗の雫がこぼれていく。

 黒狼化してしまったマイケルに、もはや言葉での説得は無意味だった。医学に疎いサリーでも、この状態まで染まってしまった人間が正常な思考をするのは不可能だと知っている。

 何度か話には聞いていたが、黒狼化した人間を間近で見たのは初めてだ。サリーの知っている黒狼のイメージはもっと凶暴で、それなら自分もアレシアも生きていない。今、マイケルの凶刃を受けながらもこうして生きながらえているのが、不思議なくらいだった。


「アレシア……無事でいて……」


 飛びそうになる意識を、サリーは愛する人の名をつぶやいて引き留める。自然と、意識が再び1時間ほど前の記憶に溶けていく。

 泥酔したマイケルを宥めるうち、かえって彼の気に障ったらしく、気づけばサリーもアレシアも床に倒れていた。アレシアへ牙を向けたマイケルに、とっさに「やめて!」とサリーが叫んでいたのは、無意識のことだった。

 アレシアの身に何かあったら、自分は耐えられない。

 仕事人間だった自分に、人のぬくもりを教えてくれたのは彼女だ。たとえ自分が死んでも、彼女には生きていてほしかった。

 幸い、このペントハウスには自動通報システムを取り入れていた。

 自分かアレシア、どちらかのバイタルデータが異常を示せば即座にレンジャーへ通報がいく。そんなことは起きないとサリーは言ったが、アレシアの説得に結局、サリーが折れた。それでも緊急時にプライバシーを覗かれるのは嫌だったから、情報提供にはサインしなかったが。

 密閉性が使命のパニックルームで、救助が来ているかを知る術はない。家では何より愛する人との時間を大切にするサリーが、スマートフォンをバスローブのポケットに突っこんでいるはずもなく、そういえば風呂上がりの自分はバイタルモニターさえ身につけていなかったと、今さら思い当たる。

 せめてアレシアは、と思い返しても失血した脳はキチンと動いてくれない。


「ボクハ……ズット、サリーヲササエテキタ、ノニ――」


 心中を、聞き取りづらい声で吐露していたマイケルが、突如として床へ倒れ伏せる。その意味も理解できないままのサリーの前で、今度はむっくりと黒い巨体が起き上がった。


「マ、マイケル……?」

「――――ッ!!」


 それは、獣の咆哮だった。

 狼耳と人耳。その双方を有する人間ホモ・ルプスの耳には耐え難い、残忍な遠吠え。知性を凍りつかせ、生き物としての本能を強く、強く縛る濁った声。

 その咆哮は純粋な恐怖の波となって、聞く者の自由を奪う。

 そうして、さながら狼の眼前に立たされた羊のごとく、あとは泡を吹く鈍色の牙が襲いかかり――。


「――見つけたッ!」

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