第5話 ひとときのローマの休日
「まあ、今日はゆっくりローマ観光でもして、夜にフィレンツェ行きの列車に乗ればいいな?」
「うん、そうね。交通手段は書いてないから、今度は自力で向かうしかないのかしら」
「ああ、ローマからはトレニタリアとイタロいう鉄道会社があって、どちらも一時間半でフィレンツェに着くそうだ」
「裕くん、よく知ってるわね? 勉強家ね」
「褒めすぎだよ。これくらいは旅行ガイドにも載ってるよ」
「だけど、ローマではオチェアーノさんは何も接触してこなかったわよね? 一体ここでは何が目的だったのかしら?」
「さあ、俺にも分からないな。最初からこの旅の目的すら分からないんだから、
裕星は美羽と二人だけでローマ市内観光へと徒歩で出かけることにした。
ローマは地中海性気候の温暖な土地だ。夏は暑くなるものの湿気が少なくカラリとしている。寒い季節でさえも穏やかで、比較的過ごしやすいのが特徴である。
二人はスペイン階段をゆっくりと降りていった。幅広い大きな階段の途中には、たくさんの観光客や地元市民たちが座って日光浴やらお喋りやらを楽しんでいる。
何をするわけでもないのに、景色の良さと天候の快適さで、そこにいる人々にとってはカフェ以上に
大勢のカップルが幸せそうに手を繋ぎ、肩を寄せ合って座っている横を、邪魔をしないようにそっと降りて行くうち、美羽は足元がふらついてついに階段を踏み外してしまった。
――あっ!
美羽の声を聞くや否や、一段前を歩いていた裕星がいち早く気づき、振り向きざまに美羽の身体をサッと支えた。お蔭で美羽は裕星の広い胸の中にドサリと受け止められ事なきを得たのである。
「美羽はホントにドジだから危ないなあ。ほら」
そういって裕星は自分の左手を差し出した。
美羽は裕星の大きな手をただ眺めていたが、コクリと頷いてそっと自分の右手をそこに差し出すと、裕星はその手をギュッと握りしめ引き寄せたのだった。
スペイン階段を降りてくる異邦人のカップルは、まるで一昔前の映画『ローマの休日』のシーンを見てるかのように美しかった。
しかし、この階段の下にある芸術家ベルニーニが17世紀に造った『舟の噴水』(バルカッチャの噴水)の陰で、見知らぬ人間がカシャカシャと小さなシャッター音を響かせていたことに二人は気付くことはなかった。
二人はまずカトリック教会の総本山であり、世界一小さな都市国家バチカン市国へとタクシーを走らせた。
外観を眺めるだけでもその威厳が伝わって来る。広大な広場から見えるサンピエトロ寺院までの間には、大勢の観光客が行き来していた。
寺院の中で見たキリストを抱くマリア像ピエタはかの有名なミケランジェロの作品だが、教科書で見たときよりも、その質感や表情が細かく見られて感動的だった。
システィーナ礼拝堂にあるミケランジェロの大作キリストの『最後の審判』の前では、美羽は圧倒され言葉を無くすほどの感銘を受けたのだった。
2人がバチカン市国を出てコンチリアツィオーネ通りを少し歩くと、段々、丸い城壁のお城『サンタンジェロ城』の優雅な姿が見えてきた。
そこから先の大きな通りに抜けると、日本人観光客にも人気のブランド店が軒並みならぶコンドッティ通りに出る。
そこから更に曲がってトリトーネ通りに入るとポーリ広場に出る。その通りの先に旅行客に人気の『トレヴィの泉』がある。
コインを後ろ向きで左の肩越しに投げ入れると願いが叶うと言われている人気の場所だ。
一枚投げれば、再びローマを訪れることができ、二枚投げれば大切な人と永遠に一緒に居られて、三枚投げれば今いる相手と別れられるというものだ。
トレビの泉の右側側面には、知る人ぞ知る「愛の水(L’acqua dell’amore)」と呼ばれる小さな水飲み場がある。
この場所の水を飲んだ恋人や夫婦は永遠に別れることなく幸せになれるという都市伝説があるのだ。
すでに泉の周りは大勢の観光客で賑わっていた。
裕星は、ガイドブックに書いてあった伝説に従い美羽と二人二枚ずつコインを投げ入れた。すると裕星は泉の右へと美羽を誘導して、こんこんと水が湧き出ている水飲み場の前で水を片手に取って口に含んだ。
「裕くん、その水って飲めるの?」
「ああ、恋人同士が飲むと永遠の愛が得られるという言い伝えがあるらしい。まあそんなのはただの後付だろうけどな」と手の甲で口を拭きながら言った。
「じゃ、私も」
美羽が両手に水を溜めてゴクリと飲むと、裕星が「あっ、もしかすると、それを飲んだら腹を壊すかもしれないけどな」とニヤリとした。
「え~っ! もう飲んじゃったわよ! 飲めるって、さっき裕くんが言ったのよ!」
頬を膨らませて唇を尖らせている。
アハハハ……と笑って。
「飲料水にもなるみたいだから大丈夫だよ。ただし、硬水だから石灰が多くて腹を壊すこともあるから気を付けろということだよ」
二人は顔を合わせて笑い合った。こんなに笑ったのは久しぶりだな、と裕星は心まで解れるような感覚になった。
美羽と一緒に居るときは、いつも笑顔になっている自分に気付く。どんな女性でもいい訳ではないのが、こういう何気ない時の居心地の良さでわかるのだ。
美羽は超がつくほど純粋で人を疑うことをしない。本気で相手を信じ切るところがあって、それが欠点でもあるが、裕星にとってはとてつもなく守ってあげたい愛おしい長所だった。
ホテルに戻った二人に早速メンバーからメールが入った。
『裕星、美羽さん、今朝のメールだけど、夜、フィレンツェに向かうって、俺たちも一緒で良いんだよね? でもさ、社長が今朝から姿が見えなくて、さっきも電話したんだけど出ないんだよ。もう出かけたのかな?』陸からだ。
『俺も社長に連絡をしてるんだが、先に出かけたようだな』光太が答えた。
『俺たちは観光に行って今帰って来たばかりだ。どこに行くかも聞いてない』最後に裕星が皆に返信した。
裕星はホテルに戻るなり社長の部屋のドアをノックしたが、全く反応がない。やはりもう既に別行動でここを発ったのだろう。
裕星はロビーに降りてフロントに問い合わせた。
「浅加さまよりこちらのメモを承っております」
スタッフが一枚の小さなメモをよこした。
メンバーと大沢が顔を近づけて裕星の持っているメモを覗きこむと、そこには社長の文字で
『用があって先に行く。ケータイのメールのやり方が面倒だから置き手紙にした。俺は一人で行動するから気にせず先に行きなさい』とだけ書いてあった。
「社長の事は気にするなってさ。ここに誰か知り合いでもいるのかな?」
陸がブツブツと独り言を言うと、「まあ、社長が大丈夫だと言ってるんだから、俺たちは今夜、残りの6人でフィレンツェに向かおう。社長は海外に友人が多いから、きっと他に用事があるんだろう」
裕星が陸の肩に手を置いて安心させるかのように言った。
裕星たちは午後7時過ぎ、皆はテルミニ駅の構内にいた。鉄道会社イタロの赤い特急列車に乗り込むと、ClubExecutive(クラブ・エグゼクティブ)と呼ばれる赤い革張りの特等席に向かった。
優雅にもパーソナルスクリーンを見ながらスナックや飲み物のサービスまである特別席だ。
ほんの一時間ちょっとの優雅な列車の旅はあっという間に過ぎ、一行はフィレンツェに到着したのだった。
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