第3話

親愛なる兄上様


 あと一日というところにきて、リャイパ使いの兄弟に異変が起こりました。

 正確には、弟の体調不良に起因する兄弟喧嘩であります。


 この兄弟、兄はリーウー、弟はケレと呼ばれていますが偽名ではないかと私は疑っております。

 リーウーはともかく、ケレは『芋虫』を意味します。いくらなんでもこんな酷い名付けをする親がいるのか。それに彼らは『雇われた』と聞きましたが、報酬の話は聞いたことがありません。楽士たちの話をそれとなく聞いておりますと、どうもわずかな塩や麦と引き換えにされた、つまり実質的には『売られた』のではないかと。

 貧しい地方にありがちなことです。事情を知ったところで私にできることは何もない。詮索はしませんが、良い気分ではありません。


 兄弟の弟、ケレはひどく痩せて顔色も悪いのですが、困ったことに彼はほとんど食べ物を口にしません。水ばかりを欲しがります。

 何かの病ではないかと心配です。

 旅の携行食といえば干し肉やガガ・ワチというおそろしく硬い麦焼きばかりですから、体調の悪い子どもが食べたがらないのも無理ないですが。


 夕食の時間、リャイパの列の中から兄弟の声が聞こえてきました。

「ほら、乾乳をもらってきた。これなら食べれるだろ」

「いらない」

 乳白色の小さな欠片を前にケレは首を振り、頑として口を開こうとしません。

 業を煮やしたのか、兄のリーウーがいきなり弟の鼻をつまみ上げました。そして反射的に開いた口の中に乾乳を放り込み、頭ごと地面に押さえ込んだのです。そんな乱暴な、と止めようとした私に構わず、リーウーは暴れる弟を押さえます。

「く・え・よ! 噛まなくても口ん中で溶けるから、そのまま飲み込め!」

 兄を睨むケレの翡翠色の眼には、みるみる大きな涙の粒が浮かんできました。それにひるんだのか一瞬力を弱めた隙に、リーウーの顔に口の中のものがベッと吐きつけられました。

「あ、汚たね! 食いもん無駄にしやがって。クイネ御婆なら拾って食えというぞ!」

「御婆は無理やり食わせたりしなかったもの!」

 ケレは身をもがいて兄の手を逃れ、そのまま地面に突っ伏して泣き初めました。

「あのなあ……」

 地面に落ちた乾乳とケレを代わる代わる見て、リーウーは頭をかきむしりながら弟の傍にしゃがみ込みました。

「食わないと死んじゃうんだぞ。死んだら聖都にだって行けないぞ。おまえ、父ちゃん探したいんだろ?」

 兄の言葉には応えず、ケレは泥に顔を汚しながらただ泣きじゃくっていました。


 訳ありの兄弟であろうとは思っていました。しかしこの違和感はなんでしょう。

 リーウーのケレに対する態度、あれは『弟』に対するというより……

 

 翌朝、日の出前に抜け出す小さな影たちがいました。

 リーウーがケレを背負って、我々が野営の風よけにしていた丘を登っていきます。

 私は心配半分、疑念半分でそっと後をついていきました。

「間に合った。おい、ここなら布を解いてもいいぞ」

 リーウーがケレを降ろし、頭布を解いてやるのが見えます。


 地平線に赤い太陽が昇る時間です。

 と、ケレの髪が緑色に輝くのが見えました。こんな髪色は見たことがない。背中に垂れていた長い緑の髪は、風に煽られ日の光を浴びると、それ自体が生命を持っているように舞い始めます。するとそれまで弱っていたはずのケレが顔を上げ、太陽を礼拝する小動物のように両手を拡げて立ち上がりました。緑色の髪はますます輝き、色を濃くしていきます。

 私は岩陰に隠れながら、息が詰まりそうな驚きと動悸を押さえるのに必死でした。翡翠児、という単語が脳裏に浮かびます。

 全身が緑色をした、翡翠児と呼ばれる子ども。ある地域では忌まわしい子、ある地域では幸いをもたらす子として語り伝えられる。動物質の食べ物を受け付けず、流動食しか口に出来ない子ども。それゆえか身体が弱く、十を超えて生きる者は少ない。しかも翡翠児の特徴が現われるのは必ず女児……だとしたらケレは。

 文献でしか知らない断片的な知識を総動員し、あらためて輝く緑の髪を見ますと、驚きは確信へと変わっていきました。私の違和感は間違っていなかったのです。


 夜明けの強い風の中、二人の子は『リウシャ』『ケーニャ』と呼び合っておりました。それが本当の名なのでしょう。

 ですが、なぜ子どもだけで旅になど。しかも帯剣した男ばかりの楽士団に、リャイパ使いの兄弟を名乗り加わるからには、それなりの重い事情と覚悟があるのかもしれません。幸い、旅の間は身体を洗うどころか着替えの習慣はありませんが、ここで見たことは楽士たちには言うまい、そう心に決めて、私は静かにその場を離れました。


 その夜、お節介だとは思いながら、私は自分の携行食の中から豆の油脂で固めた板粥をケレに分け与えました。これなら少しずつ唾液で溶かして食べられます。

 ケレは大きな翡翠色の瞳でこちらの心を伺うようにじっと見つめていましたが、やがて奪い取るように板粥を手にすると、少し離れた場所で背中を丸めて齧り付きました。礼の言葉を期待したわけではありませんが……まるで人に慣れない小さな獣を見るようでした。


 日が暮れました。

 報告はまた明日の文にて。


 貴男の忠実なる弟

 ヤーゲイ・ガナル 拝

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