第二十話 ハインリヒ
「さて、次は――元近衛騎士団長のハインリヒか。先生の知り合いか?」
「答えられません。仮に知ってても、紹介とかはできませんよ?」
「だよな」
ナインは予想通りの返答に頷いて、街の通りをぶらつく。
しばらく色んな店を観察し、パンを売っている噂話の好きそうな中年女性に目を付ける。
「なあ、おばちゃん。ちょっといいか」
「こんにちは。旅の人かしら。おすすめは取れたてのベリージャムを塗った白パンよ」
「へえー、美味そうだな――俺、闘技大会を見に来てさ。ハインリヒっていう男の人が優勝候補だって聞いたんだけど、おばちゃん知ってる?」
「ハインリヒ様ね! それはもう、よく知ってるわ。よくここのパンを買っていってくださるのよ」
「そうなんだ。そんなに美味しいなら、俺も一個もらおうかな。だから、もうちょっとハインリヒ様について教えてくれよ」
ナインは小銭を手渡し、代わりにジャムの挟まれたパンを受け取る。
「お買い上げありがとうねー。あのね。ハインリヒ様は、すごい美形なのよ! もちろん、元近衛騎士団長だからとっても強くて、王都を襲ったドラゴンを退治したこともあるのよ!」
パン屋が饒舌に語り始める。
「ほう。ドラゴンスレイヤーか! そいつはすごいな!」
ナインは大げさに驚いてみせた。
ドラゴンと言っても、B級の亜竜かA級以上の本当のドラゴンかで話はだいぶ変わってくるのだが、まあ、この場合はB級の方だろう。
A級以上のドラゴン討伐は数十年に一度レベルの偉業であり、それならさすがにナインの耳にも入っているはずだ。
「そうでしょ! 戦争さえなければねえ。聖女様と結婚して、さぞ素晴らしいお世継ぎが産まれたんでしょうけどねえ……」
パン屋が悲しげに言う。
「へえ、聖女様とハインリヒ様はそういう関係だったのか」
「そらそうよ! ハインリヒ様は聖女様の婚約者だったんだから!」
パン屋が口に手をあてて、声をひそめる。
これはいい事を聞いた。
やはり、アイシアと関係があったらしい。
これは利用できるかもしれない。
「そうかー。まあ、世の中はままならないものだな」
そう相槌を打って、ジャムパンを口にする。砂糖をケチっていないし、かといって闇雲に甘い訳でもなく、適度な酸味があって美味い。パン本体も値段にしては柔らかい。
「本当ねぇ。――とにかく、ハインリヒ様の闘技大会での活躍が楽しみよ。おばちゃんもハインリヒ様の試合は仕事を休んで見に行っちゃうわ」
パン屋が声を弾ませる。
「そうか。これはハインリヒ様で間違いなさそうだな。それで、どこに行けば彼と会えるかな。今の内にサインをもらっておけば酒場で自慢できる」
「あら、気持ちは分かるけれど、それは難しいんじゃないかしら。ハインリヒ様は今、教会の奥で戦勝祈願の勤行に励んでいらっしゃるから」
「マジかよ。教会に
「そうなのよ。信心深くて、真面目なところがまた素敵でしょう」
パン屋がうっとりとした顔で言う。
ナインはパンを食べ終わるまで会話を続けたが、それ以上の情報は出てこなかった。
「一応、言っておきますと、さきほどの女性の話は嘘です。市井の願望混じりの噂話の類ですね。私は聖女に産まれた時点で、誰であれ結婚をするという選択肢はなくなりました。純潔性を維持が聖女の力の要件ですから」
パン屋を離れると、ナインが聞いてもないのにアイシアが語ってきた。
「それは教えてもいいやつなのか?」
「生徒が誤った情報を学ばないように訂正するのは教師の義務ですから」
「ふーん」
「それで、どうしますか? さすがのナインくんでも教会に押し入る訳にはいきませんよね?」
「ああ、そんなことをするつもりはないし、する必要がない。ハインリヒの方から来てもらえばいい」
「え、ハインリヒの方から? ……どうやってですか?」
「簡単だ。元王女のアイシア名義で手紙を書いて呼び出す」
「……私名義で? つまり手紙を偽造すると?」
「ああ」
「躊躇なく頷きましたね……。でも、それは難しいでしょう。ナインくんはまだ筆記体の書き方をちゃんと身に着けていませんよね。もちろん、私は協力しませんし」
「知ってる。だから、これだ」
ナインはリュックの中から、さらに小袋を取り出し、中身を開いて見せる。
「ええっと、新聞のスクラップ? いや――違いますね。もしかして、テストやプリントの切り抜き? あっ、これ、私のコメントのところだけ集めたんですか!」
無造作に詰め込まれた紙片を覗き込み、目を見開く。
「ああ、先生の解説は丁寧で長いからサンプルが多くて助かる。これをなぞり書きして組み合わせる」
「そうですね。ナインくんの答案は特にたくさん直すところがありますからね」
アイシアが頭痛を堪えるように眉間を指で押さえる。
「成績が悪くて良かったぜ」
「誇らないでください! ――あらかじめこのことを想定して用意しておいたんですか?」
「確証はなかったけど、先生の故郷だからもしかしたら使えると思ってな。紙なら大して重くないし」
「でも、ハインリヒも愚かではありませんよ。いくら筆跡を偽造できても、それだけでは動きません。何かしら証拠がないと」
「おう。だからこれを使う」
ナインは小袋から小枝を取り出す。
その小枝には、銀糸にもにた細長い髪が巻き付けられている。
「え、え、そ、それ、まさか、私の髪の毛! どこで!?」
「先生の授業終わりの教卓とか、野宿した後とか、ちょくちょく漁って抜け毛を集めておいた」
聖女の髪は、魔術の有用な触媒となり得る。錬金術師とかとの交渉に使おうと思って持ってきていたのだが、まさかこんな形で役に立つとは。
「な、ナインくん! マイナス100アイシアポイントです。そんなことをされたら普通の女の子なら百年の恋も冷めます」
アイシアが顔を真っ赤にして、髪を守るように頭を抱えた。
「あ? むしろそこは加点だろ? 先生いつも言ってるだろ。『知識は実践して初めて自分の血肉となります』って。だから、俺はマリシーヌを勧誘する時に勉強した宮廷式マナーの知識を活かすことにした。宮廷では、貴族の女が騎士を戦場に送る際に、自分の身体の一部――髪や爪などをお守りにして渡す習慣がある。そうだな?」
「そうですけど――まさか」
「ああ。『元婚約者のアイシアが、結ばれない運命とは分かりつつ、ハインリヒの闘技大会の優勝を祈念するお守りに想いを託す』。安い小説にありそうじゃないか?」
ヘレンやシックスが好きそうな話だ。
「ですから、婚約者ではありません。それにハインリヒも宮廷の政治を生き抜いた身。政治勘はあります。確かに外形上は彼を騙せる条件は整っていますが、そう簡単に出し抜けると思わない方がいいですよ」
「先生。騎士っていうのはさ。九割の疑念があっても、一割のロマンに賭けたい生き物なんだよ。知ってるだろ?」
肩をすくめる。
ナインは戦場でたくさんの騎士と戦った。
騎士は強い。
だが、愚かだ。
奴らは忠義と正義に縛られている。
「……人の誠実さを利用することに罪悪感を覚えませんか?」
「そう言われても、法律には反してないよな。学則にも反してない。これが『曖昧』の使い方だろ?」
「違います」
「違うのか。難しいな――よし、じゃあさっさと宿を取って手紙を書くか」
「宿についての情報は集めないんですか?」
「それについては、ヘレンがおすすめの宿のリストを書いてくれてある」
旅のしおりを流し読みして言う。
光の教徒は巡礼で世界各地を回ることも多いため、宿の情報に詳しい。
信用してもいいだろう。
ナインはリストの中から、中級クラスの宿を選んで部屋を取る。
アイシアとは別部屋にする予定だったが、闘技大会前で混んでいるので、相部屋となった。
宿で筆記用具を借り、偽の手紙を作り、封筒にしまう。
ナインはその封筒を、そこら辺で遊んでいた子供を何人かリレーさせ、差出人が分からないようにして、郵便ギルドに手紙の配達を託す。
「ハインリヒをどこに呼び出したんですか?」
「そこな。これが難しいんだよな。先生のキャラ的に浮かれた華やかな場所には呼び出さなさそうだからな。人目につく場所もおかしい。ということで、墓地にしといた」
「ナインくんの私のイメージってそんな感じなんですか……。いや、でも、うーん」
アイシアが困惑顔で腕組みする。
「さーて、後は適当に酒場を巡って、元王女がナンバーズと一緒にこの街に来ているという噂を流すか」
実は今回の偽手紙で呼び出したいのはハインリヒだけではない。
一石二鳥を狙わせてもらう。
「ナインくん、心なしかウキウキしているように見えます」
「まあ、正直ちょっと楽しいよ。久しぶりに戦ってるって気がする」
もちろん、法律に従うとか眠たいことを言っている時点で、本当の戦争とはなり得ない。
せいぜい、仲間内のお遊びの演習レベルの話だ。
それでも、ナインはあらゆる盤外戦術を活用して勝ちに行くこの感覚が好きだ。
「ナインくんはひどい人ですね。もし私が死んだら化けて出ても知りませんよ?」
アイシアが冗談めかして言う。
「墓地だけにか? 元聖女のリッチはかなりヤバそうだな。でも、利用できるものは全部利用する。先生がこの街にどんな思いを抱えてようが、俺には関係ない」
「今日のナインくん、優しくないです。悪い子です。そんなんじゃ女の子にはモテませんよ? マイナス5アイシアポイントです」
そう言ってむくれるアイシアが、ナインにはなぜか少し楽しそうに見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます