第十話 マナー講師

 こうしてヘレンとパーティを組むことになったナインだったが、それでも大きく生活が変わることはなかった。


 なぜなら、戦試組と入試組ではカリキュラムが違うため、授業中の二人に接点はないからだ。なので、ナインは相変わらずボッチのままであった。


 それでも、こうして放課後に一緒に勉強する人間が出来たということは、アイシアに言わせれば一歩前進ということになるのだろう。


「見かけの数字では左の方が大きく見えまするが、これはまやかしにございまする。つまり、いかにロングクロードッグが大群の仲間を呼ぼうとも、無限に分裂せるスライムには及ばざるがごとし」


 木と墨の匂いが充満する図書館の一画にあるテーブル。


 ヘレンが声を落として言った。


 彼女は今日も修道服。戒律がどうとかでヴェールを下ろしているので表情は見えない。


「おお、そういうことか。わかったわ。マジで教えるの上手いな」


 ナインは手元の藁半紙に視線を落とす。


 2×1000と2の十一乗の大小を比較する問題。


 納得して2の十一乗の方に○をつける。


 ヘレンとは出会いの印象が最悪に近かったので不安だったが、興奮させなければさしたる問題はなかった。


 ただ、どこにその興奮へとつながる罠が潜んでるか分からないのが厄介ではあるが。


「お褒めに預かり光栄にございまする。命を救って頂いた恩に比べれば些細な礼でございまする」


 ヘレンはそう言って、手元の分厚い本をめくる。


 闇の魔術関連の本らしいが、難しすぎてナインにはタイトルすらまともに読めない。


「まあ、そうかもしれないが、バカに教えるのはつまらねえだろ? 悪いな」


 戦試組と一般入試組では筆記試験の難易度が違う。


 ナインは勉強は苦手だが、仮にこれが戦闘訓練ならばあまりにも実力に差がありすぎる相手とやりやっても時間の無駄にしかならない。


「お気になさらず。人に教えることで気付かされることも多うございまする故。それに、愚僧の見た所、ナイン殿は決して愚かな種ではございませぬ。ただ、たまたま撒かれた土壌が悪かっただけのことでしょう」


「そうか? とにかく、やっぱり勉強と戦いとは違うな。――なあ、ヘレン。お前、頭良さそうだから、一つ質問していいか。筆記試験に関係ない事だけど」


「もちろん、愚僧に分かることならば喜んで」


「どうやったら、『曖昧』ってやつを手っ取り早く学べる?」


「『曖昧』でございまするか?」


「ああ。先生にそれを学べって言われてるんだが、どうにも掴みきれなくてモヤっとする。――えっと、数学風にいうと、今は帰納法的に『曖昧』を学ぼうとしてるが、めんどくさいから演繹法的にやりたい」


 ナインは覚えたての言葉を使ってそう表現した。


 いくつかの『曖昧』の具体的事例は体感したが、その全体像は未だつかめない。


「ふむふむ。ふむふむ! なるほどなるほど。それならば容易きこと! 『曖昧』を極めるには、マナー儀礼を学ぶことこそ肝要! まさに愚僧の得意とするとこにございまする!」


 ヴェールの奥の目がぎらつく。


 まさか、こんなところにも罠が。


「そのマナーを学べば、『曖昧』が分かるのか?」


「然り! してならぬことはすでに法律と聖典に記されておりまする。そして、『曖昧』――つまり、守らずとも罰せられはしませぬがした方が良いことはマナーとして定められておりまする! 戦場では鎧と剣にて武装するがごとく、街においてはマナーにて武装すべし! さすれば他人に侮られることなく、精神的な優位を取れること必定! いかな権力者も富貴者も儀礼なくばただの獣に過ぎず! ――こほん。失礼」


 ヘレンの興奮が、通りすがりの司書に「図書館ではお静かにー」と注意され、沈静化する。


「そういうものなのか……」


 アイシアならば、マナーを学べということなら、まどろっこしい言い回しはせずにそういう気がする。彼女が分かりにく物言いをする時は、それ以外に表現できない時だけなのではないか。そんな思いが頭をよぎる。


 だが、自分より賢いヘレンが言うのなら、彼女の言うことの方が合っているのかもしれない。


 ひとまずそう結論付ける。


「ともかく、マナーを知っていて損はありませぬ。敢えて無視するにしろ、知っていてそれを破るのと最初から知らぬのでは人としての重みが違ってまいりまする」


「でも、マナーっていっても、色々あるだろ。俺には全部を学んでる暇はないぞ」


 普通の勉強についていくのにさえ苦心しているというのに。


「アイシア先生が出された課題なのでございまするな? 然らば、愚僧は王国式の宮廷マナーを学ぶことをお勧めしまする。アイシア先生は元王女なれば」


「その前に、教師と生徒のマナーじゃないのか? 昔は知らんが、今は先生だろう」


「ごもっとも。されど、教師と生徒のマナーに関しては、さほど多くの決まりがある訳でもなく、しかも、すでにナイン殿は十分に守っておられるとお見受け致しまする。教師の全てを吸収せんとするが生徒のマナー。今まさに、アイシア先生の課題に挑もうと腐心されておられる時点でナイン殿は良き生徒でございまする。故に次点のアイシア先生のバックボーンに合わせられるがよろしいかと愚考致しまする」


「わかった。俺にはよくわからないジャンルの話だし、ヘレンに任せる」


「承りまする。愚僧もちょうど王国の宮廷式マナーを勉強中の折故、良い機会となりましょうや」


「おう。頼んだ。代わりに、俺もヘレンのために一肌脱ぐぞ」


 試験の勉強をみてもらうのは命を助けた礼だが、ここまでしてもらうとなると、ナインも何か返さねばなるまい。


「ふひょ!? ひ、一肌、そんな人前で……。いや、しかしたくましい裸の男性像は古来より立派な芸術――然らばそれを鑑賞すれども決して色欲の罪にはあたらぬ……」


「また何か勘違いしてないか? 闇魔法の習得を手伝うってことだよ。多分、闇魔法は光魔法と逆でさ、本で勉強してもだめなんだ。表に出てこないようなアングラの魔法使いを見つけて直接習った方が早い」


 ナインの経験則上、闇魔法の使い手で学校に通っていたような秀才タイプはいない。


 今日のパンを得るため、時には流血の戦場で生き残るために必要が生み出す実践の魔法である。


 学院には闇の魔法を教えられる教師が不足しており、しかも戦試組の生徒への授業が優先されるため、中々ヘレンの順番は回ってこない。


「そ、そういうことでございまするか。承知。なにはともあれ、パーティを組んだからには共に助け合って参りましょうぞ」


 ヘレンはそう言って、謎の印を切った。


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