10:self
「ただいまぁ」
家に着いたのは九時頃だった。今日は遅すぎず、早すぎず、ってところかな。
「あ、おかえんなさい」
ダンガリーシャツにデニムのロングスカート。その上にエプロンをかけた
……合ってるからな。
「腹減ったぁ。何かある?」
例によって苦労しながらブーツを脱いでおれは言う。一応
「うん、ちょっと待ってね、すぐ作るから」
そう言って涼子は冷蔵庫を開け、入り用なものをてきぱきと出し始める。なんと言えば良いのか、涼子さんはこと家事と呼ばれる作業になると滅茶苦茶手際良く、てきぱきと動く。普段のペースはスローペースなんだけれども。どうした、何があった、ってくらい動きのレベルが違う。
「え、今から作るんならいいよ、悪い」
「平気平気。すぐ作るよ」
何かあれば、って意味で言ったんだけれども、だとしても涼子さんの厚意を無駄にはするつもりはないし、涼子さんの手料理はいつだって間違いなく旨い。
「先にシャワー浴びちゃってくれれば助かるけど」
「んじゃ、へぇる。簡単なものでいいから」
おれは風呂場に向かいながら涼子に言った。涼子は頷くとフライパンを火にかけ、温め始めた。
「ふうぉー!すっきりさっぱり!」
パンツ一丁で頭を拭き拭き風呂場から出た。途端に香ばしいソースとケチャップの香りが鼻孔をくすぐり、我が腹に棲む一匹の獣が咆哮を上げる。つまりこれは、ハンバーグ!
「あっ、もう……。ご飯食べる?お酒にする?」
「ビールがいいかな!飯粒食うほどでもないし。一緒に呑も」
涼子はパンツ一丁のおれを見て、すぐに視線を逸らしながら言った。赤面してるところがまた可愛い。そりゃあ婚約者ですもの。いわゆる恋人同士が営むらしきことは人並みに営んできましたけれどもね、それでも殿方の裸、というところで恥ずかしがってしまうあたり、いつまでたっても純な奴よのうクックックッ。とか言ったら多分やり返されるから絶対言えないけど、それがとてもすごく可愛くて可愛いじゃないですか。
「うん。じゃ私もシャワー浴びちゃうね。先食べてて」
「あーい」
そう言って涼子は風呂場に向かった。おれは冷房の設定温度を下げて、涼子の作ってくれたハンバーグをつまみ始める。
うんまぁーいっ!
「あっつぅーいっ!」
風呂場から涼子の叫び声が聞こえてきた。うちのシャワーはいったん止めてしまうと出初めがかなり熱くなる。それが判っていながら涼子はいつも同じことをしちゃうんだよなぁ。あぁ、とてもすごく可愛いくて可愛い。流石は涼子さんなのです。
涼子が出てくるまでの間、ノートを広げ、昼間の美樹さんとの会話を思い出しつつも、色々と考えを巡らせる。
おれ以上のベースなんてその辺にゴロゴロしてるはずだし、だからこそ
じゃあおれらしいところとは何か。おれは何をしたいのか、おれの大切なものは何か、おれの過ごした時間の重さはどれほどのものなのか。答えは幾つかある。一つに絞るには難しすぎる。それを詞にする、曲にするったって、おれは美樹さんと同じじゃない。そこから曲ができ上がる訳もない。だけれど、雰囲気だけは何か掴めてくる。いつもの愛器ではなく、今日はギターを抱える。ベーシストのおれでも作曲するときはギターなのですよ。
「ほぉーん……」
悩ましい!良いんだよコード進行はある程度予定調和的な流れだって。アレンジはもちろん各パートに任せるつもりだし。だからまずは骨子創り。そのコード進行がさ、もはや行き詰まるっていうね!
「ふー、いい気持ちだった」
涼子がシャワーを終えて出てきたようだ。バスタオル一枚身体に巻いただけで、色っぺぇことこの上ないったらもう。濡れた髪が童顔の涼子でもちょっと大人っぽく見えちゃうのがまたさ、堪んないよね!
「そーゆー色っぺぇカッコで出てくると襲っちゃうぞ」
「いいよぉ、たかだったら」
「なぁっ!ば、ばかたれぇー!」
あぁ!まんまとやり返された!顔面が熱くなってくるのが判る。涼子はというと、言葉とは裏腹にキチッと胸元の辺りを押さえている。ちきしょう、も、もう本当にやっちゃうぞ!いきなりプロになっちゃうわ、結婚式の準備はあるわで忙し過ぎて御無沙汰してることだし……。
「あ、赤くなってる。いつまでも純情な奴よのー」
や、待て待て。落ち着きなさい
「ビール呑も、貴」
そう言って、涼子は冷蔵庫から缶ビールを二本出して、一本をおれに渡してくれた。
「さんきゅ」
ちょっと残念だけど、涼子だって本気じゃないしさ。あぶないあぶない。ホント、あぶないオブあぶないよ、おれ。
「詞、書いてるんだ。決まったの?どういうのにしようか」
「漠然」
おれはビールを喉に流し込みながら、横目でちらりと涼子を見る。涼子は白い喉を鳴らしながら、ビールを呑んで、にこにこしている。胸元のバスタオルはきっちりしてるけれども、このバスタオルの下には涼子さんの柔らかくてすべすべな白い肌もうやめとこうちゃんとしゅうちゅうしよう。そうさ、したくなったら素直にしたいって言えば良いんだ。今はまだ我慢できるんだおれは。
「わぁもう!早くパジャマを着なさい!気が散るでっしょうが!」
「はぁい」
イタズラっぽく涼子は笑って、寝室に姿を消した。まさかとは思うけど誘ってた訳じゃないだろうなぁ、涼子の奴。もしもそうだとしたら……。
「お、襲いに行っちゃおうかな……」
「あ、何か聞こえた。近付くのよそうかな」
ええ、さっきいいよって言ったのに……。
「じょ、冗談冗談」
ちぇー。
さしあたって、コード進行は何とか組み立てた。良い進行を思いついたら変えるけど、とりあえず歌詞だ。キーワードになりそうな言葉をガンガンと書いてみる。いざ引き抜こうって時はきっと大変だろうな。青臭くなるだろうな。恥ずかしいだろうな。見せるの嫌だな。
でも良く考えてみたら唄ってそんな青臭いことでも平気で歌詞ににしてるよなぁ。
……でも、判るんだよ。歌にしちゃえば言えるっていう気持ち。だって本当に伝えたい言葉なんて、口にするのも恥ずかしいけど、だけれど、当たり前の言葉でしか伝わらないんだから。だから唄にその言葉を託して、みんな唄うのかもしれない。
だから、唄が愛されるのかもしれないんだ。
唄に想いを込める、ってことは、その曲に生命を吹き込むこと。どこかで聞いたことのある言葉。おれは口に出してそうは言えないけど、本当に大切なことなんだと思う。美樹さんと話してても感じたことだ。そうだ、今日美樹さんと会ってたこと言わなくちゃ。
「涼子」
「ん?」
「おれ、今日練習行ってないんだ」
「判ってる。ベース置きっぱなしだったもの」
あぁそっか。そうだよな。
「それにサンドウィッチのお皿もきれいに洗ってくれてたし、パジャマもちゃんと畳んであったし」
い、いや、時間があればちゃんとやりますよ、平時でも。今日だってハンバーグ食べたらお皿は洗うし!フライパンも洗いたいけど、涼子は料理中でも使い終わった器具を洗わないと気が済まないらしいので、フライパンを使い終わったら、鍋で何かをゆでつつもフライパンを洗ってしまう、料理に至ってはスーパーマルチタスクをこなすお人なのです。
「それでね、光夜から電話あって……」
朝からの行動をかいつまんで説明する。光夜からの厚意で岬野美樹さんに会ったこと。美樹さんと様々なことを話す間に、とても良い刺激を受けたこと。
「なるほど……。光夜さんが気遣ってくれたのね。あとはたかがそれをどう生かすかってことよね、それは」
「仰る通り」
涼子さんの洞察力は流石だなぁ。もはや苦笑するしかない。
「で、奇麗だった?美樹さん」
「そりゃあもう。ま、綺麗だからって意味じゃないけどさ、あの人の色んな考え方とか知って、尊敬した」
ほほぅ、なんて言いながら笑顔で、ダブダブ水玉パジャマ姿の涼子が姿を見せた。あぁ、あぁ!今夜も可愛くて可愛い。
「私ももっと髪伸ばそうかな。そしたら少しは大人っぽくなる?」
まだ少し濡れた髪に指を絡め、涼子は言う。
「いいの、涼子は。美人じゃなくて可愛いまんまで」
それに髪を伸ばしたところで大人っぽくなる訳じゃあないしなぁ。
「悪かったわね、どうせ童顔」
「ダガソレガイイ!」
「ぶいっ」
腰に手を当てて、ブイサインをおれに見せる。まさかもう酔ったのか。
のろけ話でたいへんに申し訳ないが、本当に涼子は可愛い。見た目が可愛いのはまぁ、貴さんフィルタがかかっているのもあるけれど、周囲の評判を信じて良いならおれにはもったいないほどの可愛さだという。ほっときなさい。
けれど、おれにとってはもちろんそれだけじゃない。
いつもおれに安心をくれる。苛立った時も、落ち込んだ時も。いくら自分が辛くても、おれのことを気遣ってくれる。
たった一人の、本当に大切な人。
もっとおれのそばで笑ってて欲しい。誰かを気遣う笑みなんかじゃなくて、心からの笑顔が見たい。
そのためにどうすればいいのか、どうしたらその笑顔が得られるのか、おれは知ってる。
知ってるんだ……。
……そっか、そういうことか。
何か、目隠しがとれた気分だ。おれはペンを置いて、電話を手に取る。
「あ、
何だか大変なことになってしまいそうな予感がする。そのためにも明日一日は集中したい。一緒に練習できなくて連中には悪いけれど、目先の楽しみよりきっともっと大きなお楽しみが出来上がると思うから。
『了解。今日はどうだったの?美樹と会ったんでしょ?』
「うん。凄くいい人でさ、かっこいい人だったわ」
隣で聞いてる涼子が何となく怖い気がする。……気のせいだろうか。
『そうね。何か参考になった?』
「うん、色々とね。結局決定打、ってのはおれが打たなきゃいけないことじゃん?それが打てたんだわ。だから、必ず曲は上げる。……それと、あの野郎に出くわした」
胸くそ悪ぃけど、あのナルシー野郎のことを香瀬ちゃんには言っておかなきゃならない。大事にはならなかったとはいえ、他の事務所の奴と一悶着あったんだから。
『アノヤロウ?』
「名前知らないんだけど、茶髪で、長髪で、ソバージュで、がなり声出す男。すっげぇヤな野郎」
『
「そうそう、そやつ」
知らないんじゃなくて忘れてただけだったわ。
『何かあった訳ね。あいつ、いつも美樹のこと認めないって言ってるから』
「そうそう、すんげぇ失礼なことばっか抜かしやがるから、ぬっ殺してやろうかと思ったけど、貴さん大人なのでいろいろ我慢した」
『素性は明かさなかったでしょうね。
「そりゃもうもちろん、ってよりそんな余裕なかったな」
正直言って毛頭もなかった。そんな考え。そんなに器用に生きられる人間じゃないですからね、おれは。
『デビューしたら必ず目付けられるわよ』
「上等」
ま、ぶっちゃけ弱みも握ってる訳だし、当然負ける気なんて毛頭もない。あんな奴が出してる音なんて音楽じゃない。最低のノイズだ。
「じゃあさ、おれこれから曲創り入るから」
『うん、頑張れ。期待してる』
「へへ、頑張る。じゃね!」
通話を終えて、フォローフォローっと。
「涼子、ありがと。おかげでカッチョイー曲創れそうだよ」
そう言っておれは涼子の頭に手を乗せる。
「?」
伝わらない、かな。おれは口で説明するかわりに、軽く涼子の頭を抱き寄せた。……や、こっちの方が恥ずかしかったわ。やめときゃよかった。
「なんだか判らないけど、たかのお役に立てたんなら、良かった」
ひゃあ、恥ずかしい!
「うん、頑張っちゃうぜー!」
照れ隠しで矢鱈と明るく言ってしまったけど、とにもかくにも、おれはギターを抱えつつペンを取り、ノートに詞を書き始めた。
おれのやり方。おれがどうしたら良いのか判らなかったせいか、おれがおれである、とか考え過ぎた時点でもうそれは間違いだったんだ。基本的におれという人間はのーてんきばかで、深く物事を考えれば考えるほど悪い方に進んでしまう人間だったんだ。
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