第32話 ハムスター



 週明けの月曜日。前に雪音に話した通り、黒板事件の犯人を炙り出す為に、こちらもつまらない落書きでもしてやろうか。そんなことを考えて、朝練の生徒が登校するよりも早く、学校にやってきた。


「さて、適当な教室にでも行くか」


 落書きする内容は既に決めていた。つまらない誰も傷つけないような内容を、無作為に選んだ教室に書き残す。それを皆が事件に飽きるまで続ければ、真犯人の動きが見えてくる筈だ。


「……向こうが動かないなら、別にそれでいいんだけどな。俺も別に、犯人探しがしたい訳じゃないし」


 小さく呟いて、一階の1年生の教室の前で足を止める。……けれど俺がその教室に入る前に、声が響いた。


「あれ、千里じゃねーか。今日はまた、随分と早いな」


 親しげに手を上げてこちらに近づいてくるのは、村上くん。……しまった。誰かに見つかってしまった以上、軽率な行動はとれない。


「……おはよう。村上くんの方こそ、早いね」


「俺は黒板事件の犯人を見つける為に、朝の見回りをしてたんだよ。そうすりゃ、ノコノコやってきた犯人を捕まえられるかもしれないだろ? ……って、まさか千里も同じこと考えて見回りしてたのか?」


「……まあ、そんなとこ。よく気づいたね」


 適当に笑って誤魔化す。まさか、俺も落書きをしにきたとは言えない。


「なんだよ、考えることは一緒だな。だったら、一緒にパトロールしようぜ? 1人だと退屈してたんだよ」


 なし崩し的に、一緒に行動することになってしまった。別に、油断していた訳ではない。こうやって誰かと遭遇する可能性も考えて、警戒はしていたつもりだ。……でも、本気で警戒するなら、呑気に廊下なんて歩くべきではなかった。


 雪音との休日が楽しかったから、気が抜けていたのだろうか?


「……でよ、千里。最近さ、紗枝の奴にどれだけメッセージ送っても、既読すらつかないんだよ。これってもう、脈なしなのかな?」


 こちらの気も知らず、村上くんは親しげに話しかけてくる。


「村上くんと紗枝……伊織さんは、幼馴染なんだっけ?」


「そう。ガキの頃から一緒で、ガキの頃から……まあ、あれだよ。初恋だったんだよ」


「それで今も好き、と。いいじゃん、青春じゃん」


「それがよくねぇんだよ。あいつは昔から、俺のことを男として見てねぇし。高校に入ってからは詩織さん一直線で、メッセージに既読もつかねぇ。それどころは最近は詩織さんに敵対する奴を呼び出して、恐喝まがいのことをする」


「だから心配で、君もそばに居たのか。……ま、それでも被害者からすれば立派な共犯だけどね」


「……悪かったよ。でもあの時は、お前だって無茶苦茶言ってたじゃねーか」


「あれは正当防衛だよ」


 でも確かに、伊織さんは危うく見えた。しかも今は、その取り巻き同士で派閥争いをしている。


「なあ、村上くん。君はこうやって犯人探しをする前に、伊織さんと話をした方がいいんじゃないか? あの子このままだと、取り返しのつかないことをするかもよ」


「分かってるけど、学校で声をかけても無視されるし、さっきも言ったけどメッセージには既読もつかない。ほんと、どうすりゃいいんだよ」


「もう脈なさそうだし、諦めて別の子に乗り換えたら?」


「そんな簡単じゃねぇんだよ! 俺はどうにかして、紗枝に振り向いて欲しいんだよ……。あいつじゃないと、ダメなんだよ」


「純情だな。上手くいくことを願ってるよ」


「他人事だな。もっとこう、明確なアドバイスをくれよ。お前、モテるんだろ?」


「いや、俺は──」


 そこで人影が見えた。いや、向こうもこちらに気づいたようだ。一瞬、驚いたような顔をした少女は、そのまま走ってこちらに近づいてくる。


「こんなところで会うとは奇遇だね、部長さん」


 見えた人影は、演劇部の部長である三島さん。金曜に見た時と同じ派手な革ジャンを羽織っていたから、すぐに彼女だと分かった。


「すまない。急で悪いんだが、ちょっと君たちに手伝って欲しいことがあるんだ」


 なんだか焦燥した様子の三島さん。もしかして、また黒板に落書きでもされていたのだろうか? そう思ったが、三島さんの口から出た言葉は、完全に想定外のものだった。


「実は……中佐がいなくなったんだ」


「中佐って、ハムスター?」


「そう。僕はいつもこの時間に、彼女の様子を見に部室に行くんだ。なのに今朝は、どうしてか部室の扉が開いていて……。それで嫌な予感がして慌てて中を確認したら、中佐がいなくなってたんだ!」


 俺の肩を掴んで、今にも泣き出しそうな顔をする三島さん。余程あのハムスターが大切なようだ。


「落ち着いて、三島さん。ハムスターは確か、寒さに弱い。だからいつも、部室の暖房をつけっぱなしにしてたんだろ?」


「……うん」


「そんな寒さに弱いハムスターが、こんな部室から離れた場所まで来るとは思えない。とりあえず部室に戻って、部室の中や周りをよく探そう。そうすればきっと、すぐに見つかるよ」


「…………そうだな。すまない、取り乱していたようだ」


 泣きそうな三島さんをなんとかなだめて、演劇部の部室に向かう。雪音も気に入っていたハムスター。流石に関係ないと見捨てることはできない。


「やっぱすげぇよな、千里は。何があっても、落ち着いてる」


「……どうかな」


 感心した様子の村上くんに、誤魔化すような言葉を返す。所詮は他人事だからな、とは言えない。


「……中佐は、捨てられてたんだ」


 早足で演劇部に向かう途中、三島さんは小さな声で呟く。


「彼女は去年、近所の公園に捨てられてたんだ。ボロボロの檻に入れられて、今にも死んでしまいそうだった彼女を僕と伊織さんと夏目さんの3人で見つけた」


「どうして、演劇部で面倒を見てるの?」


「うちの家は、お父さんが厳しくてペットは飼えない。夏目さんや伊織さんの家は、ペット禁止のマンションだから駄目。……他に場所がなかったんだ」


「友達とか、誰か引き取ってくれる人はいなかったの?」


「僕たちも、面倒を見てくれる人を学校やネットで探し回ったんだ。けど、弱っていて人に懐かないハムスターなんて、誰も引き取ってはくれなかった」


「それで、演劇部で面倒を見ることになったのか。学校に許可は取ったの?」


「もちろんだ。流石に、隠し通すことなんてできないからね。なんとか先生を説得して、ようやく中佐も安心できる場所を見つけられたのに、何で……」


「……大丈夫。きっと見つかるよ」


 慰めの言葉は嘘ではなかった。でもきっとこれは、誰かが悪意を持って行ったことだ。ハムスターが自分で檻を開けて脱走した可能性もなくはないだろうが、それよりも誰かが悪意を持って檻を開けたと考える方が自然だ。


 問題は誰が何の為に、そんなことをしたのか。これが黒板事件に関連した出来事なら、犯人は致命的なミスを犯した可能性がある。


「……いや、考えるのは後だな」


 演劇部についた俺たちは、3人で手分けして中佐を探した。ハムスターが隠れそうな隙間や物陰。餌を置いて誘い出そうとしたり、いろんなことをして小さなハムスターを探し回った。


「……見つからないな」


 けれど結局中佐の姿はどこにもなく、時間だけがただ流れる。


「どこにもいねぇよ、千里。まさかもう、死んでるなんてことは──」


「馬鹿を言うな! 中佐が死ぬなんてそんなこと、ある訳ないっ!」


「だ、だよな。分かってるって……」


 三島さんが村上くんに掴みかかる。村上くんは本当に空気が読めない奴だ。そんなだからモテないんだぞと言いたいが、今は自重しておく。


「でも、これだけ探しても居ないってことは……」


 村上くんの言う通り、どこかで死んでしまったのか。それともやっぱり、誰かが連れ去ったのか。……考えられるのは、この演劇部を恨んでいる人間の犯行。三島さんやその友達を傷つけようと考えた人間がいる。


 そしてそれは、演劇部でハムスターを飼っていることを知っている人間。


「なあ、三島さん。最近、俺たち以外にこの部室に来た奴って誰かいる?」


「……うん? えーっと、それは……」


 俺の問いに、どこか言いにくそうに目を瞑る三島さん。それで誰が来たのか想像できてしまったが、俺は黙って彼女の言葉を待つ。


 しかし彼女が口を開く前に、部室の扉が開いた。


「あ、千里! ここにいたんだ! 大変だよ、また黒板に落書きが!」


 珍しく慌てた様子の雪音が、息を切らしながらスマホに撮った写真をこちらに見せてくれる。


「そんなに慌ててどうしたんだよ。……って、これは──」


 雪音のスマホに表示されているのは、黒板に書かれた落書きの写真。一瞬『ああ、またか』と思ってしまったが、そこに書かれていた内容に、流石の俺も眉をひそめた。



『未白 千里が演劇部のハムスターを殺した』



 こちらに向けられた明確な悪意。俺は……笑わなかった。


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